戦国時代、商人が荷物を運び、旅人が街道を通り、船が港へ入るとき、さまざまな場所で通行や荷物に対する負担が求められることがあった。

その徴収に関わった施設や仕組みが「関所」であり、関所などで徴収された銭が「関銭」である。

ただし、戦国時代の関所を、江戸時代の箱根関所と同じものだと考えるのは正確ではない。

中世の関所には、道路を通る商人から銭を集めるものもあれば、港へ入る船の積荷に負担を課すものもあった。

関銭を受け取る権利も、武家だけに限られなかった。寺社、公家、その他の権利者が、関銭を重要な収入源としていた例がある。

一方、関所の増加は商人や地域社会に負担をもたらし、関所の新設を禁止したり、撤廃を求めたりする動きも生まれた。

戦国大名の織田信長や、後の豊臣秀吉による交通政策を考える際にも、関所と関銭の問題は重要である。

この記事では、関所の仕組み、誰が関銭を徴収したのか、具体的な徴収記録、撤廃政策による変化までを解説する。

1. 戦国時代の関所と関銭の違い

まず、関所と関銭を区別しておこう。

用語 基本的な意味 注意点
関所 人・船・物資の通行に関わる徴収や管理を行う場所・施設 中世と近世で主な機能や運営制度が異なる
関銭 関所などで徴収する金銭 税率や徴収額は全国一律ではない
関料 関を通る際などに課される負担 文書によって関銭などと関連して用いられる
升米 兵庫関などで知られる積荷に対する徴収の仕組み 具体的な計算や性格には研究上の議論がある
置石 兵庫関の権利や徴収方式に関わる用語 升米と同じ方式の課税とは限らない
関所撤廃 特定地域などで関を停止・廃止する政策 全国のすべての関を一度に消滅させた意味ではない

中世の関所は、現在の税務署や税関、警察署のどれか一つに単純に当てはめられる施設ではない。

通行を管理することと、そこから収入を得ることが結びついていた。

関所の権利を理解するには、施設の場所、徴収対象、権利者、実際の徴収担当者を分けて考える必要がある。

2. 関所はどこに設けられたのか

中世の関所は、交通が一定の場所に集中する地点と深く関係していた。

街道の要所、川の渡し、港湾、交通路の分岐点などは、そのような場所となり得た。

商人が遠隔地に商品を運ぶ場合、地形や道の整備状況によって通れる経路が限られることがある。

船で荷物を運ぶ場合も、安全に入港できる港や荷揚げ場が重要だった。

こうした交通上の要点では、人や物資の移動を把握しやすかった。

関所で徴収を行う側にとっても、通行者が集まる場所に施設を置く意味があったのである。

ただし、すべての峠や橋、港に関所があったわけではない。

また、同じ地点に置かれた関が、長期間同じ権利者によって運営されたとも限らない。

戦乱や領主の交替、権利をめぐる争いによって、その運営は変化することがあった。

3. 関所を設置したのは誰か

関所の権利は、一人の全国的な支配者によって統一管理されていたわけではない。

中世には、朝廷、寺社、公家、武家などの権利関係が重なり合っていた。

ある関所について、収入を得る権利が特定の寺院に認められていても、実際に通行者と向き合って銭を集める人物は別である場合があった。

また、関所の権利は政治的な命令や寄進、先例などによって説明された。

しかし、権利を文書で認められていることと、現地で安定して徴収できることは同じではない。

他の勢力が同じ地域へ介入したり、商人や住民が徴収に抵抗したりする場合もあったからである。

関所を理解する際には「誰が銭を取ったのか」という質問を、少なくとも二つに分ける必要がある。

一つは、関銭収入を受け取る権利者は誰か。

もう一つは、現地で徴収を担当したのは誰か、という問題である。

両者が常に同じ人物や組織だったとは限らない。

4. 寺社が関銭を受け取った理由

寺社は、中世社会で宗教活動だけを行っていたわけではない。

寺院や神社の大規模な建物を維持するためには、修理や建設に必要な資材と費用が求められた。

また、僧侶や神職の活動、寺社に所属する人々の生活にも継続的な経済基盤が必要だった。

寺社が関銭などの収入を得る権利を持つことは、こうした経済活動と関わっていた。

具体例として重要なのが、摂津国の兵庫関である。

現在の神戸港付近に位置した兵庫関では、東大寺が関係する北関と、興福寺が関係する南関が知られている。

東大寺の関係史料には、兵庫関の徴収権が寺社施設の修造料と結びついていたことが記されている。

ただし、兵庫関の事例をもとに、全国の関銭がすべて寺社修繕費に使われたと考えてはいけない。

収入の権利や用途は、関所ごとに確認する必要がある。

5. 兵庫関とはどのような関所だったのか

兵庫関は、瀬戸内海の水運と結びついた重要な関所だった。

西日本から京都方面へ物資を運ぶ際、瀬戸内海を利用した船舶輸送は大きな役割を果たした。

兵庫津は、こうした海上交通の要点の一つである。

兵庫関では、船舶や積荷に関係する徴収が行われ、その記録が残された。

兵庫北関は東大寺の権利と関係し、兵庫南関は興福寺の権利と関係する。

同じ兵庫の港に関わるものであっても、北関と南関を一つの同一組織として扱うことはできない。

また、関銭を徴収する権利がどのように成立し、誰によって認められたのかも重要だった。

東京大学史料編纂所が刊行した東大寺文書の解説では、延慶元年(1308年)に兵庫関の升米・置石に関係する権利が東大寺へ寄進された経緯が説明されている。

これは戦国時代より前の出来事である。

したがって、兵庫関の制度史は、中世を通じて交通と寺社財政がどう結びついたのかを考える事例として利用する。

6. 兵庫北関入船納帳とは何か

関銭の実態を考えるうえで、特に重要な史料が『兵庫北関入船納帳』である。

この史料は、文安2年(1445年)を中心に、兵庫北関へ入った船と徴収に関係する情報を記録している。

一般的な解説では、船籍地、積荷の種類や数量、関料、納入日、船頭、船主や問丸などが確認できるとされる。

これにより、単に「船から税を取った」という説明を超えて、どのような船が、どのような荷物を運び、どのような負担を課されたのかを検討できる。

ただし、史料のすべての項目が現在の統計表と同じ形式で統一されていると考えるべきではない。

記録の目的、欠けている部分、帳簿の種類なども踏まえる必要がある。

また、この史料は1445年のものであり、一般に戦国時代の始まりとして取り上げられる時期より前に成立した。

そのため、戦国時代の商業や関所を理解するための前史であり、1570年代の税額を直接示す資料ではない。

7. 入船納帳から何が分かるのか

入船納帳には、当時の海上交通と経済活動を考える多くの手がかりが含まれる。

第一に、船がどの地域に関係していたのかを知ることができる。

第二に、積荷の種類や数量から、港を通過した商品について考えることができる。

第三に、関料の記録から、課税方法や負担の違いを検討できる。

第四に、船頭や船主、問丸などの記載を通じて、物資の輸送に関わった人々の役割を考えることができる。

重要なのは、これらの情報を単純に全国の生産量や輸送総量へ換算しないことである。

兵庫北関を通らなかった船、記録に残らなかった取引、陸上輸送なども存在する。

したがって、納帳が示すのは特定の関所で把握された船舶と徴収の記録であり、当時の経済全体をそのまま完全に記録したものではない。

それでも、中世の商業と交通を具体的に研究できる非常に重要な史料である。

8. 升米と置石の違い

兵庫関の関銭を理解する際には、升米と置石を区別する必要がある。

升米は、積荷に関係する徴収の仕組みとして知られる。

一方、置石は、船ごとの一定額の徴収や施設の維持と関係して説明される。

ただし、歴史研究では、帳簿に記された徴収額をどのように解釈するのかについて議論がある。

国立歴史民俗博物館の藤田裕嗣による研究では、『兵庫北関入船納帳』に現れる関銭について、従来の百分の一税としての升米という見方を再検討している。

その研究では、積載物品に関する負担に加え、船一艘当たり一定額が加算されていた可能性が論じられている。

この一定額を置石と結びつける解釈が提示されているが、研究上の仮説として理解することが重要である。

つまり、「升米は全国どこでも商品価格の1%」「置石は全国どこでも45文」といった説明は正確ではない。

特定の史料に対する研究上の復元値を、別の地域や時代へ無条件に当てはめてはいけない。

9. 関銭はどのように計算されたのか

関銭の徴収方法は、関所や徴収対象によって違っていた。

物資の数量や価値に関係する負担もあれば、船や通行単位に関係する負担もあった。

また、支払いを免除された場合や、特別な取り扱いがあった場合も考えられる。

『兵庫北関入船納帳』には、こうした徴収を具体的に検討できる記録が残されている。

しかし、そこに見える計算方法を、すべての関所で共通する公式として紹介することはできない。

例えば、ある関所で積荷の価値に対して一定の割合を用いたと考えられても、別の関所が同じ方式だったとは限らない。

同じ関所であっても、荷物の種類や権利関係によって違いが生じる可能性がある。

したがって、関銭額を復元する際には、どの史料のどの記録を用い、どのような仮定で計算したのかを示す必要がある。

現代の税率表のように一律の金額を並べるだけでは、中世の実態を十分に説明できない。

10. 商人は関銭をどのように負担したのか

商人が商品を遠くへ運ぶ場合、運搬に必要な費用は商品の販売条件に影響した。

船や馬、人手を確保するための負担に加え、交通の要所で関銭などが求められる場合もあった。

それらは商品を運ぶ際の費用の一部となり得た。

ただし、関銭の全額を商人本人が最終的に負担したとは限らない。

取引相手との価格交渉、輸送業者との契約、商品の売値への反映など、負担がどのように分配されたのかは個別の条件によって異なる。

また、関銭が課されたからといって、必ず商品の値段が同じ割合で上昇したとは説明できない。

商品の種類や輸送距離、市場の状況によって影響は変わるためである。

それでも、同じ商品を運ぶ際に複数の関所で負担が生じれば、商業活動への影響を考える必要がある。

関所と関銭は、中世の商人にとって政治的な制度であると同時に、実際の経済活動に関わる問題だった。

11. 問丸・馬借・運送に関わる人々

中世の流通には、商品を売買する商人だけでなく、輸送や荷物の取り扱いに関わる人々が存在した。

問丸は、港や流通拠点で荷物の取り扱いや取引に関係した存在として知られる。

馬借は、馬を用いた陸上輸送に携わる人々である。

船頭、問丸、馬借、商人は、それぞれ異なる役割を担いながら物資の移動を支えた。

ただし、これらの呼称を現在の運送会社、税関業者、卸売業者にそのまま対応させることはできない。

また、同じ人物や組織が複数の役割を兼ねる可能性もあり、中世の職能を現代的な職業分類へ厳密に整理することには限界がある。

関所で徴収が行われるとき、荷物の運搬者と所有者が異なる場合には、誰が実際に支払うのかが問題となることもあったと考えられる。

その具体的な取り決めは、史料が確認できる範囲で判断する必要がある。

12. 関所が増えると何が問題になるのか

関所が増えることは、地域の権利者にとって新たな収入を得る可能性を持っていた。

しかし、通行者や商人にとっては負担が重なる場合がある。

新たな徴収を求められれば、従来の経路を使う条件が変わる。

また、徴収の根拠や範囲が不明確な場合には、争いの原因となることもあった。

特に、同じ地域で複数の権利者が異なる負担を求めれば、交通を利用する人々にとっては複雑な状況になる。

もっとも、関所が存在することによって、必ず流通が停止したわけではない。

実際には、負担を含めて商業活動が続けられた場合もあった。

そのため「関所が一つ増えると、商品の価格が必ず何%上昇する」という一律の説明はできない。

関所の増加が問題となるかどうかは、徴収額、交通量、商品、地域の政治状況によって異なった。

13. 関銭の免除とは何か

関所で関銭を支払わない取り扱いが認められる場合もあった。

こうした免除は、特定の人物や寺社、物資などに関わる権利として説明されることがある。

ただし、免除の根拠となる文書があっても、その適用範囲を確認しなければならない。

ある関所で免除されたことが、全国のすべての関所での免除を意味するとは限らない。

また、免除される物品や通行の目的が限定されていた可能性もある。

兵庫北関入船納帳には、関料の免除について理由を記録した例があることが、歴史事典で説明されている。

このような記録は、関銭が例外なく一律に徴収された制度ではなかったことを示す。

もっとも、個々の免除の背景を理解するには、権利者との関係や関連文書も調べる必要がある。

14. 関銭をめぐる争いと権利関係

中世の関銭には、単なる金銭の徴収以上の問題があった。

関銭を得る権利そのものが、政治的・経済的な価値を持っていたからである。

寺社が関銭収入を重要な財源と考えている場合、関所の停止や撤廃はその収入を減らすことになる。

そのため、関所を撤廃したい勢力と、徴収権を維持したい勢力の間で対立が起き得た。

東京大学史料編纂所の東大寺文書解説でも、兵庫関の権利をめぐる相論や、関の停止への抗議が紹介されている。

これは、関所の運営において権利関係の調整が重要だったことを示している。

ただし、この事例も兵庫関に関係する史料から分かる内容である。

すべての関所で同じ争いが同じ年代に起こったわけではない。

15. 山城国一揆と新しい関所の禁止

文明17年(1485年)、南山城では国人や土民が結合して畠山氏両軍の撤退を求めた。

これが山城国一揆である。

一揆に関係する共同規範では、新たな関所を設けないことが重要な要求として説明される。

この点は、関所が地域社会の生活や交通と深く関係していたことを示している。

軍勢の撤退だけでなく、通行や物資輸送の負担をどのように扱うかも、地域の秩序に関わる問題だった。

ただし、山城国一揆の新関禁止を、山城国に存在したすべての関所を直ちに完全廃止したことと同一視してはいけない。

新しい関の設置を禁止する要求と、既存の徴収権を全面的に消滅させる政策には違いがある。

また、国中掟法の内容は資料によって整理の仕方が異なる。

実際にどの範囲まで実行されたのかを理解するには、地域と年代を確認する必要がある。

16. 戦国大名は関所をどう扱ったのか

戦国時代、各地の大名は領内の交通や市場を重視した。

領国の中で軍勢や物資を動かすことは、軍事上の問題でもあった。

商人が行き来し、城下町や市場が発展することは、領国の経済にも関係した。

そのため、大名が関所の徴収権や通行の条件に介入することがあった。

ただし、すべての戦国大名が一貫して関所を増やした、または撤廃したという説明はできない。

大名が特定の関所を廃止する場合もあれば、従来の権利を認めたり、必要な場所で通行を管理したりする場合もあった。

関所の政策は、その地域の寺社や有力者との関係、交通上の重要性、軍事情勢によって変わり得た。

したがって、戦国大名の交通政策を理解する際は、どの大名が、いつ、どの地域について命令を出したのかを見る必要がある。

17. 織田信長の関所撤廃とは

織田信長は、関所撤廃を進めた武将としてよく知られる。

しかし、「信長が日本中の関所を一度にすべて廃止した」という説明は適切ではない。

信長の権力が及ぶ範囲は時期によって変化し、朝廷や寺社、諸勢力の権利も複雑に存在していた。

関所撤廃に関係する命令を理解するには、その対象地域や徴収権の種類を確認する必要がある。

また、関所の撤廃は、信長の政策すべてが交通の完全な自由放任を目指したことを意味しない。

城下町の発展や商人の誘致には、特定の市場へ商業活動を集中させる政策も存在したからである。

信長の交通政策には、商人の負担を軽減する側面と、大名権力が交通や商業を再編する側面があったと考えることができる。

18. 関所撤廃と楽市楽座は同じか

関所撤廃と楽市楽座は、どちらも戦国大名の商業政策を考えるうえで重要な用語である。

しかし、同じ制度ではない。

政策 主な対象 重要な論点
関所撤廃 道路・渡し・港湾などの徴収地点 通行負担と徴収権の整理
楽市 市場や町での商業活動 市場の保護・商人誘致・課役の扱い
楽座 座の特権などに関係する政策 既存の商業上の権利と大名による再編
城下町政策 町の形成・住民・市場・交通 商業の集積、領主の統制、都市運営

例えば、特定の市場で商業上の特権を認めることと、街道上の関所を廃止することは、それぞれ別の問題である。

両者が同じ大名の政策に含まれる場合でも、その対象や目的は文書ごとに確認する必要がある。

楽市楽座を現代的な完全自由市場制度と同一視することも適切ではない。

大名が市場を保護すると同時に、商人がどこで営業し、どこに宿泊するかを指定する場合もあった。

19. 安土山下町中掟書が示す交通政策

天正5年(1577年)、織田信長は安土の城下町について掟書を出した。

これは「安土山下町中掟書」と呼ばれる重要な史料である。

文化遺産オンラインの解説によれば、この掟書には十三か条があり、安土の町を楽市とすること、座の特権や諸課役の扱い、商人の往来や宿泊に関する規定などが含まれている。

特に、中山道を通る商人に安土での宿泊を求める規定は重要である。

商人の活動を保護すると同時に、特定の城下町へ人や取引を集める意図が読み取れるからだ。

この事例は、信長の商業政策を「すべての規制をなくすこと」と理解できないことを示している。

関所を撤廃して通行負担を減らす政策と、城下町へ商業を集める政策は併存し得た。

ただし、この掟書自体を、全国の関所をすべて廃止したことを証明する文書として扱ってはいけない。

20. 豊臣秀吉の関所政策

織田信長の死後、豊臣秀吉も交通と商業の支配関係を再編していった。

研究では、秀吉が京都周辺などで関所の撤廃を進めたことが論じられている。

ただし、秀吉による政策を、全国のあらゆる通行負担が同日に消滅した命令として理解すべきではない。

政治権力の及ぶ範囲や、従来からの徴収権の扱いは時期によって異なる。

また、関所を撤廃することと、政権が商業・交通に一切介入しなくなることも別である。

秀吉の時代には、城下町の形成、交通網の整備、商業の集積など、さまざまな都市・経済政策が進められた。

関銭をめぐる政策も、そうした広い再編の中で理解する必要がある。

具体的な撤廃命令の年代や適用範囲については、対象となる地域と史料を明示できる場合に限って断定する。

21. 江戸時代の関所とはどう違うのか

「関所」と聞いて、江戸時代の箱根関所などを思い浮かべる人も多いだろう。

しかし、戦国期以前の関所と江戸幕府の関所を、同じ制度がそのまま継続したものとして扱うことはできない。

中世の関所では、通行や積荷に対する徴収権が重要な役割を持つ例があった。

これに対し、江戸幕府の関所では、人や物の移動を管理する政治・軍事上の機能が重要となった。

もちろん、江戸時代にも交通に関わる負担や費用が存在した。

したがって、中世の関銭が廃止されたから江戸時代の旅行費用がすべて無料になったわけではない。

また、江戸幕府の関所で行われた人物の確認などを、中世のすべての関所へそのまま当てはめることもできない。

制度の名称が同じでも、時代によって主な目的や権限が変化したことを理解する必要がある。

22. 関所撤廃で商業は発展したのか

関所撤廃には、商人の通行負担を軽減する可能性があった。

特定の経路で徴収がなくなれば、輸送の条件が変化するからである。

その結果、商人が往来しやすくなる場合も考えられる。

しかし、関所を撤廃したことだけで、必ず市場が発展したとは断定できない。

商業には、商品の需要、道路や港湾の状態、治安、商人の保護、領主の政策など、多くの条件が関わっていた。

また、徴収がなくなった地域の関所権利者にとっては、収入を失う可能性もあった。

商人や買い手にとっての利益と、従来の徴収権を持つ寺社などの利益は一致するとは限らない。

したがって、関所撤廃の歴史は単なる規制緩和の成功物語ではなく、交通をめぐる権利と利益の再配分として考える必要がある。

23. 関所と兵站・軍事輸送の関係

戦国時代の軍勢は、人だけでなく食料、武具、馬などを必要とした。

そのため、道路や河川、港湾の利用は軍事活動にも深く関わっていた。

しかし、関所を通る軍勢が常に商人と同じ関銭を支払ったわけではない。

軍事的な権限や通行の許可、地域の支配関係によって取り扱いが違っていた可能性がある。

また、軍勢の通行と商品輸送では、目的や規模、必要な手配も異なる。

関所撤廃が軍事輸送へどのように影響したかを具体的に判断するには、大名の交通命令や軍事輸送に関わる史料が必要である。

「関所を撤廃したので軍勢の移動速度が必ず何倍になった」という計算はできない。

一方、交通負担や通行権限の整理が、広い地域を支配する大名にとって重要だったことは理解できる。

24. 関所があった場所を現在特定できるのか

現在の地図には、関、関所、関銭などに関係する地名が残っている場合がある。

また、古い文書や地図に関所の位置が記されていることもある。

しかし、地名だけで中世の関所の正確な位置や構造を確定できるわけではない。

道路や河川の流れは時代によって変わることがある。

同じ地域でも、関所の移転や徴収主体の交替が起こる可能性があった。

また、木造の施設や仮設的な建物の場合、現在まで明確な遺構が残らないこともある。

関所の位置を復元する際は、文書、地名、地形、発掘調査などを組み合わせて検討する必要がある。

観光案内などで示された位置も、史料で確定した地点なのか、推定された場所なのかを区別して読むことが大切である。

25. 関所と関銭の年表

年代 主な出来事・制度
1308年 兵庫関の升米・置石に関係する徴収権が東大寺に寄進されたとされる
1445年 『兵庫北関入船納帳』に船舶・積荷・関料などが記録される
1467年 応仁の乱が始まり、各地の政治・交通状況が変化する
1485年 山城国一揆で新たな関所の禁止が共同方針として掲げられる
16世紀 戦国大名による領国交通・商業政策が展開
1567年 織田信長が美濃加納の市場に関係する制札を出す
1577年 信長が安土山下町中掟書を発給
1582年以降 秀吉による京都周辺などの交通・関所政策が進む
江戸時代 幕府の交通統制と関所制度が整えられる

年代の異なる制度を一つの全国共通制度として結びつけてはいけない。

この年表は交通と徴収権の変化を理解するための主要事例を整理したものである。

26. よくある質問

Q1. 戦国時代の関所とは何ですか?

道路や港などで通行や積荷に関わる徴収・管理を行う施設や仕組みです。近世の関所とは役割が異なる場合があります。

Q2. 関銭とは何ですか?

関所などで通行者や物資に課された金銭的な負担を指します。徴収額や対象は地域によって異なりました。

Q3. 関銭は誰が徴収していましたか?

寺社、公家、武家などが徴収権に関わりました。権利者と現地の徴収担当者が同じとは限りません。

Q4. 関銭は全国一律の税金でしたか?

全国共通の一定税率が存在したわけではありません。関所、積荷、権利関係などによって取り扱いが異なりました。

Q5. 兵庫北関入船納帳とは何ですか?

1445年を中心とする兵庫北関の入船・徴収記録です。船籍地、積荷、関料、船頭、問丸などの情報が残されています。

Q6. 升米と置石は同じものですか?

同じではありません。兵庫関では異なる徴収の権利・方法に関係する用語です。具体的な関銭の解釈には研究上の議論があります。

Q7. 山城国一揆は関所をすべて廃止しましたか?

新たな関所を設けないという要求が知られていますが、すべての既存関所の完全撤廃と同一視することはできません。

Q8. 織田信長は全国の関所を廃止しましたか?

信長は関所撤廃を進めましたが、全国すべての関所を一度に廃止したと説明するのは適切ではありません。

Q9. 関所撤廃と楽市楽座は同じ政策ですか?

同じではありません。前者は通行・徴収権の整理、後者は市場や座の特権などに関わる政策です。相互に関係する場合はあります。

Q10. 江戸時代の関所は戦国時代の関所と同じですか?

名称は共通しますが、主な目的や制度は異なります。中世の関銭徴収と、江戸幕府による通行統制は区別して理解する必要があります。

27. まとめ

戦国時代の関所と関銭は、商人や旅人の通行に関係するだけでなく、寺社や武家などの財政と政治的な権利にも深く結びついていた。

兵庫関のように、寺社が徴収権を持ち、船舶の積荷から関料を得ていた例もある。

1445年の『兵庫北関入船納帳』は、その具体的な姿を示す貴重な史料である。

一方、関所の新設や徴収は地域社会に負担をもたらすことがあり、山城国一揆では新関の禁止が重要な要求となった。

戦国大名の時代には、交通をめぐる権利を整理し、商業活動を支える政策が進められた。

織田信長や豊臣秀吉の関所政策は、そのような変化の中で理解できる。

しかし、関所撤廃によってすべての徴収や交通管理が消えたわけではない。

また、関所を撤廃する政策と、城下町へ商人を集める政策は併存し得た。

戦国時代の関所を学ぶことは、戦争と政治だけでなく、人と物がどのように移動し、その移動を誰が管理し、誰が利益を得ていたのかを理解する手がかりになる。

28. 主な史料・参考文献

1. 藤田裕嗣「兵庫北関入船納帳にみえる関銭をめぐる考察―升米説の再検討」『国立歴史民俗博物館研究報告』。
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2302

2. 『日本歴史地名大系』『山川 日本史小辞典』「兵庫北関入船納帳」解説。
https://kotobank.jp/word/兵庫北関入船納帳-864075

3. 東京大学史料編纂所『大日本古文書 家わけ第十八 東大寺文書之二十』刊行解説。
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/43/pub_komonjo-todaiji-20.html

4. 国立国会図書館サーチ「室町前期の兵庫関―二つの入船納帳の性格及成立事情」。
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I2783431

5. 文化遺産オンライン「安土山下町中掟書」。
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/197586

6. 文化遺産オンライン「楽市楽座制札」。
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/158651

7. 『日本大百科全書』など「関所」の解説。
https://kotobank.jp/word/関所-86804

8. 国士舘大学機関リポジトリ所収研究論文(秀吉の都市・交通政策を論じる章)。
https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/record/10387/files/kdoc_k_00037_01.pdf

9. 国立国会図書館レファレンス協同データベース「兵庫北関入船納帳の所蔵の有無」。
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000039797

なお『兵庫北関入船納帳』原本や、信長・秀吉の個別の関所撤廃令の全件逐語照合は実施していない。研究の要約と史料原文を区別して使用すること。