戦国時代の合戦を描いた映画やゲームでは、無数の兵士が槍を持って並んでいます。
その多くは、
足軽
として描かれます。
足軽と聞いて、
「農民が戦争のときだけ槍を持って参加した兵士」
というイメージを持っている人も多いでしょう。
あるいは、
「武士より身分が低い最下級兵士」
「雑兵と同じ」
「鉄砲や長槍を使う集団歩兵」
と考えている人もいるはずです。
しかし実際の足軽は、これほど単純ではありません。
室町時代から戦国時代へかけて、足軽のあり方そのものが変化しています。
雇われて戦う者。
地域社会から動員される者。
大名や武将に継続的に抱えられる者。
軍事技能を持つ者。
鉄砲や長柄を扱う集団。
さらに近世には、藩の組織へ組み込まれた足軽も存在します。
つまり、
「足軽」という一語が、すべての時代・地域で同じ身分・雇用形態・役割を意味したわけではありません。
そして重要なのは、
足軽=農民
でも、
足軽=専業武士
でもないことです。
足軽は、中世から近世へ軍隊が変化する過程を理解するうえで非常に重要な存在です。
この記事では、
- 足軽とは何か
- 足軽と農民は同じなのか
- 足軽と雑兵は何が違うのか
- 足軽は武士なのか
- 応仁の乱と足軽
- 戦国大名は足軽をどう利用したのか
- 槍足軽・鉄砲足軽とは何か
- 足軽大将とは何か
- 足軽は常備兵だったのか
- 兵農分離で足軽はどう変化したのか
を整理します。
Article 111で扱った兵農分離とも強くつながるテーマです。
足軽についての誤解と実像
| 誤解 | 実像 |
|---|---|
| 足軽=農民兵 | 農村動員・雇用兵・継続奉公人など複数形態 |
| 足軽=槍兵 | 長柄・弓・鉄砲など複数の装備 |
| 足軽=武士ではない | 時代・地域・奉公関係によって社会的位置が異なる |
| 応仁の乱で誕生 | 以前から徒歩兵等は存在し、応仁の乱で大量に活動 |
まず結論|足軽とは何者だったのか
最初に結論を整理します。
足軽とは、大まかには、
徒歩で戦う比較的軽装の下級戦闘員・軍事奉公人として、室町・戦国期の軍勢で大きな役割を果たした人々
です。
ただし、これだけでは不十分です。
足軽の出自や立場には幅があります。
たとえば、
- 村落・地域社会から動員された者
- 金銭や給付を受けて雇われた者
- 武将へ継続的に奉公する者
- 軍事技能を評価された者
- 大名直属組織へ組み込まれた者
などがあります。
時代が下るにつれて、戦国大名は足軽をより組織的に運用するようになります。
そのため、
15世紀の足軽と、16世紀後半の大名軍の足軽と、江戸時代の藩士組織の足軽を、まったく同じ存在として説明することはできません。
足軽を一つの固定身分として考えない
戦国時代の記事で最も危険なのが、
足軽は武士の下にある第○階級
のような固定階級表を作ることです。
Article 102で家臣団について説明した通り、戦国大名家には全国共通の組織図はありません。
足軽も同じです。
ある大名家では直属足軽として組織される。
別の地域では在地勢力が足軽を率いる。
必要なときに雇用される者もいる。
継続的に軍事奉公する者もいる。
したがって「足軽」という名称だけで、
- 収入
- 身分
- 雇用期間
- 武装
- 家格
を一律に決めることはできません。
「足軽」という名前は何を示すのか
「足軽」という文字を見ると、
足取りが軽い
という意味を連想します。
実際、重装備の武士に比べ、
軽装で徒歩による機動的活動を行う戦闘員という性格があります。
ただし、
軽装歩兵という近代軍の兵科名称
として完全に置き換えるのは注意が必要です。
中世の軍隊は、近代国家の軍隊のように、
歩兵科。
砲兵科。
騎兵科。
と制度的に完全分業されているわけではありません。
足軽という呼称には、
装備、戦い方、社会的立場、雇用関係
など複数の意味が重なっています。
足軽は農民兵だったのか
最もよくある疑問です。
結論から言えば、
足軽=農民兵と固定することはできません。
確かに、農村社会から軍事動員される人々は存在します。
百姓から足軽として戦いへ参加する者もいました。
しかし、すべての足軽が、
普段は田畑を耕し、戦争のときだけ招集される農民
だったわけではありません。
早島大祐『足軽の誕生』は、応仁の乱によって大量に姿を現した足軽について、故郷を離れて京都へ集まり、都市社会の中で生計を立てる人々として検討しています。
これは、
足軽を単なる村の臨時農民兵として考えるだけでは説明できない
ことを示しています。
農民と兵士を単純に二分できない
Article 111で見たように、中世社会を、
武士。
農民。
の二種類に完全分離して考えるのは適切ではありません。
地域社会には、
- 国人
- 地侍
- 土豪
- 被官
- 百姓
など、軍事と土地経営の双方に関わる人々が存在します。
さらに、戦争では戦闘員だけでなく、
- 人夫
- 荷駄
- 馬方
- 運送者
も必要です。
したがって、
農民が武器を持った瞬間に足軽になる
という単純な仕組みでもありません。
誰がどのような関係で動員され、どのような軍事奉公を行ったのかを見る必要があります。
足軽と雑兵の違い
「足軽」と「雑兵」は一緒に書かれることが非常に多い言葉です。
そのため、
足軽=雑兵
と考えがちです。
しかし完全な同義語として扱うのは避けるべきです。
雑兵は文字通り、
侍などの上層戦闘員に対して、軍勢を構成する下級兵士を広く捉える表現
として用いられます。
一方、足軽はその中で特定の軍事的・社会的形態を持つ人々として現れます。
西股総生『戦国の軍隊』でも、
「足軽と長柄」
と、
「侍と雑兵」
が別々の論点として扱われています。
つまり、
重なる部分は大きいが、機械的に同一語へ置換できない
と考えるのが安全です。
足軽と侍の違い
戦国軍隊では、「侍」と「足軽・雑兵」の間には大きな格差があります。
侍は、
- 知行
- 家臣
- 馬
- 武具
などを持ち、主君への軍役によって自らの部隊を構成する場合があります。
一方、足軽・雑兵はより下層の戦闘員として大量に動員されます。
西股総生は、戦国軍隊を、
支配階級に属する職能戦士としての侍
と、
大量に調達される足軽・雑兵
という二重構造として分析しています。
ただし、この整理もすべての地域・時期へ同じ形で当てはめるための固定階級表ではありません。
足軽は武士だったのか
「足軽は武士ですか?」
という質問には、
時代・地域・定義による
と答える必要があります。
戦国期の足軽には、一時的・非正規的な軍事奉公人もいます。
一方、時代が進むと、大名・藩に継続して仕える足軽も増えていきます。
江戸時代の藩では、足軽が武家奉公人として制度的に組織される例があります。
加賀藩についての研究では、藩直属の武家奉公人が、
- 足軽
- 小者
などに編成されていました。
したがって、
足軽は武士ではない
と時代を超えて断定することも、
足軽は全員武士だった
と断定することも適切ではありません。
足軽はいつからいたのか
足軽という存在は、応仁の乱で突然ゼロから誕生したわけではありません。
中世には以前から、
- 徒歩戦闘員
- 雑兵
- 武装した民衆
などが戦争へ参加していました。
しかし足軽が歴史上大きく注目されるのが、
応仁の乱
です。
早島大祐『足軽の誕生』も、応仁の乱を足軽が大量に登場する大きな転換点として扱っています。
したがって、
「足軽は応仁の乱で初めて生まれた」
ではなく、
応仁の乱で足軽が大量に活動し、その軍事的・社会的存在が際立った
と整理するのが適切です。
応仁の乱と足軽
応仁元年、1467年に始まった応仁の乱では、京都が長期間にわたって戦場になりました。
大名たちは大量の兵力を必要とします。
そこで足軽が多数利用されました。
足軽は、
- 奇襲
- 放火
- 略奪
- 市街戦
など、従来の武士の戦いとは異なる行動でも力を発揮します。
都市での戦争では、重装した騎馬武者だけではなく、
軽快に動く徒歩兵
が重要です。
応仁の乱を通じ、足軽は戦争を構成する重要な軍事力として存在感を強めていきました。
京都に集まった足軽たち
応仁の乱期の足軽を、
京都周辺の農民がそのまま徴兵された
とだけ説明することはできません。
早島大祐の研究は、
なぜ人々が故郷を離れたのか。
京都で誰を頼ったのか。
どこに住んだのか。
どう生計を立てたのか。
という社会史的問題から足軽を分析しています。
つまり足軽の中には、
戦争そのものを生計機会として都市へ流入する人々
もいたと考える必要があります。
ここが「足軽=農民兵」というイメージとの大きな違いです。
なぜ足軽は戦場で重宝されたのか
足軽には複数の利点があります。
機動性
比較的軽装なので動きやすい。
数を集めやすい
侍だけで大軍を作るより、多くの人員を集められます。
集団行動
長柄・弓・鉄砲などを集団で扱うことで戦力になります。
多様な任務
戦闘だけでなく、
- 警備
- 偵察
- 築城
- 陣地作業
などにも利用できます。
戦国大名の軍隊が大規模化するにつれ、こうした兵力は不可欠になりました。
足軽と略奪のイメージ
応仁の乱の足軽には、
- 略奪
- 放火
という強烈なイメージがあります。
実際、戦乱では軍勢による略奪が大きな問題になります。
しかし、
足軽という身分だから全員が略奪者だった
と考えるべきではありません。
Article 104で説明したように、中世・戦国の戦争では兵站が不十分な場合、現地から物資を調達する行為が発生します。
略奪は足軽だけの属性ではなく、
戦争と兵站の構造
から考える必要があります。
戦国大名は足軽をどう組織したのか
戦国時代になると、各地の大名は軍事力をより組織的に運用するようになります。
家臣がそれぞれ連れてくる兵だけでなく、大名直属の足軽を持つ場合もあります。
さらに、
- 長柄
- 弓
- 鉄砲
など、装備ごとに集団運用する場面が増えます。
ここで重要なのは、
単に人数を集めるだけでは軍隊にならない
という点です。
指揮官。
命令。
隊列。
装備。
補給。
これらが必要です。
戦国後期の軍隊では、足軽を組織的な戦力として扱う能力が重要になります。
足軽は常備兵だったのか
これも単純な答えはありません。
「戦国大名は農民を兵農分離して常備足軽にした」
という説明を見かけることがあります。
しかし足軽全員を現代的な意味の常備軍と考えるのは危険です。
動員形態は多様です。
- 必要時に雇う
- 一定期間奉公する
- 家臣が連れてくる
- 大名が直接抱える
などがあります。
したがって、
一時的な足軽から、継続的に抱えられる足軽へと幅がある
と考えるべきです。
足軽の雇用・動員形態
足軽の兵力は一つの方法だけで集められたわけではありません。
大名や武将が、
- 給金
- 米
- 俸給的給付
などによって人を抱える場合があります。
また在地勢力が配下を率いる場合もあります。
必要な戦争規模によって追加雇用することも可能です。
西股総生は、こうした足軽・雑兵を、戦国大名が兵力を増減させるための重要な調整部分として捉えています。
つまり足軽は、
大軍を編成する柔軟性
を支える存在でもありました。
長柄足軽とは何か
戦国時代の足軽を代表する武器が長柄です。
長柄とは、長い柄を持つ槍です。
戦国期には非常に長い槍が集団で利用されるようになります。
足軽が長柄を持ち、集団で隊列を形成することで、
個々の武勇だけではない戦い方が可能になります。
西股総生『戦国の軍隊』でも、
足軽と長柄
が戦国軍隊の変化を示す重要テーマとして扱われています。
なぜ長い槍が使われたのか
槍が長くなれば、
敵より遠い位置から攻撃できます。
ただし長くなれば取り回しが難しくなります。
そのため長柄は、
一人の達人が自由自在に振り回す武器
というより、
集団で使うことで効果を発揮する武器
としての性格が強まります。
ここに戦国軍隊の変化があります。
個々の武士の武勇だけでなく、
隊列。
号令。
集団行動。
が重要になっていきます。
鉄砲足軽とは何か
16世紀に鉄砲が日本へ伝来すると、鉄砲を扱う兵士も軍隊に組み込まれていきます。
いわゆる、
鉄砲足軽
です。
鉄砲は、
- 火薬
- 弾丸
- 火縄
- 整備
を必要とします。
ただ武器を渡せば終わりではありません。
装填。
射撃。
再装填。
集団運用。
補給。
といった仕組みが必要です。
したがって鉄砲の普及は、
足軽を組織的に運用する能力の重要性をさらに高めた
と考えられます。
鉄砲伝来で足軽はどう変わったのか
鉄砲は高い殺傷力を持ちます。
しかし戦国軍隊の変化を、
鉄砲が武士を不要にした
と考えるのは誤りです。
軍隊には、
- 指揮
- 護衛
- 槍
- 弓
- 鉄砲
- 騎馬
- 築城
- 兵站
など複数の機能が必要です。
鉄砲足軽はその一部です。
ただし鉄砲の集団運用によって、
個人の武芸だけでなく、統制された集団戦闘の価値がさらに高まった
ことは重要です。
弓足軽も重要だった
戦国時代というと鉄砲ばかり注目されます。
しかし鉄砲普及以前から、弓は重要な飛び道具でした。
鉄砲が登場した後も、すぐに弓が消えたわけではありません。
軍勢では、
- 弓
- 鉄砲
- 槍
など異なる装備が併用されます。
したがって、
足軽=槍兵
あるいは、
足軽=鉄砲兵
と固定することもできません。
長篠合戦と鉄砲足軽
天正3年、1575年の長篠合戦は、鉄砲を語る際に必ず登場します。
従来は、
織田信長が3,000挺の鉄砲を三列に並べ、
三段撃ちによって、
武田軍の騎馬隊を壊滅させた、
という物語が非常に有名でした。
しかし近年の研究では、この定型的な長篠像は慎重に検討されています。
平山優『長篠合戦―鉄砲戦の虚像と実像』も、合戦図屏風や関連史料を再検討し、後世に作られたイメージと実際の戦闘を区別しています。
したがって本記事では、
長篠=三段撃ちの鉄砲足軽が騎馬軍団を一方的に殲滅
という図式を確定史実として採用しません。
「三段撃ち」のイメージに注意
長篠合戦で鉄砲が重要だったことと、
有名な「三段撃ち」が史実としてそのまま確認できることは別問題です。
歴史を見る際には、
鉄砲が使われた。
大量の鉄砲が投入された。
防御施設が利用された。
という事実と、
後世に成立した分かりやすい物語
を分ける必要があります。
これは足軽についても同じです。
「農民足軽が鉄砲を持ち、騎馬武者を終わらせた」
という一行では、戦国軍隊の変化を説明できません。
足軽大将とは何か
戦国大名が多数の足軽を運用すれば、当然それを指揮する人間が必要になります。
そこで登場するのが、
足軽大将
です。
足軽大将は、足軽衆を指揮する役割を持つ武将です。
重要なのは、
足軽の中から一番偉い人が足軽大将になった
という固定的な昇進階級ではないことです。
大名が軍事能力を評価した家臣を、足軽衆の指揮官として配置することがあります。
足軽大将は足軽身分だったのか
「足軽大将」という名前から、
元足軽が昇進した人物
と思うかもしれません。
もちろん出自が低い人物が出世する可能性はあります。
しかし名称だけから出自を判断することはできません。
足軽大将は、
足軽を指揮する側の武将
という職掌から理解するのが基本です。
大名家ごとに制度や位置づけは異なります。
武田氏の足軽大将
武田氏の家臣団研究でも、足軽大将は重要なテーマです。
丸島和洋編『戦国大名武田氏の家臣団』には、
「戦巧者足軽大将―新参者と足軽」
という章が設けられています。
この表現からも分かるように、武田氏の足軽大将は、単なる下級兵卒ではなく、
軍事能力を発揮して足軽を指揮する武将層
として考える必要があります。
大名にとって、足軽集団を適切に統率できる人物は重要な軍事人材でした。
足軽と軍役
Article 103で見たように、戦国大名は家臣へ所領規模などに応じた軍役を課します。
その軍役の中には、
- 騎馬武者
- 徒士
- 弓
- 鉄砲
- 槍
などさまざまな構成員が含まれます。
足軽は、こうした軍勢を構成する重要な部分です。
ただし、
1万石なら足軽○人
という全国共通固定式はありません。
軍役基準は大名・時期によって異なります。
足軽と兵站
足軽が増えれば軍隊は強くなる。
しかし人数が増えれば、
食べさせなければなりません。
Article 104で扱った兵站がここでも重要になります。
1万人の軍勢には、
1万人規模の食料。
水。
武器。
弾薬。
荷駄。
が必要です。
鉄砲足軽なら、
- 火薬
- 弾丸
- 火縄
も必要です。
つまり大量の足軽を戦場へ投入できる大名とは、
単に人口が多い大名ではなく、
人間・武器・補給を組織できる大名
でもあります。
足軽にも装備格差があった
ゲームでは同じ種類の足軽が全員同じ装備を持っています。
しかし実際には装備には差があります。
時代。
大名家。
給付。
任務。
によって異なります。
すべての足軽が同じ防具を着け、同じ長さの槍を持っていたわけではありません。
さらに、
槍。
弓。
鉄砲。
など役割によって装備が違います。
「足軽」という言葉だけから一種類の外見を想像しないことが重要です。
兵農分離で足軽はどう変わったのか
Article 111で説明したように、兵農分離は一つの法令で完成したものではありません。
しかし戦国後期から近世へ進むにつれて、
- 家臣の城下集住
- 軍役制度の整理
- 大名権力の強化
が進みます。
こうした中で、足軽も大名・藩の組織へより継続的に組み込まれる方向へ進みます。
一方で、それ以前には一時的・流動的な足軽も多く存在します。
つまり足軽史を見ると、
戦争のたびに集まる流動的軍事労働力から、より制度化された軍事奉公人へ
という変化の一面を見ることができます。
ただし全国一律の直線的変化ではありません。
豊臣・徳川期の足軽
天下統一が進むと、大名軍の組織も変化します。
豊臣政権。
徳川政権。
そして各藩。
のもとで、足軽は武家奉公人として組織へ組み込まれていきます。
江戸時代には、
- 足軽組
- 足軽屋敷
など、戦国期より制度化された存在を見ることができます。
しかし、この近世の姿をそのまま応仁の乱の足軽へ当てはめることはできません。
江戸時代の足軽と戦国時代を混同しない
これは非常に重要です。
江戸時代には大名家の家臣団制度が整備され、足軽の身分・給与・職務も制度化されます。
加賀藩では直属の武家奉公人として足軽と小者が組織されていたことが研究されています。
しかし15世紀の足軽は、もっと流動性の高い存在を含んでいました。
つまり、
同じ「足軽」という言葉でも、15世紀と17世紀では社会的位置が違う
のです。
足軽から出世することはできたのか
戦国時代といえば、
「足軽から天下人になった豊臣秀吉」
という物語が非常に有名です。
しかし、この説明には注意が必要です。
秀吉の若年期については後世の逸話が多く、確実な史料が限られています。
したがって、
秀吉は確実に織田家の一兵卒の足軽から出世した
と単純な履歴として断定することは避けるべきです。
一方、戦国時代には能力・戦功による抜擢が存在しました。
とくに大名権力の拡大期には、新参者や低い立場から軍事能力を評価される人物もいます。
足軽大将という役割も、そのような人材登用を考えるうえで興味深い存在です。
戦国ゲームの足軽像との違い
戦国ゲームでは、
足軽隊。
騎馬隊。
鉄砲隊。
弓隊。
という形で兵種がきれいに分類されます。
これはゲームとして非常に分かりやすい仕組みです。
しかし歴史上は、
足軽は兵種そのものだけを意味する言葉ではありません。
足軽の中に、
- 槍
- 弓
- 鉄砲
を扱う者がいます。
また侍も徒歩で戦うことがあります。
馬を持つ武士も、常に馬上で突撃するわけではありません。
戦国軍隊を理解するには、
兵種だけではなく、
- 身分
- 奉公関係
- 指揮系統
- 装備
- 雇用
- 軍役
を合わせて見る必要があります。
よくある誤解
誤解1|足軽は農民兵だった
農村社会から参加する者はいますが、足軽全員を「普段は農民、戦争時だけ兵士」と固定することはできません。
誤解2|足軽と雑兵はまったく同じ
重なる部分は大きいものの、完全な同義語として機械的に扱うべきではありません。
雑兵は下級兵士をより広く捉える表現として使われます。
誤解3|足軽は全員武士ではなかった
時代・地域・奉公関係で異なります。
近世には大名・藩へ継続的に仕える武家奉公人としての足軽も存在します。
誤解4|足軽は全員常備兵だった
一時的・流動的に雇われる者から、継続的に抱えられる者まで存在しました。
誤解5|足軽は槍しか使わなかった
長柄だけでなく、弓・鉄砲などを扱う足軽も存在しました。
誤解6|足軽大将は足軽が昇進した最高位だった
名称は足軽を指揮する役割を示します。本人の出自を名称だけから決めることはできません。
誤解7|応仁の乱で足軽が突然発明された
それ以前にも徒歩兵・雑兵・武装民衆は存在しました。応仁の乱は足軽が大量に活動し、存在感を増した重要な転換点です。
誤解8|信長が初めて足軽を組織した
足軽は信長以前から存在します。信長だけを「足軽の発明者」のように扱うことはできません。
誤解9|長篠では三段撃ちで鉄砲足軽が武田騎馬軍団を壊滅させた
長篠合戦で鉄砲が重要だったことと、後世に有名になった定型的な三段撃ち像をそのまま史実認定することは別問題です。
誤解10|秀吉は確実に一兵卒の足軽から天下人になった
秀吉の若年期には後世の逸話が多く、詳細を確定的な経歴として語るには注意が必要です。
まとめ
足軽とは何者だったのか。
一言で、
農民兵
と答えることはできません。
足軽は室町・戦国期の軍勢で活躍した、比較的軽装の徒歩戦闘員・軍事奉公人として理解できます。
しかし、
- 出自
- 身分
- 雇用形態
- 装備
- 軍事的役割
には大きな幅があります。
応仁の乱では多数の足軽が京都へ集まり、戦争の重要な担い手となりました。
戦国時代になると、大名は足軽を、
- 長柄
- 弓
- 鉄砲
などの集団戦力としてより組織的に運用していきます。
足軽大将のように、彼らを指揮する武将も重要になります。
一方、
足軽=農民。
足軽=雑兵。
足軽=常備兵。
足軽=武士ではない。
という単純な説明は、いずれも時代や地域による違いを見落とします。
さらに近世になると、足軽は藩の家臣団・武家奉公人組織へ制度的に組み込まれていきます。
つまり足軽の歴史そのものが、
中世の流動的な軍勢から、戦国大名の組織的軍隊、さらに近世の制度化された家臣団へ移っていく過程
を映しています。
Article 102の家臣団。
Article 103の軍役。
Article 104の兵站。
Article 111の兵農分離。
そしてArticle 112の足軽。
これらを合わせて見ることで、戦国時代の軍隊が、
「武将と農民兵の集まり」
ではなく、
身分・軍役・雇用・装備・兵站を組み合わせた複雑な軍事組織
だったことが見えてきます。
参考資料
1.
早島大祐
『足軽の誕生―室町時代の光と影』
朝日新聞出版、朝日選書894、2012年。
国立国会図書館書誌ID:
023959076
応仁の乱で大量に活動した足軽について、
出身地、都市への移動、居住、生計など社会史的側面から検討。
2.
西股総生
『戦国の軍隊―現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』
学研パブリッシング、2012年。
のち角川文庫。
主要章:
「戦国の兵士は農兵か」
「足軽と長柄―軽装歩兵の戦列化」
「鉄炮がもたらした革新」
「侍と雑兵―格差社会の兵士たち」
「補給と略奪」
3.
磯田道史・倉本一宏・フレデリック・クレインス・呉座勇一
『戦乱と民衆』
講談社現代新書、2018年。
収録:
呉座勇一「応仁の乱と足軽」
国立国会図書館書誌ID:
029140623
4.
丸島和洋 編
『戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち』
教育評論社、2016年。
収録章:
「戦巧者足軽大将―新参者と足軽」
足軽大将を戦国大名家臣団内部の軍事指揮官として考える参考資料。
5.
平山優
『長篠合戦―鉄砲戦の虚像と実像』
中央公論新社、中公新書2785、2023年。
長篠合戦について、
三段撃ち・鉄砲隊・武田騎馬軍団という後世の定型像を関連史料から再検討。
6.
藤田達生
「伊賀者・甲賀者考」
『忍者研究』1号、2018年。
伊賀・甲賀の軍事集団について、
国人・土豪、被官衆、百姓の傭兵集団としての足軽衆など複層的構成を論じる。
DOI:
10.34460/ninja.2018.1_16
7.
「加賀藩割場と足軽・小者」
近世加賀藩の武家奉公人研究。
大名直属の奉公人として足軽と小者が制度的に組織された事例。
戦国期の流動的足軽との時代差を確認する資料。
FAQ
足軽とは何ですか?
室町・戦国期の軍勢で活動した、比較的軽装の徒歩戦闘員・軍事奉公人です。ただし出自・雇用形態・身分は時代や地域によって異なります。
足軽は農民だったのですか?
農村社会から足軽になる者はいましたが、足軽全員が普段は農業を行う農民だったわけではありません。雇われて継続的に軍事活動を行う者もいました。
足軽と雑兵は何が違いますか?
重なる部分は多いものの、完全な同義語ではありません。雑兵は侍などに対する下級兵士を比較的広く示す表現として使われます。
足軽は武士ですか?
時代・地域・定義によります。一時的な軍事奉公人もいれば、近世には大名・藩へ継続的に仕える武家奉公人として制度化された足軽もいます。
足軽はいつからいましたか?
応仁の乱以前にも徒歩戦闘員・雑兵などは存在します。応仁の乱では足軽が大量に活動し、その存在が歴史上大きく目立つようになりました。
足軽は槍だけを使ったのですか?
いいえ。長柄槍のほか、弓や鉄砲を扱う足軽もいました。
鉄砲足軽とは何ですか?
鉄砲を装備し、集団で射撃などを行う足軽です。運用には射撃技術だけでなく火薬・弾丸・火縄などの補給も必要でした。
足軽大将とは何ですか?
足軽衆を指揮する武将です。「足軽身分の最高位」という全国共通階級ではなく、家ごとに位置づけは異なります。
足軽は常備兵だったのですか?
すべてが常備兵だったわけではありません。必要時に集められる者、一時的に雇用される者、継続的に大名へ奉公する者などがいました。
豊臣秀吉は足軽から天下人になったのですか?
秀吉の若年期には後世の逸話が多いため、「織田家の一兵卒の足軽から確実に出世した」という単純な経歴として断定するのは慎重であるべきです。

