大名一覧
地域/大名家 解説

東北地方

 

南部家

南部家(なんぶけ)
居城:陸奥国三戸城(さんのへじょう)
家紋:南部鶴

 南部家は、源義光の後衛にあたる加賀美遠光の三男光行が甲斐国南部郷を統治し、南部姓を名乗ったことから始まるとされる。
鎌倉時代末期、執権北条氏の地頭代として、陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡に入部し、戦国時代まで、代々、所領を統治した。
三戸や八戸へ勢力を拡大させ、南部一族は、戦国時代、群雄に割拠した。 天正18年(1590)、三戸の南部信直は、豊臣秀吉が小田原攻めのため、関東まで遠征してくると、これに従い、小田原へと参陣した。
その隙を突いて、南部一族の津軽氏が独立割拠した。これにより、南部氏は津軽地方においての支配権を失うこととなった。
秀吉からは、南部七郡の所領を認められたが、翌年、この仕置きを不服とした一族の九戸政実(くのへまさざね)が反乱を起こすと、南部氏は秀吉から助勢を得て、鎮圧に成功した。
関が原の戦いで信直の子・利直は、武勲を立て、所領の10万石を安堵された。 代々、陸奥国盛岡藩主を務め、明治維新まで至る。

津軽家

大崎家

伊達家

蘆名家

桓武平氏・相模国の三浦半島に盤踞した三浦氏が、奥州蘆名氏の祖先である。
源頼朝の奥州征伐に従軍した三浦義連が奥州会津の地を与えられ、その子孫が会津に土着して、直盛が蘆名姓を名乗り、会津蘆名氏を開いた。
戦国時代に入ると蘆名氏の中興の祖となる十六代目盛氏が出る。
盛氏は福島の黒川城を拠点に全会津を制圧。さらに田村氏、二本松畠山氏、二階堂氏などを支配下に置き、南陸奥の地に一大勢力を築き上げた。
盛氏の養子・盛隆が跡目を継ぐと、蘆名家内で不運な混乱が続いた。
盛隆とその子・亀王丸が相次いで若くして亡くなると、伊達氏、佐竹氏のどちらかから養子を迎えようと、家中が二分した。混乱を制して、佐竹氏から義広が跡目に入ったが、遺恨を残した伊達政宗の侵攻を受ける。
摺上原合戦で伊達軍を迎え撃ったものの、義広継嗣に反対した家臣団の不戦が響き、大敗を喫した。
義広は本家の佐竹氏のもとへ逃げ、会津佐竹氏は滅亡した。

相馬家

相馬家(そうまけ)
居城:陸奥国小高城
家紋:九曜

平将門の末裔が戦国大名として、東北の地に割拠す。
相馬家は、鎌倉幕府の創設に尽力した千葉常胤(つねたね)の次男・師常(もろつね)が、平将門の遺児将国(まさくに)の後衛・師国(もろくに)の養子となり、相馬氏を継承したことに始まる。
師常は、頼朝による奥州攻めの後、陸奥国行方郡(なめかたぐん)を加増され、相馬一族が移り住むことで、その後、戦国群雄の一員となっていった。
相馬氏は、伊達氏や蘆名氏など隣接する戦国大名との婚姻関係を図ることで、勢力の保全を維持しようとしたが、伊達氏と蘆名氏が抗争を始めると、これに巻き込まれた。
豊臣秀吉が関東平定に出張ってくると、相馬義胤は、小田原へ参陣し、4万8700石の本領安堵を得た。
関が原の戦いでは中立の立場を取ったが、かえってそのために改易の憂き目を見る。
その後、本領返還に成功し、子孫は、相馬中村藩6万石を保ち、明治維新を迎えた。

安東家

安東家(あんどうけ)
居城:出羽国土崎湊城
家紋:檜扇に違い鷲の羽

津軽の豪族から、勢力拡大を図る。
古くは、安藤とも古文書に見える。康平5年(1062)の前九年の役で敗死した安倍貞任(さだとう)の末子・高星(たかあき)が津軽地方へ逃れ、その子孫が津軽西部に勢力を拡大させた。
津軽の十三湊(とさみなと)を本拠とし、安東一族は、津軽から出羽にかけて、一円の勢力を誇った。 その後、南部氏に勢力を圧迫された。
室町時代に入ると、出羽国秋田郡などに勢力を誇り、戦国大名として、割拠した。
その後、郡名の地名を取って、秋田姓を称した。 豊臣秀吉が天下統一を成すと、所領安堵を得た。
関が原の戦いを経て、佐竹氏が常陸から秋田の地へ入封すると、秋田家は、常陸の宍戸(ししど)5万5000石に転封された。
その後、陸奥三春に転封となり、そのまま明治維新まで維持した。

最上家

   

関東地方

佐竹家

清和源氏・新羅三郎義光が常陸にて本拠を築き、その孫の昌義が佐竹氏を称したのが、常陸佐竹氏の起こりである。源頼朝の挙兵の際には、平氏側に与したため、一時は、その勢力を駆逐され、半減したが、頼朝の奥州征伐では、その汚名返上を成し遂げ、家格の存続を得た。
室町時代には、足利尊氏に属して奮戦し、その功績を認められ、常陸守護となった。 常陸国に盤踞した佐竹氏は、戦国時代を迎える。
当主義昭・義重の二代に渡って勢力を広げ、常陸全域と陸奥白河、下野の一部を有し、一大勢力を築く。
佐竹氏の最大のライバルとなる北条氏、その同盟者の陸奥・伊達政宗と絶えず小競り合いを繰り返す。
北条氏、伊達氏の南北からの挟撃に直面した義宣は、豊臣秀吉から所領安堵を受け、対応を図った。
関ヶ原の戦いでは、東軍に協力しなかったため、戦後、減封となり、出羽移封となる。 その後は、明治まで秋田藩20万石を保った。

結城家

結城氏は、「俵藤太」藤原秀郷の血筋である小山氏の庶流である。
小山政光の三男・朝光が源頼朝から下総結城郡を賜って、結城姓を名乗ったのが興りである。
三代目広綱の弟・祐広が分家と成り、陸奥白河に白河結城家を興す。
本家は、室町期に基光が宗家の小山市を滅ぼして、子の泰朝にその家名を継がせ、下野守護を継承した。
その後、関東管領上杉氏と対峙し、激戦を繰り広げたが1441年、結城家は一旦滅亡となるも遺子の成朝が名蹟を継ぎ、結城家の再興を果たす。
戦国期15代晴朝は、武蔵の北条氏と越後上杉氏とに挟まれ、窮地に立つ。
北条氏の攻勢の前に晴朝は宇都宮氏から養子を迎えて佐竹氏などと共同して、北条氏に対抗した。
1590年小田原征伐の際、豊臣秀吉の命で徳川家康の次男・秀康を養嗣子に迎えたが、秀康がのちに松平姓に復したため、名家の下総結城氏は途絶えた。

里見家

清和源氏・新田氏の末裔と伝わる里見家は、江戸時代において滝沢馬琴が著した「南総里見八犬伝」でつとに有名である。
実際には、氏素性わからず、安房で興した豪族といわれている。
室町時代末期、安房国の混乱に乗じて勢力を伸ばし、義堯の時代に安房全域を支配した。
1538年第一次国府大合戦では、北条氏に破れたが、急伸著しいその勢いを上総制圧に向け、勢力を拡大した。
1556年北条水軍を撃破し、東京湾の制海を奪取した。
日増しに北条氏との闘いが激化し、1564年には第二次国府台合戦が始まり、この時も里見軍は敗北している。
この闘いで上総国を失ったが、三年後の三船山合戦では、勝利を収め、上総国を再び奪還した。
義康の代になると小田原征伐に遅参し、秀吉の逆鱗に触れて、上総を失う。
江戸時代に入ると、大久保忠隣改易事件に連座し、取り潰しの憂き目を見る。

宇都宮家

山内上杉家

藤原姓から排出した上杉氏は、鎌倉時代に足利氏と姻戚を結び、足利一門入りする。
上杉氏初代の頼重の娘は、足利尊氏・直義の母となり、興隆した足利家の根源の家となった。
室町幕府の開創にあたって、上杉氏は大いに功績を立て、上杉憲顕が関東管領となり、関東公方・足利氏を補佐する大役を成す。
関東管領上杉氏は、子々孫々にまで受け継がれる役職となった。
1438年、関東公方足利持氏が山内上杉憲実を忌避して、幕府の命に服さず、将軍・足利義教の追討を受けるに至る。上杉憲実は、幕府に抵抗せず、亡き持氏の菩提を弔うため、出家し、関東公方と距離を置く。
関東公方の補佐という役回りを捨て、一族の扇谷上杉氏との抗争に明け暮れた山内上杉氏は、新興勢力の北条氏の侵攻を許し、関東鎮守を果たせず。
上杉憲政は、越後の長尾景虎を頼り、家名を譲り、上杉謙信の庇護を受けるに至る。

扇谷上杉家

北条家

北条氏初代の北条早雲は、謎多き人物である。
若き頃は、伊勢新九郎盛時を名乗り、将軍家の執事を務める名家の出とされた。 若くして将軍の近習を務め、父盛定と同じく、将軍の申次衆として名を連ねた。 姉の北川殿は、駿河の今川義忠に嫁ぎ、嫡子・龍王丸の生母となる。
その縁で、京を離れ、駿河に招かれた早雲は、今川一族の重臣・小鹿範満の専横と対峙した。
1487年、今川家督を狙う小鹿範満を討った早雲は、その功績により興国寺城主となり、外敵ににらみを利かせた。
1498年には暴君として知られた堀越公方・足利茶々丸を討伐し、伊豆一国を平定する。 1512年には、相模を平定し、2カ国の領主となる。
2代目氏綱の頃から、北条姓を名乗り、鎌倉時代の執権・北条氏の名跡を継ぐ形で、関東支配を目指した。
第一次国府台合戦など数々の戦いで勝利を収め、武蔵、房総へと勢力を拡大させた。 三代目氏康は、国内経営を整え、河越夜戦で窮地を脱する活躍を見せ、関東管領の大号令を発した上杉謙信の大軍を小田原城籠城戦で退けた。
第二次国府台合戦では、扇谷・山内両上杉氏や里見氏を撃破し、関東八州に覇を唱える一大勢力を築き上げた。
四代目氏政は、北条氏最大版図を築き、東国勢力の一大中心となった。 五代目氏直は、徳川家康の娘を妻とし、東国武士による全国制覇を目指したが、西国を制圧した豊臣秀吉の前に外交交渉の不手際から、小田原征伐を起こしてしまう。
関東一円に張った勢力を束ね、豊臣軍と対峙したが、消極的な籠城戦に終止し、軒並み城を各個撃破されてしまう。
抵抗らしい抵抗を見せることなく小田原評定を経て、万策尽きた北条氏は、豊臣軍の軍門に下る。
氏政・氏照は切腹、氏直は高野山へ追放の憂き目を見る。
氏直の大名復帰の動きが起こったが、失意の氏直が若くして没したため、後北条氏の本流は断絶した。
   

北陸地方

上杉家

神保家

畠山家

朝倉家

朝倉氏の先祖は、景行天皇説、孝徳天皇説、開化天皇説など諸説あるが、いまだに明確ではない。
朝倉姓を名乗った源流は、但馬の豪族日下部氏で、平安末期に出石の朝倉庄に移ってからとされる。
初代高清から数えて7代目の広景が、南北朝時代に越前で戦功を挙げ、越前国に地盤を築く。
その子・高景が越前七ヶ所の地頭となり、朝倉氏の勢力拡大を成す。
高景の六代目の孫・敏景の時に、越前守護・斯波氏で内紛が起こると、この機に乗じて、敏景は、越前支配を強めた。
さらに彼は「朝倉敏景十七か条」の家訓を定めた。
合理的勝利にこだわるないようであった。
その後、朝倉氏は北陸から畿内を通じて、交易を発展させ、豊かな領国経営を成した。 1548年朝倉義景が家督を継ぎ、大叔父である朝倉宗滴の補佐もあって、順調に統治を進めた。
1565年足利義昭が越前に逃れてくるとこれを庇護している。
義昭が上洛を要望するも、義景は嫡子・阿君丸の夭逝を嘆き悲しみ、要望を拒絶し、歌舞音曲に耽り、義昭を失望させた。
信長が畿内に勢力を伸ばすも、傍観し、信長が越前に侵攻してくると、織田信長包囲網を形成して、対抗した。
4年間の抗争の末、朝倉氏は滅亡した。

一色家

一色家(いっしきけ)
居城:丹後国建部山城
家紋:丸に二引両

足利一族において、四職筆頭の家格
足利泰氏のの子・公深(こうしん)が三河国吉良荘一色に拠点を構えた際に、一色姓を使うようになった。
南北朝の騒乱の中、公深の子・範氏(のりうじ)は、足利尊氏の麾下として、北九州を転戦した。
範氏は、鎮西管領(九州探題)に任じられ、九州の有力国人を味方に引き入れようと努めたが、果たせず、文和4年(1355)以降、勢力は衰退し、九州からの撤退を余儀なくされた。
範氏の子・範光(のりみつ)は、若狭、三河の守護に任じられ、幕府の重責を担った。 範光の子・詮範(あきのり)は、室町幕府の侍所頭人(所司)に任じられ、四職筆頭を務めた。
四職の家は他に赤松、京極、山名。
明徳2年(1391)に明徳の乱が起こると、一色満範は、山名氏との戦いで大いに戦功を上げ、丹後守護を兼帯する。永享12年(1440)、足利義教は勢力著しい一色義貫(よしつら)を殺害する。一色家の家督は、甥の教親(のりちか)が代行し、伊勢、丹後守護となる。その後、義貫の子・義直(よしなお)が一色家の家督を継いだ。
戦国時代に入ると、一色家の勢いは衰えを見せ、天正10年(1582)、丹後宮津城主・一色義俊(よしとし)とその叔父・義清が細川忠興に攻め立てられると抗戦叶わず、滅亡した。
庶流一色藤長(ふじなが)が残り、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉に仕え、子孫は幕臣に至る。
   

中部地方

今川家

今川氏は、清和源氏の名流・足利氏の一族で、三河国今川庄が発祥の地とされる。 室町幕府を創設した足利尊氏に従事した今川範国が駿河・遠江の守護を兼ねて、駿河今川家の初代となった。
室町後期には、遠江守護職を斯波氏に奪われてしまうが、今川義忠が応仁の乱で東軍に属して、斯波氏の遠江へ侵攻し、奪取に成功する。
1476年、駿河への凱旋途中、塩買坂で義忠は敗残の兵に襲撃され、落命した。 嫡子・龍王丸と一族の実力者・小鹿範満との間で家督争いが勃発する。
この騒乱に扇谷上杉氏や山内上杉氏が干渉し、混迷を極めたが、龍王丸の叔父・北条早雲の活躍によって、1487年小鹿範満を討滅に成功する。
家督を継いだ龍王丸は、今川氏親と名乗り、分国法「今川仮名目録」を制定し、国内経営を整えた。
氏親は、争乱が絶えない遠江へ外征し、統治に成功する。 しかし、氏親が若くして没し、また、その子、氏輝も1563年に急死すると氏輝の二人の弟の間で家督争いが勃発する。二人共僧籍であった。玄広恵探と梅岳承芳の家督争いは「花倉の乱」と呼ばれた。
正室の子である梅岳承芳は、名軍師として名高い太原雪斎の助けを借りて、勝利を収め、今川家家督を継いだ。
承芳は還俗し、今川義元を名乗った。 義元は、太原雪斎の補佐を受け、甲・相・駿三国同盟を結び、後顧の憂いを無くして、西方への勢力拡大を図った。
三河国、尾張国東端部にまでその勢力を拡げ、今川氏最大版図を築く。 京へ上洛するため、遠征の途についた義元であったが、1560年桶狭間の戦いにて、織田信長軍の強襲に遭い、無念の討ち死にとなる。
義元の子・氏真が家督を継ぐも、消極的な統治経営のため、勢力を急速に失っていった。武田信玄、徳川家康による侵攻を防ぐことができず、遠江・駿河二カ国をすべて失うに至る。
氏真は北条氏、徳川氏を頼り、江戸時代に入ると武家作法の高家として、家名存続を成した。

徳川家

徳川氏は、清和源氏新田氏の流れを汲む上野国新田郷得川を発祥の地とする。 しかし、実際には、氏素性の知れぬ徳阿弥という時宗の流れ者が始祖とされる。
徳阿弥は、流浪の末に三河国坂井郷の酒井氏の娘との間に、子をもうけている。この血筋は後に松平氏の筆頭家老となっている。
さらに山間部にある松平郷の松平氏の婿養子となり、松平氏初代となる親氏をもうけている。
代を重ねるごとに松平氏は、山間部から平野部へと進出を成し、多くの分家を配置して、ついには三河国西武に一大勢力を築くに至る。
七代目・松平清康は名将の誉れ高く、松平氏の勢力を更に拡大させた。 駿河の今川氏を後ろ盾として、三河国に確固とした基盤を築いた清康は、岡崎城を奪取して、本拠地とした。
三河の有力国人衆を次々と麾下に組み入れ、ついには隣国の尾張まで遠征し、織田氏としのぎを削る戦いを成した。
清康による躍進を成した松平氏であったが、1535年、織田氏との戦いの最中、清康が家臣に惨殺されてしまう。世に言う「守山崩れ」である。これによって、跡目を継いだ広忠は幼少のため、国の舵取りができず、松平氏は分裂し、伊勢・駿河へと逃避分散してしまう。
今川氏の援助を得て、三河の安定を成したが、結果として、松平氏は今川氏の属国扱いとなってしまう。
この状態は、1560年桶狭間合戦で今川義元が討ち死にするまで続いた。 桶狭間合戦以後、松平元康は、徳川姓に改め、徳川家康と名乗り、三河統一を成す。

織田家

越前国丹生郡織田庄(現在の福井県丹生郡織田町)にある織田剣社という神社が織田氏発祥の地とされる。
織田氏は、忌部氏の流れとも、平氏の流れとも伝えられている。 織田氏が越前守護・斯波氏の被官となり、1390年ごろ、織田常昌(常松)が斯波義重の信任を得て、義重が守護を兼任していた尾張国の守護代となる。
尾張国守護代として、織田一族が尾張の地に根付くと、尾張上四郡を支配する織田伊勢守家と下四郡を支配する織田大和守家の2家が並立した。 戦国期に入り、織田大和守家から織田信秀は出る。
信秀は、信長の父で、戦国動乱の時代にあって、勢力拡大を成す雄才を示した。 信秀は津島の商業経済を掌握し、勝幡城を拠点とし、駿河の今川氏、三河の松平氏、美濃の斎藤氏と勢力争いを繰り広げた。
大和守家の清洲城にある織田達勝が攻め込んでくると信秀は、これを撃退し、敵対していた美濃斎藤氏と同盟を結んで窮地を凌ぐ離れ業を演じている。
この同盟で信秀の嫡男・信長と斎藤道三の娘・帰蝶との政略結婚が成る。 1551年信秀が急死すると、嫡子・織田信長がその跡目を継ぐ。
国内で反信長勢力が形成されるも信長は各個撃破し、ついには実の弟である織田信行をも暗殺してしまう。
反信長派にあった猛将・柴田勝家を破り軍門に降らせている。 1560年桶狭間の戦いにて、強敵・今川義元を討ち取ると、三河の徳川家康と同盟を結び、後顧の憂いを断って、美濃攻略に着手す。美濃攻略を成して、ついに天下布武の大略が始動する。
信長は反信長勢力との戦いに辛酸を舐めたが、反抗勢力を各個撃破し、ついに天下統一目前まで成したが、1582年、本能寺にて、斃れる。跡目を継いでいた織田信忠も共に倒れたため、織田家の命運も尽きる。
信長の嫡孫・織田秀信は、凡庸な人物で、豊臣秀吉の庇護の下、将としての活躍も無いまま時を過ごす。
秀信は、関ヶ原合戦では西軍に与し、岐阜城にて、東軍と対峙するも、難攻不落と謳われた岐阜城をわずか一日で攻め取られてしまう。
戦後、失意のうちに秀信は没し、織田家嫡流は途絶える。
織田家分家・一族は家系を保ち、小大名として明治を迎えた。

斎藤家

斎藤氏の源流は、藤原魚名と伝えられるが、斎藤道三はこの血筋を引く者ではない。
道三は美濃守護・土岐氏に取り入り、一代にして主家を追放し、美濃国を国盗りした傑物である。
土岐家守護代・斎藤氏の家臣である長井氏のそのまた家臣・西村氏に養子として入ったのが、道三の父・新左衛門尉であった。彼は長井氏から一族待遇を受けて、長井姓を称した。
その跡を継いだのが道三であった。彼は当初、長井新九郎と名乗り、主家の長井景弘を排除し、長井家を乗っ取ることに成功する。さらに1537年には斎藤利隆の名跡を継いで、斎藤姓を称し、美濃守護・土岐政頼、頼芸兄弟に近づき、ついには両者を追放し、美濃一国を強奪するに成功する。
だが、土岐兄弟や尾張織田信秀の反撃に手を焼き、1548年信秀の嫡男・信長に娘の帰蝶を嫁がせ、婚姻同盟を成す。1555年長男・斎藤義龍を廃嫡にしようとした道三に対して、義龍が先手を打って反旗を翻し、継承候補にある孫四郎、喜平次の二人の弟を惨殺した。
1556年には道三、義龍による決戦が起こり、道三は敗北し討ち死にした。 義龍は信長の美濃侵攻を防ぎ、有能な家臣団による采配も光ったが、その状況は、長くは続かず、まもなく病没する。
跡を継いだ龍興は凡庸で、信長の巧みな離間策によって、有能な家臣団の切り崩しに遭う。
1567年ついに根城の稲葉山城は陥落し、龍興は越前朝倉氏を頼りに落ち延びていった。 1573年、朝倉氏が織田軍に攻め滅ぼされると、龍興も戦死し、美濃斎藤家は滅亡する。

武田家

甲斐武田氏は、清和源氏、鎮守府将軍・源頼義の三男・新羅三郎義光が祖である。
1083年に起こった「後三年の役」で線香を挙げた義光が、甲斐守に任じられ、甲斐源氏が始まる。
義光から数えて4代目の信義が甲斐武田庄を本拠とし、武田姓を称したのは、始まりである。
信義は源頼朝の争覇戦に参軍し、甲斐源氏諸軍を率いて活躍した。
戦功目覚ましい甲斐武田氏であったが、謀反の嫌疑を受けた子の一条忠頼が誅殺され、信義自身も逼塞する悲運に遭う。その後、信義の子・信光が1221年に起こった「承久の乱」で活躍を見せ、甲斐武田氏の名誉回復を成し遂げる。
応仁の乱以後、弱体化した武田氏であったが、十八代目武田信虎が勢いを盛り返すことに成功する。
戦国乱世において、名家であったものの信虎は勇猛と奇襲作戦で甲斐一国をまとめ上げると、隣国信濃に侵攻する勢いを見せた。
しかし、1541年長年の強行政治に嫌気が差した国人領主たちに支持された子の晴信に謀反を起こされ、信虎は娘の嫁ぎ先である駿河今川氏へ追放された。
晴信はかの有名な名将として名高い信玄である。
信玄は豪気な荒くれ国人領主を手なづけ、武田軍の組織をまとめ上げた。
南信濃の諏訪氏を攻め滅ぼし、諏訪頼重の娘を側室にし、信濃攻略の足がかりとした。 北信濃へ侵攻し、長尾景虎と対峙した。
さらに桶狭間の戦い以後、弱体化した駿河今川氏へ調略の手を伸ばし、駿河一国を手中にする。
関東への進出をも進め、剛勇として知られた長野業正が没するとすかさず攻め込み、業正の子・業盛を軍門に下した。
一方で、信長包囲網に参加し、上洛の気をうかがった。
1573年遠江、三河へと侵攻した信玄は上洛途上で、徳川家康が率いる徳川軍と対峙。 三方ヶ原の戦いで家康を打ち破っている。
その後も上洛の途についたが、途中、病死した。肺ガンであったという。 信玄は我が死を三年隠すよう遺言し、四男の諏訪勝頼に武田家の命運を託した。 ただし、勝頼の子・信勝が元服するまでの間の後見として、勝頼に武田家を預けたとされる。
勝頼は武田家最大版図を築き、信玄も落とせなかった遠江・高天神城を陥落させるなど、覇気を見せたが、1575年長篠合戦に大敗したことが後々まで響き、織田氏の調略の前に、あっさりと瓦解するのであった。
1582年、一族の小山田信茂の裏切りに遭い、勝頼率いる一族は、滅亡した。
 

小笠原家

小笠原家は、清和源氏・新羅三郎義光の三男・遠光が祖である。遠光は南部氏の祖でもある。
義光の次男が武田家始祖となっていることから、小笠原家の家紋は、武田家の家紋の四菱よりひとつ少ない三菱としている。
遠光の次男・長清は、源頼朝に従い、各地を転戦し、目覚ましい活躍を見せる。弓馬術に長け、小笠原流弓馬術を創始者である。また、長清は高倉天皇の護衛にあたり、信頼を得て、高倉天皇から直々に信濃に所領を持つ小笠原盆地から姓を名乗ると良いと助言を得て、小笠原姓を名乗った。
1221年承久の乱でも活躍を成した長清は、阿波守護となり、現地に移封した。 その子、長経の次男・長忠は、分家して信濃小笠原氏となった。
戦国期に入ると隣国甲斐の武田信虎が信濃侵攻を成し、抵抗した。
塩尻峠の戦いでは、武田信玄を破る戦果を挙げたが、その後は信玄の侵攻を防げず、信濃守護・小笠原長時は信濃を追われ、越後の上杉氏、京へ上洛して、天皇や将軍足利義輝に拝謁し、武家礼法の小笠原流について講義を行っている。
その後も各地を流浪し、福島の会津の地に赴くもそこで客死している。

長時の子・貞慶は、本能寺の変後、上杉景勝や徳川家康の勢力争いを巧みに利用して、信濃の旧領復帰を成し遂げる。さらに天下を掌握した豊臣氏に従い、家格を高めるに至る。
貞慶の子・秀政は徳川家康の養女(松平信康の娘で家康にとっては孫娘)を娶り、徳川一門になり隆盛を極めた。
大坂の夏の陣では、真田幸村の猛攻と激突し、戦傷を負うほどの激闘を繰り広げた。
戦後、秀政・忠脩父子は戦傷が元で没したが、その果敢な戦いぶりは戦死の名誉を得た。
遺子・忠真は、徳川一門の重臣として、西国に睨みを利かす重要な駒となり、ついには九州小倉藩15万石となり、「九州の小幕府」と呼ばれ、剛勇の将が居並ぶ西国大名に幕府威光を伝え、統制する重要な役回りを果たすことと成る。
 

近畿地方

北畠家

北畠家(きたばたけけ)
居城:陸奥国浪岡城(なみおかじょう)
家紋:笹竜胆(ささりんどう)

 鎌倉、室町時代の名門北畠家は、伊勢宮司家として名高い。
姉小路(美濃)、一条(土佐)の両家と並び、「三国司家」と称された。
北畠家は、村上源氏の流れを汲む名門で、鎌倉時代には、源通親の孫・中院雅家が京都洛北の北畠に居を構えたことから、北畠姓を名乗った。
鎌倉時代後期、雅家の曾孫・親房は、鎌倉幕府倒幕のため、後醍醐天皇に加担し、倒幕成就後は、建武政権下において、重きをなした。
南北朝の騒乱が起こると親房は子の顕家とともに南朝の主軸として活躍した。 親房は「神皇正統記」(じんのうしょうとうき)を著し、南朝の思想的支柱を書き残した。
後村上天皇から准后(じゅごう)の宣下を受けている。
親房の子・顕能(あきよし)は、南朝から伊勢国司に任じられ、一志郡多気城を根城とし、「多気御所」(たけごしょ)と称された。
以後、北畠家は、伊勢国司を連綿と代を重ねて世襲し、南朝方の中心的存在として活躍した。
その後、天長元年(1428)、顕能の孫・満雅が南朝の後胤である小倉宮を奉じて挙兵するも、敗死すると、急激に没落し、以後は、室町幕府へ依存するようになる。 この間、北畠一族は、逆に分離独立し、繁栄した。
永禄12年(1565)、尾張の織田信長が伊勢へと侵攻すると抗しきれず、北畠具房は信長の次男・信雄を猶子とすることで、家格を保った。
天正3年(1575)、信雄に家督を譲り、完全に北畠は織田家に飲み込まれた。
翌年には、具房の父・具教が自殺に追い込まれ、名門北畠家の家運も尽きた。

本願寺

摂津に盤踞した本願寺氏は、宗教集団である。
戦国期に最盛期を迎えた武装宗教団であった。
本願寺氏は、浄土真宗本願寺派の宗主の家柄で、教祖は親鸞である。
8代目蓮如が多くの子女をもうけ、各地に配置し、宗教組織の拡大飛躍のきっかけを作った。
その後、各地の一向一揆を指導した。加賀では「百姓持ちの国」となるほど、勢力を拡大させた。
かつて本拠とした山科本願寺が焼き討ちにあい、その後、大坂石山に本山を移すと巨大な城塞を築き、より堅牢な武装集団を形成した。
1568年織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、石山本願寺を率いる顕如光佐は、献金を行い、争いを避けたが、2年後には、信長との対決を鮮明にした。
諸国の信徒に対して、信長反旗の決起を呼びかけた。信長が石山所領を差し出すよう命じたことが反抗の理由であった。
本願寺氏は浅井・朝倉氏と連携し、信長包囲網を形成し、その後は、将軍・足利義昭、甲斐の武田信玄、中国地方の毛利氏と手を結び、反信長勢力を形成した。
信長包囲網も、浅井・朝倉両氏が確固撃破され、籠城する本願寺を支援する物資供給を海から行っていた毛利水軍も織田水軍の亀甲船に敗れると、本願寺氏は織田信長の軍門に降った。
顕如、その子教如が石山を立ち退くと同時に、石山で火災が発生し、本願寺は焼失した。
その後、本願寺氏は、紀州から貝塚、天満と移転し、豊臣秀吉が天下人に近づくと京都に本拠を移すことを許される。
江戸時代に入ると、東本願寺と西本願寺に分割され、現在に至る。

鈴木家(雑賀衆)

紀州雑賀衆の盟主・鈴木氏は、物部氏を祖とし、その分流の穂積氏が熊野で勢力を張ったのが鈴木氏の源流とされる。雑賀の鈴木氏は、紀ノ川の川口の地侍として、水運・交易を生業としていた。
戦国期には根来寺を本拠とし、鉄砲の名手揃いの武装集団となった。
雑賀衆は、独立を保つべく、外敵と対峙してきた。
大坂の石山本願寺に帰依していた。
1570年石山本願寺が反信長の兵を挙げるよう檄を飛ばすと、鈴木氏もこれに呼応し、織田軍と交戦する。
1977年、雑賀衆討伐へ向かった織田信長であったが、ゲリラ戦を展開する雑賀軍の前に、敗北した。
信長斃れるも、鈴木氏も内部分裂に遭い、力を弱めた。
1585年豊臣秀吉による紀州征伐によって、鈴木氏当主・鈴木佐大夫が敗死し、鈴木氏は滅亡した。
佐大夫の子・重朝は、後に水戸徳川家に仕えた。

浅井家

浅井氏は、正親町三条実雅、または、物部守屋が先祖と伝わる。
近江守護で北近江に勢力を張った京極氏と抗争を経て勝利し、浅井亮政は、戦国大名として、独立した。
南近江の六角氏が攻め込んでくると、越前の朝倉氏の支援を得て、これを撃退している。
このときから、浅井氏は朝倉氏と懇意のつながりを持つ。
亮政の子・久政は凡庸な人物で、京極氏、六角氏に攻撃され、窮地に立つ。結局、久政は六角氏の軍門に下り、隷属する。久政の嫡男は、六角義賢から偏諱を賜って賢政と名乗った。後の浅井長政である。
賢政は六角氏重臣・平井氏の娘を妻に迎えるなど、隷属的な外交関係を結ぶ。 1560年浅井氏重臣たちの反感を買った久政は、賢政に家督を譲る。
賢政は、六角氏の支城を次々に落とし、北近江に再び勢力を張った。
1567年織田信長の妹・市姫と再婚を果たし、賢政は信長から偏諱を賜って、長政と称した。
信長の上洛戦に参加し、織田軍団の一翼を担った。
しかし、信長が越前朝倉氏征伐の軍を起こすと、これに離反し、織田軍を朝倉氏とともに挟撃した。
1570年姉川の戦いを口火として4年間の長きに渡って、浅井長政は、織田信長と対立した。
織田信長包囲網を結び、一時は織田信長を窮地に追い込んだが、最後は浅井氏滅亡に終わった。
長政と市姫との間にもうけた三人の娘のうち、三女・江姫は、徳川秀忠の正室となり、徳川幕府三代目将軍・徳川家光を産んでいる。また、娘の和姫は、後水尾天皇の皇后となり、東福門院となっている。
浅井氏の血筋は、公武双方に脈絡と続いた。

六角家

足利家

波多野家

三好家

三好氏は、清和源氏の一族で、武田氏、小笠原氏、南部氏と同族である。
源義光の曾孫・加賀美遠光の子・長清が小笠原姓を名乗り、その孫・長房が三好姓を名乗ったのが始まりとされる。
長房は、四国阿波へと渡り、三好氏の勢力を根付かせた。
11代目の三好之長の活躍で、三好の名は全国に轟いた。
応仁の乱で混乱した畿内において、管領・細川家の家督相続が起こり、細川澄元に従った之長が奮闘し活躍した。久しく続いた混戦の末、之長は細川高国に破れ、自害するが、その孫の元長が逆襲し、1527年細川高国を京都から駆逐し、祖父の雪辱を果たした。
1532年元長は仲間割れが原因で起こった一向一揆の攻撃に遭い堺にて自害した。 三好家は、元長の子・長慶が家督を継承し、細川晴元の家宰となり畿内に勢力を拡大した。
長慶は一向一揆と和議を結び、主家の細川晴元と決裂し、これと追放する。
さらに幕府の実権を握り、四国・畿内に三好家の一大勢力を築く。長慶は、足利将軍さえも意のままに操る興隆を極めたが、頼みとする弟たちを相次いで無くし勢力を大きく落とす。鬼十河として勇猛を恐れられた十河一存、賢明な将として信頼高かった三好義賢が相次いで早世した。
さらに頼みとした嫡男・三好義興をも病で失うと長慶の補佐する将が手薄と成る。 そこに重臣の松永久秀が家宰として、国政を専横するに至る。
久秀は、さらなる支配力を強めるべく長慶の弟で淡路安宅水軍を率いる勇将・安宅冬康について長慶に讒言し、これを信じた長慶は冬康を惨殺するに至る。
長慶没後、家督を継いだ三好義継は、松永久秀と結んで、三好三人衆と抗争を展開する。
1568年織田信長が上洛を果たすと、義継はこれに従った。その後、信長に背いて独立するも、織田軍の討伐を受け、1573年河内若江城にて敗死した。ここに三好氏本宗家は断絶した。

細川家

細川氏は室町幕府きっての名門であり、足利義康の曾孫・義孝が鎌倉時代に三河細川に根を張ったのが始まりとされる。足利尊氏の進軍に従軍した細川氏は、数々の功績を挙げて、守護を下賜される。
細川頼之は、管領に登り詰め、室町幕府の中枢を担う重要な家柄となる。
1467年、細川勝元は、山名宗全と対立し、応仁の乱を引き起こす。
この騒乱で、足利将軍の権威は失墜するが、逆に細川氏の権威は高まった。その後、澄元と高国の身内争いが起こり、細川氏の勢いにも陰りが見え出す。
澄元は高国に敗れ、高国は晴元に敗れ、晴元は氏綱と三好長慶に敗れ、氏綱は長慶に敗れた。
1563年長慶に敗れた氏綱の代で管領・細川氏は断絶する。
戦国晩期に興隆した細川藤孝・忠興は、管領家の弟から始まった和泉細川氏の流れである。

筒井家

筒井氏は、近衛家の末裔とも、大神氏の出自とも伝えられている。
大和国興国寺一乗院の衆徒(寺院に属する僧兵・武士)から大名へとのし上がった珍しい家柄である。
戦国期、筒井順昭が越智氏など豪族を抑圧し、筒井氏中興の祖となり、大和国を治めた。
その後、子の順慶は、松永久秀の侵攻を防ぐことができず、大和国の主権は久秀が握った。
1568年織田信長が将軍を擁して上洛を果たすと、順慶は久秀と共に信長の軍門に従っている。
その後、久秀が信長の命により大和守護を罷免され、順慶が代わりに就くと筒井氏の勢いが盛り返した。
1582年本能寺の変が起こると、順慶は明智光秀麾下の将でありながら、光秀の誘いを無視し、洞ヶ峠の日和見を決め込んだ。
光秀が三日天下に終わり、豊臣秀吉が天下人へと邁進するとこれに従い、筒井家の安泰を図った。
養子の定次は、大和の要衝を秀吉から召し上げられ、代わりに伊賀へと移封となる。 江戸時代に入ると、徳川家康の命により、筒井氏は改易の憂き目を見る。

豊臣家

   

中国地方

山名家

尼子家

尼子家は、先祖に婆娑羅大名として名高い佐々木高氏(道誉)がいる。
佐々木道誉の孫・高久が本家である京極佐々木家から独立し、尼子姓を称したことから始まる。
高久の子・持久は、近江から出雲へと渡り、そこに地盤を築く。
これは、主家である京極高詮が出雲・隠岐の守護を兼ねており、持久は出雲守護代として赴いたのであった。
応仁の乱が起こると、持久の子・清定が東軍に属して、その勢力を拡大させた。
清定の子・経久は、名将として名高い。京極氏支配下から独立するも守護代職を罷免され、一時期、追放の憂き目を見たが、計略を巡らせ、月山富田城の奪取に成功する。
その後、30年余りを経て、尼子経久は、中国十一ヶ国もの広大な領土を制圧し、ライバルの大内氏、それに属する毛利氏と対峙した。
経久の孫・晴久は家督を相続後、1540年に毛利元就の吉田郡山城を攻めたが、大敗を喫す。
以後、尼子氏は領土を保持すべく防守一辺通りに陥る。
尼子氏の凋落は、晴久が尼子軍精鋭部隊である新宮党を率いる尼子国久とその麾下兵を粛清してしまったことにある。この暴挙は毛利元就による謀略に晴久が乗せられたためであった。
尼子氏の最盛と凋落を前に晴久は急死。晴久の子・義久が家督を継ぐも、家運の傾きを立て直すに至らず。
1566年、2年半に渡って籠城した月山富田城であったが、ついに万策尽き、大内・毛利連合軍に降伏した。
尼子本家は滅亡した。
後に山中鹿之介幸盛が新宮党の残党を従え、尼子勝久を擁立して、尼子家再興を目指す。
しかし、毛利元就の巧みな戦略の前に敗北し、勝久は自害、捕縛された幸盛は途中で惨殺され、尼子家再興の夢は潰えた。

赤松家

赤松氏は、村上源氏の末裔と伝わる。
赤松円心(則村)が室町初期に活躍し、赤松氏が歴史に登場する。
円心は、播磨の水軍を従え、後醍醐天皇を支援し、鎌倉幕府討伐に尽力した。
鎌倉幕府倒壊後、その功績により、播磨守護を賜るが、のちに護良親王の失脚に連座し、罷免となる。
この処遇に不満を抱く円心は、足利尊氏の協力を得て、後醍醐政権打倒の兵を挙げる。 室町時代に入ると、赤松満祐が将軍・足利義教を暗殺する「嘉吉の変」を起こす。
赤松氏は、幕府から討伐され、一旦は滅亡する。
その後、南朝方の残党が「三種の神器」のうちの一つ神璽を盗み出す事件が起こる。この時、赤松家旧臣が神璽を奪い返した。この功績によって、赤松氏再興が成る。
戦国時代に入ると赤松家家臣の浦上氏が家中の実権を握る。
赤松氏の最後の当主となった赤松則房は、織田信長、豊臣秀吉に臣従したが、関ヶ原の戦いで西軍に属し、戦死する。ここに播磨に覇を唱えた赤松氏は滅亡する。

別所家

浦上家

紀氏の末裔と伝わる浦上氏は、播磨浦上庄を地盤とし、南北朝時代に播磨守護となった赤松氏に従事した。
赤松氏が備前守護を兼任すると、浦上氏も備前にその勢力を拡げ、備前守護代にまで登り詰める。
1518年、浦上氏の勢力拡大を懸念した赤松義村は、浦上家当主の浦上村宗を誅殺しようと図るが、逆手を取られ、村宗の襲撃により義村は自害に至る。
以後、浦上氏は、赤松家中において、主家を圧倒し、隆盛を極める。
その後、村宗の子・宗景の代になると、今度は浦上家の家臣・宇喜多直家が主家を凌ぐ勢いを見せる。
宇喜多直家の活躍によって、出雲の尼子氏、安芸の毛利氏に対抗する勢力にまで拡大するが、毛利氏が巨大化すると、中国へ進出してきた織田信長を頼るようになる。
播磨・備前・美作の三ヶ国を織田信長より安堵されたが、宇喜多直家の反乱に遭い、1557年居城の天神山城を攻められ、浦上氏は滅亡した。

三村家

毛利家

毛利氏の流れは、鎌倉幕府の最上級官僚であった大江広元が相模毛利庄を所領として賜り、それを相続した子の季光が毛利姓を称したのが興りとされる。
季光の子・経光が安芸吉田の地頭となり、安芸国へ移住して、安芸毛利氏が始まった。 毛利家興隆の祖となった毛利元就は、兄・興元とその子・幸松丸が相次いで没した1523年に毛利家の家督を相続した。
元就が相続した領地は、わずか三千貫に過ぎず、その地は西の大内氏、東の尼子氏に挟まれた浮き草のような状況であった。しかし、尼子氏が吉田郡郡山城侵攻を成すと長期籠城でこれを凌いだ。
さらに大内氏による月山富田城攻撃に従軍したが、尼子氏の反撃に大敗する辛酸を舐める。
元就は、次男・元春を吉川家に送り込み、三男・隆景を小早川家に送り込み、安芸一国を掌握するに至る。
1551年陶晴賢が主君である大内義隆を誅殺すると、元就は大内氏擁護を掲げ、打倒陶の姿勢を示す。
1555年ついに陶との一大決戦に臨み、厳島合戦にて、陶晴賢を討ち取った。
これにより毛利氏は一躍大大名へと躍進を果たし、中国地方制覇へと踏み出す。
1566年には強敵尼子氏を攻め滅ぼし、中国地方の大半を手中とする。
更には、九州の豊後国へと侵攻し、大友氏と雌雄の戦いを演じた。
順風満帆に見えた毛利氏隆盛劇において、嫡男・毛利隆元が急死し、暗雲が立ち込める。
元就は、年少の嫡孫・毛利輝元を補佐した。輝元の叔父である吉川・小早川の毛利両川も毛利本家を支え、毛利氏の安定維持に努めた。
毛利氏の中国地方十ヶ国支配を安定させ、元就没後は、ひたすら両国維持に努めた。 織田信長の中国侵攻に対して、摂津の本願寺支援、毛利水軍による織田水軍の討滅など、信長包囲網の一翼を担った。
信長が倒れ、豊臣秀吉が興隆してくると、毛利氏は小早川隆景、安国寺恵瓊など外交手腕を発揮し、友好関係を築く。以後、毛利氏は、豊臣秀吉の天下統一戦に参軍し、活躍した。
毛利輝元、小早川隆景は、豊臣政権の五大老に就き、揺るぎない地位を獲得する。
1600年関ヶ原の戦いが起こると輝元は西軍の総大将に担ぎ上げられ、積極的に西国での勢力拡大のための指揮を執る。これは「西国は毛利氏に任せる」との秀吉の命が元となっている軍事行動であった。
関ヶ原の戦いがわずか一日で決着を成し、毛利氏は敗軍の将として、周防・長門の二カ国に減封となる。
反徳川の胸に秘め、領国経営を続け、ついに幕末維新にて、その悲運を果たす活躍を見せるに至る。

宇喜多家

宇喜多家は、児島高徳の末裔とも、百済の王子が日本に帰化して三宅姓を名乗った後裔とも伝わる。
宇喜多能家の代で浦上氏の重臣として活躍した。浦上氏が主君の赤松義村を攻めた際にも宇喜多家は奮戦し活躍した。その後、同僚の島村豊後守によって、攻め滅ぼされ、宇喜多家は没落する。
能家の孫・直家は、浦上氏の重臣に復帰し、仇敵の島村豊後守を1559年に討滅した。 この討滅戦で、直家は舅の中山氏をも討ち滅ぼし、これを苦にした妻は自殺している。 これ以降、直家は三村氏、松田氏、浦上氏など並び立つ勢力を討ち、安芸の毛利氏と同盟を結んで、備前・美作の領主として君臨した。
毛利氏と共存する形で勢力を図った直家であったが、織田氏の侵攻が来ると一転して、羽柴秀吉と結んで、毛利氏と対立した。
子の秀家は、豊臣秀吉の養女を妻とし、豊臣一門に列した。秀吉の庇護の下、秀家は豊臣家五大老の一人にまで登り詰め、中納言と成る。関ヶ原の戦いでは、西軍の主力として奮戦したが、敗戦後は、敗走中に自刃したと偽り、島津氏に庇護される。
後に幕府に出頭し、八丈島に流された。これをもって、大名としての宇喜多氏は消えた。

大内家

   

四国地方

長宗我部家

河野家

   

九州地方

大友家

大友氏は、中原能直の末裔とされる。
中原能直は源頼朝の即金として、活躍し、相模足上郡大友を本領とした。その後、豊後・筑後の守護を兼ね、鎮西奉行に任じられた。能直は、大友姓を名乗り、その孫、頼泰が文永・弘安の役(元寇)を機に鎮西奉行の職を奉じて、豊後に土着し、先住していた能直の庶子たちを率いて、基盤を固め、九州大友氏が誕生した。
戦国期に成ると、大友義鑑が中国の雄・大内氏と久しく抗争を繰り返した。結果、義鑑は、長年、大内氏に奪われていた筑前を奪還し、肥後守護を得て、大友氏の最盛期を創出した。
義鑑は、長男の義鎮よりも三男・塩市丸を偏愛し、彼に家督を譲ろうとしたが、これに家中が割れ、1550年二階崩れの変を引き起こす。義鑑は、家臣に襲撃され、重傷を負う。この混乱の収拾に当たった義鎮の采配を見た義鑑は、義鎮に家督を譲った。
義鎮は豊後だけでなく、豊前・筑前・肥前守護を兼ね、九州探題をも担い、大友氏全盛時代を築いた。
南蛮貿易にも熱心で、後にキリシタン大名となっている。
キリスト教に執心し、布教をも兼ねた勢力拡大を図ったとされる。
1578年九州分け目の戦いとされる日向耳川の戦いで、島津氏と激突するも、自らは戦場に赴かず、前線から遠く離れた丘の上に陣を張り、お祈りを捧げていたという。
実践的指示を放棄した義鎮(宗麟)の精彩を欠いた采配によって、大友軍は島津軍に大敗した。
島津軍の猛攻を凌ぐことができず、1586年、宗麟は自ら豊臣秀吉に救援要請すべく、大坂へ出向いた。豊臣秀吉の九州征伐を実現させたが、大友氏の所領は豊後一国を保持するのみであった。
宗麟の跡目を継いだ義統は、朝鮮の役で卑怯な振る舞いを秀吉に責められ、改易となってしまう。
関ヶ原の戦いでは旧領回復、家名再興を目指し、豊後にて挙兵するも、九州統一を目指す黒田如水の前に降伏した。九州名門の大友氏再興は果たせなかったが、義統はなおも幕府に働きかけ、のちに幕府の高家として家名存続に成功する。

秋月家

龍造寺家

龍造寺氏は、藤原流高木氏の季家が源頼朝に与して、大宰府を攻撃した。その後、恩賞として1185年に肥前国佐嘉郡小津東郷内龍造寺村の地頭職に任命され、龍造寺姓を名乗った。
文永・弘安の役(元寇)では、龍造寺一族は、防衛戦で大いに活躍し、その恩賞として筑前・筑後にも地頭職を与えられ、勢力を拡大させた。
戦国初期に入ると、龍造寺氏の主家である少弐氏の策謀によって、龍造寺一族はことごとく討ち取られてしまう。だが、分家の水ケ江龍造寺氏の隆信が本家の胤栄を補佐して、仇敵・少弐氏を攻め滅ぼした。
その後、胤栄が没したため、隆信は胤栄の妻を娶って、本家を相続した。 大友氏の支援を受けた少弐氏が再度、佐嘉に侵攻すると隆信は、筑後柳川に逃れて、三年を費やして、佐嘉を奪還している。
1559年宿敵・少弐氏を滅ぼし、龍造寺氏の勢力は拡大に転じる。
1570年、8万の大軍を率いた大友軍が侵攻すると、隆信は手勢五千で佐嘉城に籠城した。
このときは、鍋島直茂率いる赤熊隊(しゃぐまたい)が夜襲をかけ、敵の総大将大友義貞を討ち果たし、大勝利する。1578年には肥前一国の統一を成し遂げ、九州の地に豊後の大友氏、薩摩の島津氏との間に三国鼎立を形成した。
龍造寺氏は隆信の采配の下、肥前、北肥後、筑前、豊前にまで勢力を拡げ、最盛期を迎える。
1584年九州分け目の戦いとなる島津・有馬連合軍と対峙した隆信は、沖田畷にて激突するが、島津軍の奇襲により、隆信はじめ、龍造寺軍の名だたる武将たちが討ち死にしてしまう。
鍋島直茂は、佐嘉城に篭り、島津軍の猛攻を退けている。
その後、隆信の子・政家を守り立てた、直茂は九州征伐後の豊臣秀吉の命により、肥前一国支配を受ける。
主家である龍造寺氏は、政家、高房父子が1607年に立て続けに没したため、龍造寺家は断絶した。

相良家

相良氏は藤原氏南家流の工藤氏の後裔である工藤周頼が遠江相良庄に住み、相良姓を名乗ったことに始まる。頼景のとき、肥後国球磨郡に移住した。長続の代に球磨郡全域を支配下に治め、その子・為続は八代にも勢力を伸ばし、相良氏の最盛期を築いた。
戦国期になると、為続から数えて七代目の相良義陽がかろうじて肥後の地を維持した。
だが、肥前の龍造寺氏の肥後侵攻と薩摩の島津氏の肥後侵攻の板挟みに遭い、苦境に立つ。1579年島津氏との決戦に敗れた相良氏は、島津氏に降伏した。島津氏の先鋒として、肥後阿蘇氏を攻めるが、阿蘇家重臣にして名将名高い甲斐宗運の前に敗北し、義陽は討ち死にした。
義陽の子・忠房は島津氏配下として、かろうじて球磨郡を保持する。忠房の養嗣子・長毎は、九州征伐を成した豊臣秀吉に仕え、相良氏はそのまま明治期まで家格を存続させた。

伊東家

戦国期に日向国に勢力を張った伊東氏は、藤原氏南家流の工藤氏の後裔・工藤維職が伊豆伊東庄に住み、伊東姓を名乗ったことに始まる。鎌倉初期、初代維職から数えて五代目の祐朝が九州日向国に移り住んだことで、日向伊東氏が誕生した。南北朝動乱期には、日向国は伊東氏、土持氏、島津氏の三つ巴争乱が続いた。その後、伊東氏が土持氏を抑え込み、以後、日向国は伊東氏対島津氏の対峙状態となる。
戦国期に入っても伊東氏と島津氏はしのぎを削るが、1572年伊東義祐が木崎原合戦において、島津義弘の猛攻に敗北し、豊後の大友氏を頼って伊東氏が敗走するに至る。
大友・伊東連合軍は、1578年耳川合戦において、島津氏に大敗し、島津氏の九州制覇が進む。
豊臣秀吉に属した伊東祐兵は、秀吉の九州征伐において、活躍し、日向国5万石の領主として復活する。その子・祐慶が関ヶ原の戦いにおいて、東軍に属し、以後、所領安堵を受け、江戸期を生き抜いて、明治維新を迎えている。

肝付家

肝付氏は、伴氏を祖先とする。大隅国肝付郡の弁済使として、薩摩から移住した肝付兼俊が初代。
南北朝動乱期においては、南朝方として活躍し、北朝方の薩摩島津氏と抗争を繰り広げた。
戦国期に入ると肝付兼続が島津忠良の娘婿となるなどして、一時的に肝付氏と島津氏は和解するが、それも長くは続かず、再び島津氏は肝付氏へと攻め込んだ。
兼続は日向の伊東氏と結んで、対抗したが、伊東氏が1572年に島津氏に敗北し、大友氏に寄ると、肝付氏は風前の灯となる。1574年肝付兼亮は、新納忠元を頼り、ついに島津氏の軍門に降る。
その後、兼亮は日向に逃亡し、兼亮の弟にして肝付家当主の兼護も、島津氏の侵攻に耐えかね、1575年降伏した。兼護は、所領をすべて没収され、薩摩に幽閉され、大隅肝付氏は滅亡した。

島津家

九州の名門島津家は、源頼朝の庶子と伝わる惟宗忠久が1185年島津荘惣地頭職、1198年薩摩・大隅守護となり、現地に赴き、島津姓を称したことに始まる。
鎌倉末期、島津貞久は反幕府方として戦功を挙げ、貞久の長男・氏久は大隅守護に、次男・師久は薩摩守護となった。戦国期に入ると、島津勝久は人事の刷新を図り、家臣団の反発を買う。ついには伊地知重貞の反乱を招く。勝久はこの反乱に対抗すべく、分家の島津忠良・貴久父子を味方に引き入れた。その代償として勝久は貴久を養子として迎え、1527年に貴久に家督を譲った。
この処置に島津一族から反発する声が上がる。ついには島津実久の反乱を招き、驚いた勝久は貴久の家督を奪い、守護職までも奪還するに至る。
この動きに忠良・貴久父子は巻き返しを図り、勝久を追放する。実久が没した後、国主に返り咲くに至る。
貴久の子・義久は1578年強敵・大友氏を耳川合戦で打ち破り、九州制覇の侵攻にはずみをつける。
肥前の大敵・龍造寺隆信を討ち取る戦果を挙げ、ついに九州をほぼ手中に収める。
だた、1587年九州征伐を興した豊臣秀吉の前に大敗し、降伏。薩摩・大隅の二カ国に加え、日向国内一郡のみを安堵される。

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