戦国時代の村にとって、水は農業を支える重要な資源でした。

水田では、田植えの時期や稲の成長段階に応じて水を確保する必要があります。ところが、川やため池の水を使える量には限りがあります。

上流の村が多くの水を取れば、下流の村に十分な水が届かなくなることがあります。

また、新しく田畑を開発すれば、それまでの利用者と新しい利用者の間で、誰が水を使うのかという問題が生じる場合もありました。

こうした農業用水をめぐる争いを「水論(すいろん)」や「用水争論」と呼びます。

水論は、江戸時代になって初めて現れたものではありません。

戦国時代の越前国では、享禄二年(一五二九年)、用水の輪番利用をめぐる訴えに対して、朝倉氏の奉行人が裁定を行った記録が残っています。

つまり、戦国大名は戦争や外交だけでなく、領国内の村々が利用する水をめぐる問題の調整にも関わっていました。

その一方で、江戸時代には複数の村による用水組合や、時間を区切って水を使う番水などの仕組みが発達していきました。

この記事では、戦国時代の実際の水論史料を出発点として、水を利用する権利、上流と下流の対立、番水・水番の役割、領主による裁定、村々の話し合いなどを詳しく解説します。

なお、江戸時代の事例については近世の制度として明示し、戦国期に全国共通で同じ制度が存在したかのようには扱いません。

水争いとは何か

水争いとは、水源や農業用水の利用、管理、配分などをめぐって、人々や村々の間で発生した対立です。

歴史史料や研究では「水論」「用水争論」という言葉が用いられます。

ただし、水論という言葉は必ずしも武器を持って争ったことを意味しません。

実際には、領主への訴え、当事者同士の交渉、村役人の仲裁、裁許など、さまざまな形で争いが扱われました。

農業用水をめぐる対立には、水の量だけでなく、施設の維持管理や費用負担なども関係します。

例えば、川から水を引く堰をどこに造るか、誰が修理するか、渇水時にどの村が先に利用するか、といった問題も水論の原因になりました。

なぜ農業用水は争いの原因になったのか

水田の稲作には、水を必要とする時期があります。

雨が十分に降り、川やため池に水が豊富な場合は、村々が大きな対立を起こさず利用できることもあります。

しかし、日照りが続いて水量が不足すれば状況は変わります。

上流で取水した分だけ、下流に届く水が減る可能性があります。

用水路から途中の村へ水を分ければ、その先へ流れる水量が少なくなる場合もあります。

こうした関係があるため、一つの水路を複数の村が利用すると、水の使い方を調整する必要がありました。

水論は村と村だけの争いだったのか

水論は村落間で発生することが多くありましたが、それだけではありません。

同じ村の内部でも、用水を利用する場所や土地条件によって利害が異なる場合があります。

水路の上流と下流、古くからの耕地と新しく開発した耕地、有力な土地利用者と小規模な耕作者などの間でも意見が対立することがありました。

近世の福井県史では、用水の配分や施設の普請費用をめぐって地主と小百姓の間に争論が生じた例も紹介されています。

つまり、水争いを単に「隣村同士のけんか」と考えるだけでは、その実態を理解できません。

水論は戦国時代にもあったのか

水論は戦国時代にも存在しました。

重要なのは、そのことを江戸時代の制度から推測するのではなく、戦国期の史料から確認できる点です。

『福井県史』通史編2「中世」では、越前国の水論について、朝倉氏の奉行人による具体的な裁定例が紹介されています。

この事例によって、戦国大名権力が村々の水利関係に関わったことを確認できます。

享禄二年の越前国水論

享禄二年(一五二九年)、越前国南条郡の府中広瀬村から、大虫之社・岡本・太田野の三か村に対し、輪番で通水していた用水を止めるよう求める訴えが出されました。

この争いに対応したのが、朝倉氏の府中奉行人である青木景康と印牧美次です。

『福井県史』が紹介する田中四郎兵衛家文書によれば、奉行人は用水について従来の先例どおりにするよう指示しました。

なお異議がある場合には、一乗谷の朝倉氏のもとへ出向いて訴えるよう伝えています。

朝倉氏は何を重視したのか

この裁定では、従来の用水利用の慣行が重視されています。

朝倉氏が村々へまったく新しい配水制度を一律に押し付けたと理解するのは適切ではありません。

既に地域社会で形成されていた用水利用の関係を踏まえ、領主権力が紛争を調整する役割を果たしていました。

ただし、先例が常に無条件で優先されたという意味でもありません。

当事者の訴えや水利関係の状況に応じ、領主が判断する必要がありました。

この事例は、戦国大名の領国支配と村落の自治的な慣行が関係し合っていたことを示しています。

戦国末期の南前川村と藤井村

『福井県史』には、さらに戦国末期の三方郡南前川村と藤井村による水論も紹介されています。

この争いでは、給人などが裁定へ関与しようとしたほか、地域で勢力を持っていた粟屋氏や熊谷氏の関係者が奉行として用水の先例・慣行を確認しました。

この事例でも、争いの背景には従来の用水利用の権利関係がありました。

つまり戦国期の水論には、村落だけでなく、給人・在地領主・戦国大名の権力関係が重なっていたのです。

関連解説:戦国武将の知行と土地支配

なぜ戦国大名が水争いを裁いたのか

戦国大名が領国を支配するうえで、農業生産は重要な経済的基盤でした。

水田に水が届かず、収穫が減れば、農民の生活だけでなく、年貢や諸役にも影響する可能性があります。

また、水をめぐる村同士の対立が長引けば、地域社会の秩序が不安定になります。

そのため、戦国大名が用水をめぐる紛争の調整や裁定に関与することには、領国経営上の意味がありました。

しかし、領主がすべての水路を直接管理していたと考えてはいけません。

地域には、それ以前から用水に関する慣行や管理の仕組みが存在する場合がありました。

戦国大名は、そうした慣行を認めたり、争いが起きたときに裁定を下したりすることで、領内の秩序を調整していたのです。

関連解説:村高と本田高・新田高の違い

用水権とは何か

用水をめぐる争いでは、誰が水を利用できるのかという権利関係が重要になります。

歴史研究では、引水権、用水利用の権利、水利慣行などの言葉が使われます。

用水を利用する権利は、河川・ため池・湧水などの水源や、用水路の維持管理と結び付いていました。

例えば、古くからある村が上流の取水口を利用してきた場合、その先例が争いの際に主張されることがあります。

ただし、先例に基づく取水利用の関係を、現代法における水利権と完全に同一視してはいけません。

現代の水利権との違い

現在の日本では、河川法に基づく許可水利権や、歴史的経緯を持つ慣行水利権などの制度があります。

一方、戦国時代や江戸時代には、現代と同じ河川法の制度が存在したわけではありません。

地域ごとの利用慣行、領主の裁定、村々の取り決めなどによって水の利用関係が形作られていました。

そのため、現代的な説明として「用水権」という言葉を使用する場合も、具体的な史料では当時の引水権や用水慣行を確認する必要があります。

水を使う権利は誰に属したのか

用水の利用関係は、個人、村、複数の村で形成される組織など、さまざまな単位と結び付く場合がありました。

土地を耕作する人と、用水施設を管理する人が同じとは限りません。

また、用水路を維持するための負担と、用水を利用する権利が対応している場合もあります。

具体的な権利関係を理解するには、用水組合の規約、争論の裁許状、村方文書などを確認する必要があります。

上流の村は常に優先されたのか

水争いを理解するとき、上流と下流の関係は重要です。

上流の村は、下流へ水が流れる前に取水することができます。

そのため、地理的に有利な立場を持つ場合があります。

しかし、上流にあるというだけで、全国すべての時代に無制限の優先権が認められたわけではありません。

水利慣行や領主の裁定によって、利用できる水量や施設の扱いが決められる場合がありました。

水上村・水元村とは何か

水路の上流に位置し、用水の管理や配分に強い影響を持つ村が、水上村や水元村と呼ばれる場合があります。

喜多村俊夫の研究では、西近江の真野川上流地域を対象として、水上村が下流の村々に対して特権的な位置を占めていた事例が検討されています。

この研究では、上流という地理的条件が重要な背景だったことが示されています。

ただし、個別事例で確認された関係を全国共通の固定制度として理解してはいけません。

上流と下流の権利関係は、水路や地域社会ごとの歴史に即して考える必要があります。

番水とは何か

番水(ばんすい)とは、水が不足する場合などに、用水を利用する時間や順番を定め、交替で配水する仕組みです。

複数の村や地区が同じ用水を利用するとき、一度にすべての田畑へ十分な水を供給できない場合があります。

そのため、利用時間や順序を取り決めて、限られた水を配分する方法が用いられました。

ただし、番水は全国共通の固定時間割ではありません。

村ごとに時間を区切る場合もあれば、地域の土地条件や用水の構造に応じて異なる配分方法が採られる場合もありました。

番水が必要になる理由

農業用水の需要は、常に同じではありません。

田植えや稲の生育時期に多くの水が必要になることがあります。

一方、渇水によって取水できる水が減る場合があります。

限られた水を特定の村だけが利用し続ければ、他の村で耕作に支障が生じます。

そこで番水の仕組みが重要になりました。

番水の仕組みを例で考える

ここで説明用の架空モデルを考えます。

一つの水路からA村、B村、C村が取水するとします。

渇水時には三村が同時に十分な水を使えないため、利用時間を順番に分けることにしました。

例えば、ある時間帯をA村、その次をB村、さらに次をC村とする取り決めです。

このように時間を分ければ、各村が順番に用水を利用できるようになります。

ただし、これは番水の考え方を示す架空例です。

戦国時代の全国に三村交替制が存在したという意味ではありません。

また、実際の番水では土地の面積や既存の用水慣行などが考慮される場合があります。

江戸時代の番水|見沼代用水の事例

番水の具体例として、江戸時代の見沼代用水があります。

足立区立郷土博物館によると、見沼代用水は享保十二年(一七二七年)、見沼の干拓・新田開発に伴って開削されました。

用水は各地へ分かれ、下流の村々に水を供給しました。

しかし、水路が長くなると、下流への給水量不足や、排水時の冠水などが問題となりました。

その対策の一つが番水制です。

時間別・村単位の給水

足立区立郷土博物館の解説では、渕江領の村々が用水を公平に配分するため、時間別・村単位で給水時間を取り決めたとされています。

これは番水の仕組みを理解するための明確な事例です。

ただし、見沼代用水は江戸時代に整備された用水です。

この方法を戦国期の全国共通制度として説明することはできません。

重要なのは、近世の農業用水管理で、利用時間を配分する制度が実際に採られていたという点です。

水番とは何か

水番(みずばん)とは、用水の管理や配水に関わる役割を担う人物などを指す言葉です。

用水を利用する順序や時間が定められていても、実際の水の流れを管理する人がいなければ取り決めを守ることは難しくなります。

取水口や水門の操作、配水状況の確認、水路の管理など、地域によってさまざまな仕事がありました。

ただし、水番という役割の具体的な職務や選任方法が、全国すべての時代で同じだったわけではありません。

村の慣行や用水組織の仕組みによって異なります。

水番と番水の違い

番水は、主として水を順番に配分する仕組みを指します。

水番は、その管理・監督などに関わる役割を指します。

言葉は似ていますが、同じ意味ではありません。

番水が行われている地域で水番が重要になる場合はありますが、両者を必ず一対一に対応する全国共通制度として考えてはいけません。

水番は大名の家臣だったのか

水番が必ず戦国大名の家臣だったわけではありません。

村落や用水組織の内部で管理を担う場合もあります。

水番を理解するときは、誰が任命し、どのような権限を持ち、誰が費用や労働力を負担したのかを確認する必要があります。

用水組合とは何か

複数の村が同じ用水を使う場合、共同で水路を維持・管理する必要がありました。

近世には、複数の村が用水利用を目的として組織を形成する事例が知られています。

こうした組織を用水組合などと呼びます。

ただし、江戸時代の用水組合を、現代の土地改良区や法人組織と完全に同一視することはできません。

大丸用水九ヶ村組合

稲城市の公式解説によると、大丸用水は江戸時代、稲城市域の四村と川崎市域の五村、計九か村で利用されていました。

これらの村々は、橘樹郡と多摩郡の二郡にまたがり、支配領主も異なっていました。

それでも、大丸用水を共同利用するという点で結び付き、「大丸用水九ヶ村組合」を組織しました。

この組合の重要な仕事が、用水の維持・管理です。

水路そのものだけでなく、堰や圦樋などの施設を修繕し、そのための資材を各村が負担しました。

領主が違っても共同管理した

この事例で重要なのは、用水の利用関係が領主の支配境界と必ずしも一致しなかったことです。

川や水路は、村境や領主の境界を越えて流れます。

そのため、領主が異なる村であっても、同じ水源を利用するのであれば協力が必要でした。

ただし、協力関係が存在したからといって、水争いが発生しなかったわけではありません。

稲城市の解説では、夏の渇水時の配水や、多摩川の堰の設置などをめぐり、水争いが繰り返されたとされています。

村々は幕府へ訴え、裁定を求めました。

水争いは何をめぐって起きたのか

水論の原因は水量の不足だけではありません。

『福井県史』通史編3では、近世越前の用水争論の原因として、取水口、分水施設、番水、施設工事費、排水、水車、新田開発などが挙げられています。

これらを整理すると、水論には複数の類型があることが分かります。

争点 主な問題
取水口・堰 どこで、どのように水を取るか
配水・番水 誰が、いつ、どれだけ利用するか
用水施設の維持 修理費用や人足を誰が負担するか
排水 水をどこへ流し、滞水を防ぐか
新田開発 新しい田畑へどのように水を供給するか
先例・慣行 従来の利用条件を変更できるか

この分類は主要な争点を整理したものであり、すべての水論が一種類だけの問題だったわけではありません。

一つの争論に複数の問題が重なる場合もありました。

水路の修理費用も争いになった

農業用水の管理では、水を使う権利だけでなく、施設を維持する負担も重要です。

堰や水路は、洪水などで損傷することがあります。

土砂がたまれば、水の流れが悪くなります。

そのため、修繕や浚渫などを継続して行う必要がありました。

しかし、同じ用水路を利用していても、村によって得られる利益が同じとは限りません。

上流と下流では、水が不足する危険や、工事によって得られる効果が違う場合があります。

そのため、費用負担や人足の割り当てをめぐる争論も発生しました。

千葉県の椿新田十八か村

近世の用排水をめぐる負担問題を理解する事例として、椿新田十八か村があります。

千葉大学の研究によると、椿新田は寛文十年(一六七〇年)に干拓され、元禄八年(一六九五年)には十八か村が成立しました。

その後、用排水施設の維持や新たな開発をめぐり、村々の間で対立が生じました。

特に、水源補給を伴わない新田開発によって、用水と排水の均衡が崩れたことが問題となりました。

また、排水路の浚渫をめぐって村ごとの利害が異なり、負担の調整が難しくなりました。

この事例は、水論が「水を多く取るか少なく取るか」という単純な問題ではなかったことを示しています。

ただし、椿新田の事例は江戸時代のものであり、戦国時代の具体例ではありません。

水争いはどのように解決したのか

水論の解決には、当事者間の話し合い、村役人や有力者の仲裁、領主による裁定などが関係しました。

ただし、その具体的な手続きは時代によって異なります。

戦国時代の朝倉氏の裁定と、江戸時代の幕府評定所での裁許を、完全に同じ制度として説明することはできません。

戦国期の裁定

享禄二年の越前国水論では、朝倉氏の府中奉行人が従来の用水慣行を尊重する判断を示しました。

また、さらに異議がある場合には、朝倉氏のもとで訴える道が示されています。

この事例では、戦国大名権力が在地の慣行を踏まえて紛争に関与したことが重要です。

江戸時代の内済

江戸時代の水論で重要な言葉が「内済(ないさい)」です。

内済は、当事者同士の話し合いや仲裁などによって解決する方法です。

『福井県史』では、近辺の大庄屋や庄屋などの有力農民を仲裁人として、話し合いによる解決が勧められたことが説明されています。

ただし、内済は領主や幕府がまったく関係しない私的な解決と決め付けることはできません。

公的な訴訟の過程で内済が促される場合もありました。

領主による裁断

当事者同士で解決できない場合、領主の裁断が求められることがありました。

近世越前では、幕府領の代官、福井藩の用水奉行、他藩の郡奉行などが争論の処理に関与しました。

ただし、こうした役職名や処理制度を、全国すべての戦国大名家に共通するものと考えてはいけません。

幕府評定所への訴え

江戸時代には、複数の領主にまたがる問題などで、幕府評定所の裁許が関係する場合がありました。

『福井県史』では、現地で解決できない水論が江戸へ持ち込まれた事例や、その費用負担の大きさなどが説明されています。

また、訴訟の途中で内済が勧められる場合もありました。

したがって、すべての水論が最終的に評定所の判決だけで解決したわけではありません。

江戸時代の水論絵図とは何か

水争いでは、取水口や水路の位置、村境、土地の利用状況などが重要な証拠となります。

そのため、争いの対象地域を描いた絵図が作られることがありました。

これを水論絵図と呼びます。

文化庁が紹介する飛鳥資料館の展示解説によると、飛鳥地域には江戸時代の水争いに関係する古地図が多く残っています。

例えば、天和二年(一六八二年)に作られた水論関係の絵図が知られています。

こうした絵図は、村々の主張を示したり、調停の内容を記録したりするために利用されました。

水論絵図から何が分かるのか

水論絵図では、河川、水路、堰、田畑、村境などの位置関係を確認できることがあります。

それによって、争いの原因となった施設や土地の配置を理解しやすくなります。

ただし、歴史的な絵図を現代の精密な測量図と同じものとして使うことはできません。

絵図は、作成者の目的や争論上の主張を反映している場合があります。

そのため、絵図の記載を検討するときは、関連する文書や研究成果と照合する必要があります。

湧水も水争いの対象になった

農業用水といえば河川から取水する水路を思い浮かべるかもしれません。

しかし、農業用水の水源は河川だけではありません。

ため池や湧水も重要な役割を果たしました。

神奈川県立歴史博物館の渡邊浩貴による研究では、近江国甲賀郡柏木御厨故地の水論絵図を用い、近世村落における湧水利用と紛争を検討しています。

一八〇一年の水論絵図

この研究では、寛政十三年(一八〇一年)に作成された「江州甲賀郡酒人村与植村水論立会絵図」が取り上げられています。

対象地域では河川からの灌漑用水が重要でしたが、それとは別に湧水も農業開発に利用されていました。

研究では、水資源利用を考える際に、河川やため池だけでなく湧水にも注目する必要があることが示されています。

ただし、この事例は江戸時代後期のものであり、戦国期の水論を直接示す史料ではありません。

水の配分割合を決める方法

限られた水を配分する場合、時間を区切るだけでなく、取水量の割合などを定める方法もありました。

ただし、具体的な配分方法は水路・河川・地域によって異なります。

神流川の九郷堰をめぐる争論

関東農政局の「農と歴史」では、神流川の九郷堰をめぐる水争いが紹介されています。

この争いでは、上流側の九郷堰による取水に対し、下流の堰の関係者が不当な取水だと主張しました。

一方、九郷堰側は従来からの慣行による取水を主張しました。

その後、享保二年(一七一七年)の裁定では、神流川の水を九郷堰側が六分、下流の堰が残り四分を利用するという新たな分水慣行が示されたとされています。

六分・四分は全国共通だったのか

もちろん全国共通ではありません。

この数字は神流川の特定の争論における配分の事例です。

他の河川や用水路でも同じ割合を適用したわけではありません。

重要なのは、長年の先例に基づく取水関係があっても、争論や裁定によって新しい配分ルールが形成される場合があったことです。

新田開発と水争いの関係

新田開発によって耕地が増えると、農業用水の需要が増える場合があります。

新しい田へ水を引けば、既存の田へ流れる水が減る可能性があります。

そのため、新田開発は水論の原因になり得ました。

しかし、新田開発が必ず水争いを引き起こしたわけではありません。

十分な新水源が確保されれば、既存の水利用への影響を抑えられる場合もあります。

開発計画の段階で水の利用条件を調整する場合もあります。

古田と新田の関係

古くから耕作している田と、新しく開かれた田では、水の利用慣行が異なることがあります。

既存の村が以前から用水を利用していた場合、新田側が同じ条件で取水できるとは限りません。

一方、新田側も農業生産を続けるためには安定した水を必要とします。

そこで、双方の利用条件を調整することが重要となります。

ただし、古田が常に無条件で優先されたという全国固定の原則を作ることはできません。

関連解説:新田開発と用水・高入れ・年貢免除

水争いと年貢の関係

用水を確保できなければ、農業生産に支障が生じる可能性があります。

そのため、水利の問題は年貢や領国経営とも関係しました。

しかし、村高と実際の収穫量、年貢額は同じではありません。

村高が高い村だからといって、必ず十分な水が利用できたとは限りません。

また、水不足が生じたからといって、年貢額が必ず一定割合で減免されたともいえません。

実際の負担を判断するには、その地域の年貢制度や災害対応の史料を確認する必要があります。

水論は農業生産を守るための問題であると同時に、土地の公定評価や領主の徴収体制とも結び付く可能性があったのです。

関連解説:戦国時代の年貢率と地域差

水争いと村落自治の関係

村々は水路の維持や利用条件について、日常的に調整する必要がありました。

堰の修理、取水の順番、水路の掃除、費用負担などの取り決めは、農業生産を続けるための重要な仕事です。

こうした活動を通じ、村落間の協力関係が形成される場合がありました。

しかし、共同利用しているからこそ、利害が対立することもあります。

そのため、水論は村落社会における協力と対立の両方を考える手掛かりとなります。

戦国期には、村落や在地領主の用水慣行を踏まえながら、戦国大名が調整役として関わる場合がありました。

近世には、用水組合や村役人、領主、幕府などが関係する制度が発達しました。

両者には歴史的な連続性がありますが、同一制度ではありません。

水論の古文書を読むときの注意点

水論関係の史料を読む際には、次の点に注意する必要があります。

作成年代を確認する

戦国期の文書と江戸期の文書では、紛争を扱う権力や制度が異なります。

戦国期の朝倉氏の奉行人と、江戸幕府評定所を同一の行政機関として扱うことはできません。

どちらの主張を記録したのか

水論の訴状などは、当事者の主張を記録したものです。

そこに書かれた内容がすべて客観的に確定した事実だとは限りません。

相手側の主張や裁定文書と比較することが重要です。

先例の内容を確認する

「以前からの慣行」と記されていても、その具体的な内容を確認しなければなりません。

取水量、利用時間、堰の位置、工事負担など、何を先例として主張しているのかを見る必要があります。

裁許後の状態を確認する

領主や幕府が裁定を下しても、その後に新しい争いが起きる場合があります。

一度の裁許によって永続的に問題が解決したと決め付けることはできません。

現在の河川・水路と同じとは限らない

河川の流路や用水施設は、改修や災害によって変化します。

歴史絵図の水路を現在の地図と比較する場合は、その間の変化を考慮する必要があります。

関連解説:検地・指出・検地帳・太閤検地の違い

水争いについてよくある誤解

誤解1 戦国時代に水争いはなかった

戦国期の史料にも用水争論が確認できます。享禄二年の越前国水論では、朝倉氏の府中奉行人が裁定を行っています。

誤解2 水論は村同士の武力衝突だった

水論は用水をめぐる争論を指し、必ずしも武力衝突ではありません。訴訟や話し合い、仲裁、裁許などの形で争われました。

誤解3 上流村は好きなだけ水を取れた

上流の村が有利な場合はありましたが、取水には先例や慣行、裁定などが関係することがありました。

誤解4 番水は全国共通の時間割だった

番水の具体的な利用時間や順序は、水路や地域の事情に応じて異なりました。

誤解5 水番は戦国大名の家臣だった

水番は用水管理に関係する役割ですが、必ずしも戦国大名の家臣だったわけではありません。具体的な管理体制は地域ごとに確認する必要があります。

誤解6 水争いは領主がすべて決めた

領主の裁定が重要になる場合はありますが、村同士の話し合いや、地域の用水慣行も大きな役割を果たしました。

誤解7 新田開発は必ず水争いを引き起こした

新田開発によって水需要が増え、対立する場合はありましたが、必ず紛争になったわけではありません。

誤解8 用水組合は現代の法人組織と同じだった

近世の用水組合は共同管理を目的とする組織でしたが、現代の土地改良区などと制度的に同一ではありません。

まとめ

戦国時代の水争いは、農業用水の利用や配分、施設の管理をめぐる重要な問題でした。

水田を耕作するには水が必要ですが、一つの川や用水路の水を複数の村が利用する場合、その配分や管理を調整しなければなりません。

戦国時代にも水論は存在しました。

享禄二年(一五二九年)の越前国では、朝倉氏の府中奉行人が村々の用水争論に関与し、従来の利用慣行を尊重する裁定を行っています。

この事例は、戦国大名が領国の軍事・外交だけでなく、村々の生活と農業生産に関わる問題を調整していたことを示しています。

江戸時代になると、複数の村による用水組合や、時間を区切って配水する番水などの仕組みが発達していきました。

しかし、用水管理の協力関係が存在しても、水争いがなくなったわけではありません。

渇水時の取水量だけでなく、堰の位置、施設の修繕費用、排水、新田開発など、多くの問題が争論の原因となりました。

争いを解決するため、当事者同士の内済、村役人による仲裁、領主の裁断、幕府評定所への訴えなどが用いられる場合がありました。

ただし、これらの制度をすべて戦国時代へ遡及することはできません。

水論の歴史は、単に水を奪い合った歴史ではありません。

限られた水をどのように分け、どのような権利や負担を認め、地域社会の秩序を維持していったのかという歴史です。

戦国大名の領国支配も、村落の自治や協力も、水の利用という日常的な課題の中に具体的な姿を見せているのです。

FAQ

Q1. 戦国時代にも水争いはありましたか?

ありました。享禄二年(一五二九年)の越前国では、用水をめぐる村々の争いに対し、朝倉氏の奉行人が裁定を行った記録があります。

Q2. 水論とは何ですか?

農業用水の取水、配分、施設管理などをめぐる争論です。必ずしも武力衝突を意味しません。

Q3. 番水とは何ですか?

限られた農業用水を、時間や順序を定めて交替で利用する仕組みです。具体的な方法は地域や水路によって異なります。

Q4. 水番とは何ですか?

用水の配分や施設の管理などに関わる役割です。具体的な職務や選任方法は地域・時代によって異なります。

Q5. 上流の村は下流の村より優先されたのですか?

地理的に有利な場合はありましたが、先例や水利慣行、領主の裁定などが関係するため、全国一律の優先権があったわけではありません。

Q6. 用水権と現代の水利権は同じですか?

完全には同じではありません。歴史上の引水権や用水慣行と、現代河川法に基づく制度を区別する必要があります。

Q7. 水争いはどのように解決しましたか?

当事者の話し合い、仲裁、領主による裁定などが用いられました。江戸時代には幕府評定所への訴えが関係する場合もありました。

Q8. 用水組合とは何ですか?

複数の村が同じ農業用水を共同で利用・管理するための組織です。近世の大丸用水九ヶ村組合などが知られています。

Q9. 新田開発と水争いには関係がありますか?

新しい田畑へ水を供給すると既存の利用者との調整が必要になる場合があります。ただし、すべての新田開発が水争いを引き起こしたわけではありません。

Q10. 水論絵図とは何ですか?

水争いの対象となる河川、水路、堰、田畑や村境などを描いた絵図です。当事者の主張や裁定の内容を理解するための史料になります。

参考資料

1. 『福井県史』通史編2 中世「用水相論」
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-3-01-05-04-04.htm

2. 『福井県史』通史編3 近世一「用水をめぐる争論」
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-3-01-02-04-05.htm

3. 足立区立郷土博物館「見沼代用水」
https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-minumadai.html

4. 稲城市「大丸用水 江戸時代の歴史を中心として」
https://www.city.inagi.tokyo.jp/kanko/rekishi/1011408/1003784/1003792.html

5. 関東農政局「近世の開拓と水をめぐる混乱」
https://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/kanna/rekishi/03.html

6. 関東農政局「横堰による開発」
https://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/chushin/rekishi/03.html

7. 文化庁「水と暮らしの風景史―古地図と景観がひらく飛鳥」
https://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/bunkazai/bunkazai_125.html

8. 喜多村俊夫「いわゆる水上村用水支配の事例研究」
『水資源・環境研究』1988年
https://doi.org/10.6012/jwei.1988.1

9. 橋本征治「近世の砺波地方における村落間にわたる水利組織について」
『地理学評論』1974年
https://doi.org/10.4157/grj.47.761

10. 渡邊浩貴「近世村落の湧水紛争と水資源開発」
『神奈川県立博物館研究報告 人文科学』第48号、2022年
https://doi.org/10.60211/bkpmcs.2022.48_61

11. 杉山容一「近世における水をめぐる村落間紛争―駿州志太郡蓮華寺池用水争論を例に―」
『東北文化研究所紀要』第47号、2015年
https://tohoku-gakuin.repo.nii.ac.jp/records/554

12. 「近世における用水利用と施設維持の共同負担をめぐる村落の対立―椿新田十八カ村の紛争解決」
『千葉大学人文公共学研究論集』第41号、2020年
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050851497138607872

13. 「日本村落社会における用水管理組織の社会史的研究」
https://cir.nii.ac.jp/crid/1910583860673342720