戦国時代、城から城へ命令を伝え、使者を遠方へ送り、必要な物資を運ぶには、道路や馬を利用する仕組みが欠かせなかった。
自分の馬を連れて出発すれば、どこまでも同じ馬で移動できるわけではない。馬の疲労や道の状態、移動距離を考えれば、途中で新たな馬を用意する必要が生じることもある。
そこで重要になったのが、交通路の拠点で馬を用意し、必要に応じて次の地点へ送り継ぐ「伝馬(てんま)」という仕組みである。
一方、その馬を集めたり、提供したりする義務が「伝馬役(てんまやく)」である。
戦国大名が公用の使者に馬を利用させるには、命令を出すだけでなく、地域で実際に馬を調達する人々が必要だった。
その役割を担ったのが、宿や郷の有力者、問屋、町場の住民などである。
たとえば1564年、北条氏政の印判状写では、武蔵国関戸郷の伝馬役について平常時3疋、戦時10疋という具体的な負担が記録されている。
ただし、この数値は関戸郷について一定期間に定められたものであり、全国の伝馬役の標準ではない。
この記事では、伝馬と伝馬役の基本的な仕組みを説明したうえで、1555年の関戸宿、1564年の北条氏政印判状、1561年の武田氏朱印状、1583年の北条氏伝馬手形などを読み解く。
そして、誰が馬を提供したのか、問屋は何を担当したのか、負担はどう定められたのか、江戸時代の宿駅制度とは何が違うのかを考えていく。
1. 戦国時代の伝馬とは何か
伝馬とは、公的な交通や輸送のために、交通拠点で馬を用意し、必要に応じて次の地点へ継ぎ立てる仕組みを指す。
ここで重要なのは、伝馬を単に「馬を使った運送」と同じ意味にしないことである。
中世には、荷物を馬に載せて運ぶ商人や馬借なども存在した。しかし、彼らが行った商業輸送のすべてが伝馬だったわけではない。
伝馬は、領主や政治権力による公用の通行・輸送と深く関係していた。
戦国大名の使者が書状を運んだり、軍事・行政上の必要によって人や物を移動させたりする際に、伝馬を利用することがあった。
ただし、公用交通であっても、利用条件や対象は領国や時期によって異なる。
また「伝馬」という言葉が文書に登場した場合、馬そのものを指すのか、馬の供出や継立の仕組みを指すのかは文脈で判断する必要がある。
伝馬とは、馬という移動手段と、それを利用可能にする交通上の仕組みが結びついた制度だった。
2. 伝馬役とは何か
伝馬役とは、伝馬に必要な馬を用意したり、その運用に必要な負担を担ったりする役である。
戦国大名が交通路を利用するためには、宿や郷に馬の提供を命じる場合があった。
しかし、馬が必要なときに突然現れるわけではない。
馬を飼育し、手配し、移動のために差し出すことには、地域の人々の労力と費用がかかった。
また、伝馬の手配を誰が取りまとめるのかという問題もあった。
伝馬役を負担した人々と、現場で全体を差配した責任者は、同じ人物とは限らない。
さらに、伝馬役という語を現在の税金に完全に置き換えることも適切ではない。
金銭だけを納めればよい負担ではなく、馬や労働力の提供に関係する場合があったからである。
実際の内容は、当時の命令文書や宿・郷の記録から確認する必要がある。
3. 伝馬と伝馬役・継立・問屋の違い
戦国時代の交通制度には、似たような言葉が登場する。
しかし、それぞれの役割は異なる。
| 用語 | 基本的な意味 | 注意点 |
|---|---|---|
| 伝馬 | 公用交通のための馬や、その利用・継送の仕組み | 一般の馬による運送すべてを意味しない |
| 伝馬役 | 伝馬の提供などを担う負担 | 地域・時期ごとに内容が異なる |
| 継立 | 交通拠点で馬などを次へ送り継ぐこと | 戦国期と江戸期の運用は同一ではない |
| 問屋 | 宿で商人・旅行者の取り扱いや伝馬の差配を担う人物・組織 | 役割は地域ごとに異なる |
| 伝馬手形 | 伝馬利用の命令・資格などを伝える文書 | 文書の形式や発給主体は異なる |
| 印判状 | 印章を用いて発給された命令・確認文書 | すべてが伝馬専用文書ではない |
| 伝馬朱印状 | 朱印を用いる伝馬関係文書の呼称 | すべての時代・大名に一律適用しない |
| 兵糧運送役 | 軍用食料などの輸送負担 | 伝馬役そのものと同義ではない |
特に重要なのは、伝馬を利用する権限と、実際に馬を用意する負担を区別することである。
領主から使用を認められた使者がいても、その使者自身が馬を飼っていたとは限らない。
一方、馬を供出するよう命じられた地域の人々は、必ずしも伝馬を自由に使用できたわけではない。
4. なぜ戦国大名には伝馬が必要だったのか
戦国大名は、広い地域に存在する城や家臣、領民に命令を伝える必要があった。
大名がすべての現地へ出向くことはできないため、書状を運ぶ使者や命令を伝達する仕組みが重要だった。
また、軍勢が移動する際には、必要な情報や命令を前線と本拠地の間でやり取りすることも求められた。
こうした活動を支えるためには、移動中の使者が利用できる馬を確保することに意味があった。
伝馬の継立が利用できれば、使者は途中で馬を替えることが可能となる。
ただし、伝馬制度があるだけで、必ず遠距離の伝達が速くなると数値的に断定することはできない。
道路の状態、馬の確保、気象条件、通行の安全、命令の優先度などによって実際の移動は変わる。
戦国大名が伝馬を重視したのは、単に馬の速さのためではなく、必要な交通を継続的に確保するためでもあった。
5. 宿とはどのような場所だったのか
戦国時代の「宿」は、人や物資が集まり、交通を支える場所として重要だった。
街道沿いに家屋が並び、商人や参詣者が宿泊する町場が発達した例もある。
しかし、戦国時代の宿を、江戸時代の五街道に設置された宿場とまったく同じ制度と考えてはいけない。
戦国期の宿には、地域の郷村の一部として形成された町場もあった。
『多摩市史』では、関戸宿について、関戸郷の一部を構成する町場と理解できることが説明されている。
宿に屋敷を持つ人々が伝馬役を負担する場合もあり、宿と周囲の郷村は切り離せない関係にあった。
宿とは、単なる宿泊施設の集合ではない。
交通を利用する人々を受け入れ、馬や人の手配を行い、地域の経済活動と結びつく拠点だったのである。
6. 継立はどのように行われたのか
継立とは、移動する使者や物資に必要な馬などを、交通拠点で次へ送り継ぐことである。
ある宿へ到着した使者が、その先の道を進むために別の馬を必要とする場合を考えてみよう。
そこで馬を用意できなければ、使者は待たなければならない。
反対に、宿に必要な馬が確保されていれば、移動を続けやすくなる。
ただし、ここで描いた流れは制度を理解するための一般的な説明であり、すべての戦国期の宿で同じ手順が取られたと確認できるわけではない。
馬をどのような順序で準備したか、誰が引率したか、どこまで運んだかなどは、個別の史料によって異なる可能性がある。
伝馬役の重要性は、馬を一頭所有していることではなく、必要な時点で公用交通へ提供できる体制にあった。
7. 誰が伝馬役を負担したのか
伝馬役の負担者を「すべての農民」と一括することはできない。
地域によっては、宿に屋敷を持つ町人や、宿を含む郷村の人々が負担に関わった。
『多摩市史』では、後北条領国の宿について、宿に屋敷を持つ者が町人とされ、伝馬役を課されたことが研究成果として紹介されている。
ただし、こうした研究上の整理を全国共通の制度として扱ってはいけない。
地域の有力者が取りまとめ役を担い、他の住民へ負担を割り当てる場合もあった。
また、伝馬役がどのような基準で割り当てられたかは、郷村や領主の支配制度と関係していた。
「馬を持っている人だけが伝馬役を負った」と断定するのも適切ではない。
実際の負担と調達の仕組みは、地域ごとの文書を通じて考える必要がある。
8. 伝馬役はどのように割り当てられたのか
伝馬役の割り当てには、領主の命令と地域側の調達体制が関係していた。
大名側が一定の馬数を定めたとしても、その馬をどの家が提供するかまで常に直接決めていたとは限らない。
宿や郷の有力者が、地域内で具体的な調整を行う場合があった。
また、負担を決める基準として、土地や屋敷に関係する評価が利用された地域もある。
『多摩市史』が紹介する研究では、後北条領国で宿の貫高に比例して伝馬役の負担数が定められたことが指摘されている。
しかし、貫高が同じなら全国どこでも同じ馬数を負担したという意味ではない。
貫高を利用した割り当ての具体的な仕組みも、地域と時期を限定して理解する必要がある。
伝馬役を考える際には、領主が定めた負担数と、地域が実際に行った配分を分けることが重要である。
9. 問屋は伝馬制度で何をしたのか
問屋は、戦国期の宿で交通に関わる重要な役割を担った。
現在の問屋という言葉から、商品を大量に仕入れて販売する卸売業者を想像するかもしれない。
しかし、戦国時代の宿の問屋は、それだけでは説明できない。
商人や参詣者の宿泊に関わり、伝馬役の差配を行う人物が存在した。
宿にある屋敷や住民との関係を把握し、必要な馬の調達を取りまとめることは、交通拠点の運営に深く関係していた。
『多摩市史』では、関戸宿の問屋について、宿に屋敷を持つ町人へ伝馬役を配分し、馬を調達する責任者であったと説明されている。
ただし、すべての地域の問屋が同じ役職や権利を持っていたわけではない。
宿泊者の取り扱いと伝馬役の差配が、どのように結びついていたのかを個別の事例から理解する必要がある。
10. 関戸宿と有山源右衛門
戦国時代の伝馬制度を具体的に考える事例として、武蔵国の関戸宿がある。
関戸は現在の東京都多摩市にあたり、鎌倉街道と多摩川の交通に関係する要地だった。
戦国期には後北条氏の支配を受けており、交通上の重要性が高かった。
この関戸で問屋として活動した人物が有山源右衛門である。
『多摩市史』によれば、有山源右衛門は商人や参詣者に関係する問屋としての権利を認められる一方、伝馬役の差配を担っていた。
ここで注意したいのは、有山源右衛門が自分一人ですべての馬を提供したという意味ではないことである。
問屋は、宿に関係する人々の負担や調達を取りまとめる立場であり、実際に馬を出す人々とは役割が異なった。
関戸宿の事例は、戦国大名の命令と地域社会の交通負担をつなぐ人物の存在を示している。
11. 1555年、松田盛秀が問屋職を保障した理由
天文24年(1555年)正月11日、後北条氏の代官であった松田盛秀は、有山源右衛門に関係する判物を出した。
『多摩市史』によれば、この文書では、それまでの道者の問屋に加えて、商人問屋としての権利を保障している。
道者とは、社寺や霊場へ参詣する人々のことである。
つまり、有山源右衛門は、関戸宿を利用する商人と参詣者の取り扱いについて、一定の権利を認められたことになる。
その一方で、伝馬以下の業務を怠らず差配するよう求められた。
これは、問屋として営業上の権利を得ることと、公用交通を支える責任が結びついていた例として重要である。
ただし、「伝馬役の差配」をすべての人馬負担の個人請負と同一視してはいけない。
文書に示された権限と責任の範囲を区別する必要がある。
12. 問屋の特権と負担は交換関係だったのか
関戸宿の1555年の文書を見ると、問屋としての権利と伝馬役の差配が対応していることが分かる。
有山源右衛門は、商人や参詣者を取り扱う権利を保障される一方で、地域の伝馬の手配を担った。
これは、特権を与えられた人物が、領主の交通政策を実行する役割を持つことを示す。
しかし、現代の契約書と同じ形式で、権利の経済価値と負担額が一対一で交換されたと考えてはいけない。
問屋が得た利益や、伝馬調達の費用を正確に比較するためには、別の史料が必要である。
また、同じ後北条領国内でも、宿や問屋の権利には違いがあった。
『多摩市史』が取り上げる相模国当麻宿では、商人と道者で宿泊先の取り扱いが異なった。
関戸宿では商人と道者が同じ問屋に関係していたと説明されており、宿の運営方法が一律ではなかったことが分かる。
13. 1564年の北条氏政印判状写
伝馬役の具体的な負担を示す重要な史料が、永禄7年(1564年)9月20日の北条氏政印判状写である。
『多摩市史』によれば、この文書は関戸郷について、三つの事項を定めている。
第一に、従来から開かれていた市の日を、毎月3日・9日・13日・19日・23日・29日とすること。
第二に、伝馬役を平常時3疋、戦時10疋とすること。
第三に、濁酒役と塩合物役を免除することである。
ここで注目すべきなのは、交通負担と市場の運営、商品の販売に関わる負担の免除が、一つの文書の中で扱われている点である。
後北条氏にとって、交通上の拠点を支えることと、地域の商業活動を維持することは、互いに関係していたと考えられる。
ただし、この史料は「写」として伝わる文書であり、原本を直接確認した記録と同じ確実性で扱ってはいけない。
14. 平常時3疋・戦時10疋とは何を意味するのか
1564年の北条氏政印判状写では、関戸郷の伝馬役が平常時3疋、戦時10疋とされている。
「疋」はここでは馬の頭数を数える単位である。
この記録から分かるのは、少なくとも関戸郷で、平常時と戦時に異なる馬数の負担が定められたことである。
戦時には多くの馬を必要とする状況が想定されていたと考えられる。
ただし、「平常時3疋」とあるからといって、毎日必ず3頭の馬が実際に使用されたことを示すとは限らない。
同じように「戦時10疋」は、すべての戦いの間、毎日10頭が遠方へ出ていたという実績記録ではない。
これは負担に関する規定であり、実際の利用量を記録した帳簿ではないからである。
また、全国の戦国大名が平常時3疋・戦時10疋を標準としていたという証拠にもならない。
規定された馬数と、実際に使用された馬数を区別することが重要である。
15. 1564年と1565年だけの措置だった理由
北条氏政印判状写には、伝馬役の3疋・10疋という規定を、1564年と1565年の措置とすることが記されている。
そして永禄9年(1566年)からは、以前の扱いに戻すとしている。
この点は、伝馬役の負担が恒久的な固定数ではなかったことを示している。
ただし、なぜこの二年間だけ負担を変更したのかについて、史料の記載範囲を超えた断定は避けなければならない。
戦争の状況や領国政策などとの関連を考える余地はあるが、明確な理由を示すには、関連する命令や政治状況を追加検討する必要がある。
また、1566年に以前の状態へ戻すと記されていても、その後の実際の運用をすべて証明するわけではない。
命令の内容と、命令が現地でどの程度実施されたかは分けて考える必要がある。
関戸郷の文書は、伝馬役が地域の条件に応じて調整される制度だったことを示す貴重な材料である。
16. 伝馬役の負担は戦時に増えたのか
関戸郷の1564年の例では、戦時の負担数は平常時より多い。
このことから、戦国大名が軍事上の状況に応じて交通の準備を増やそうとした可能性を考えられる。
しかし、「戦国時代にはすべての宿で戦時の馬数が平常時の数倍になった」という一般論にはできない。
地域によって軍事上の位置づけは異なる。
国境近くの拠点と領国の内部にある拠点では、必要とされた交通の条件も異なり得た。
また、戦争が起きたからといって、すべての宿が同じ期間に同じ負担を命じられたわけではない。
伝馬役の増減を考える際は、特定の領主、地域、年代、命令文書を確認することが欠かせない。
関戸郷の3疋・10疋は、戦国時代の負担の変化を具体的に考える事例として扱うべきである。
17. なぜ伝馬役と六斎市が同じ文書にあるのか
1564年の北条氏政印判状写には、伝馬役の規定だけでなく、関戸郷で開かれる六斎市についての定めも含まれている。
六斎市とは、一定の日に開かれる定期市のことである。
関戸郷では、毎月3と9のつく日に市場を開くことが定められていた。
これは、商人が商品を取引する場の運営に関わる規定である。
一方、伝馬役は公用交通を支える負担だった。
異なる二つの制度が同じ文書に記されていることは、領主が交通と市場を一体の地域政策として扱っていたことを考える手がかりになる。
ただし、市場を開いた直接の目的が伝馬役の財源を確保することだったと断定するには、さらに検証が必要である。
六斎市の成立や機能については研究上の議論もあり、一つの文書だけで政策のすべてを確定できるわけではない。
18. 伝馬役と商業負担の免除
同じ1564年の文書には、濁酒役と塩合物役の免除も記されている。
濁酒役は酒に関係する負担、塩合物役は塩漬けにした魚類などに関係する負担として説明される。
ここで重要なのは、これらの免除が伝馬役そのものの免除ではないことである。
関戸郷では、伝馬役について具体的な馬数を定める一方で、市場の取引に関わる一定の負担を免除していた。
そのため、「北条氏政が関戸郷のすべての課役を免除した」という説明は正しくない。
異なる負担を個別に整理し、ある負担は残し、別の負担は免除するという政策が存在した。
この事例を理解するには、伝馬役、商業上の課役、関銭などをそれぞれ区別する必要がある。
19. 武田氏の伝馬制度と朱印
戦国時代に伝馬を利用したのは後北条氏だけではない。
甲斐の武田氏も、領国内の交通に関係する命令を出していた。
長野県の八十二文化財団が紹介する「清水家文書」には、永禄4年(1561年)の武田信玄朱印状が含まれる。
解説によれば、この文書は武田氏の朱印を持つ者以外による伝馬の使用を禁じた内容である。
これは、伝馬が誰でも自由に利用できる公共交通手段ではなかったことを示す重要な例である。
伝馬を利用する資格は、領主が発給する文書と結びついていた。
ただし、この文書から、武田領国内のすべての伝馬利用が常に同じ書式で処理されたとまでは断定できない。
また、朱印状の存在と、特定の使者が実際に何頭の馬を利用したかは別の問題である。
20. 伝馬手形は何のために必要だったのか
伝馬を利用するとき、宿の人々が誰の命令に従って馬を用意すべきか判断する必要があった。
そこで重要になるのが、伝馬手形などの文書である。
伝馬手形は、馬を供出させる命令や利用の権限を示す文書として利用された。
使者が手形を示せば、宿はその命令に従って馬を準備する根拠を確認できる。
ただし、戦国期の伝馬関係文書がすべて「伝馬朱印状」という同じ名称で呼ばれたわけではない。
印章を用いた文書、花押を用いた文書、特定の印判を持つ伝馬手形など、文書形式には違いがあった。
また、どの文書にも全国共通の利用条件が記されていたわけではない。
実際の史料では、発給者、宛先、利用する区間、使用目的などを確認する必要がある。
21. 1583年の北条氏伝馬手形
早稲田大学図書館の古典籍総合データベースには、天正11年(1583年)7月28日の「北条氏伝馬手形」が紹介されている。
所蔵目録によれば、山角紀伊守から朝比奈弥太郎へ宛てた文書で、小田原から沼津までの宿中に関係する。
早稲田大学図書館の解説では、後北条氏の本拠地である小田原から、徳川領国の前線にあたる駿河沼津までの宿駅へ、伝馬の供出を命じたものとされている。
この文書は、公用の移動が複数の宿にまたがっていたことを考えるうえで重要である。
しかも、朝比奈弥太郎は徳川家の家臣として解説されている。
そのため、伝馬の利用を単純に「一つの大名の家臣だけが領内で使う制度」と理解できない事例である。
ただし、この手形の存在を根拠に、北条氏と徳川氏のすべての使者が無条件で相互に伝馬を利用できたとは説明できない。
個別の命令として、対象となる人物と交通区間を確認する必要がある。
22. 朱印状と印判状は同じものか
戦国時代の交通文書には「朱印状」「印判状」「判物」などの言葉が登場する。
これらは関係する用語だが、完全な同義語ではない。
小田原デジタルミュージアムの解説によれば、後北条氏の文書には、花押を用いる判物と、印章を捺す印判状などが存在した。
後北条氏の虎朱印は、当主の命令を発給する際に用いられた。
一方、伝馬手形には「常調」の印判も使用されたと説明されている。
このように、同じ大名家の文書であっても、目的に応じて異なる印章が用いられる場合があった。
そのため、朱印がある文書を見ただけで伝馬に関する命令だと断定することはできない。
反対に、伝馬に関係する文書がすべて同じ印章を持つとも限らない。
文書の内容、宛先、印章、発給の時期を合わせて読むことが重要である。
23. 無許可で伝馬を使えたのか
戦国時代の伝馬については、使用する権限が大きな問題だった。
武田氏の1561年の史料では、所定の朱印を持たない者による伝馬の使用を禁じたことが紹介されている。
これは、伝馬を無制限に利用させると、馬を提供する地域の負担が増える可能性があったためとも考えられる。
ただし、命令が出された理由をこの一つだけに断定することはできない。
領主にとっては、公用交通を優先させることや、命令の正当性を確かめることにも意味があっただろう。
伝馬手形や朱印状は、宿の人々が馬を用意すべき相手を見分ける根拠となった。
一方、これらの文書を持つ者が、必ずどの宿でも何頭でも自由に利用できたわけではない。
利用区間や命令内容を確認する必要がある。
伝馬は、馬の調達制度であると同時に、その使用権限を管理する仕組みでもあった。
24. 伝馬役は免除されることがあったのか
中世・戦国期の課役には、特定の人物や寺社などに免除を認める例がある。
ただし、免除という言葉だけを見て、それが必ず伝馬役の免除だったと判断してはいけない。
関戸郷の1564年の文書では、濁酒役と塩合物役が免除されているが、伝馬役は別に定められている。
つまり、ある負担が免除されても、他の役まで一律に免除されるわけではない。
伝馬役そのものの免除を確認するには、その名称や具体的な負担内容が書かれた命令を調べる必要がある。
また、免除の対象となる人、屋敷、寺社、地域、期間を区別することも重要である。
「戦国大名が寺社を保護したので、その寺社に関係する人々のすべての交通負担がなくなった」という一般化はできない。
25. 1570年の武田信玄朱印状と輸送役免除
伝馬役に関連する比較資料として、上田市が紹介する「西光寺文書」がある。
元亀元年(1570年)9月23日、武田信玄は西光寺に関係する役の免除を認める朱印状を出した。
上田市の解説によれば、寺から鎖張が進上されたことへの褒美として、門前百姓3人分について普請役や兵糧運送役を免除した。
この文書は、領主が特定の人々について負担を免除することがあった具体例である。
ただし、ここに記されたのは普請役と兵糧運送役であり、伝馬役そのものと断定することはできない。
兵糧運送役は、軍事上の食料輸送に関係する負担である。
伝馬役と同じ公用の輸送に関わることがあっても、制度上の名称や負担内容は区別する必要がある。
この史料は、伝馬役の直接の免除例としてではなく、戦国大名による輸送・労役負担の免除を理解する比較例として重要である。
26. 伝馬と兵糧輸送・陣夫役の違い
戦国時代の輸送負担を調べると、伝馬役以外にも多くの用語が登場する。
兵糧運送役は、軍勢が必要とする食料などを運ぶ負担を指す。
陣夫役は、軍事活動に必要な労働力の動員に関係する。
普請役は、城や道路などの工事に人手を提供する負担として知られる。
これらはすべて戦国大名の活動を支えることがあったが、同じ制度ではない。
また、馬を用いた輸送が行われたからといって、必ず伝馬役という名称で負担が課されたわけではない。
個別の命令文書では、何を出すよう求められたのか、誰が対象なのか、どこまで運ぶのかを確認する必要がある。
軍事輸送について考える場合も、伝馬制度だけですべてを説明することはできない。
戦国期の交通負担には、公用の使者の移動、荷物の継送、兵糧輸送など、異なる目的が存在した。
27. 伝馬と関所・関銭は同じ制度なのか
伝馬と関所は、どちらも交通路に関係するが、中心となる仕組みは異なる。
伝馬は、公用交通に必要な馬の供出や継立に関係する。
一方、関所は人や物資の通行を管理し、関銭などを徴収する施設・権利として存在した。
ただし、同じ交通拠点で、伝馬役と関銭の徴収が関係することはあった。
たとえば関戸宿では、有山源右衛門が伝馬を差配しただけでなく、後の文書では関銭の上納責任も負っていた。
『多摩市史』が紹介する1586年の松田憲秀印判状写では、有山源右衛門が関銭5貫文の上納に関係していたことが記されている。
しかし、この5貫文を1564年の伝馬役3疋・10疋に対する金銭換算額だと考えてはいけない。
別の年代の別の負担だからである。
交通拠点では複数の制度が重なり得たが、それらの負担の根拠と目的は区別して理解する必要がある。
28. 戦国時代と江戸時代の宿駅制度の違い
伝馬という言葉は、江戸時代の宿駅制度を説明する際にも登場する。
江戸幕府は公用交通のため、東海道などで馬や人足を用意する仕組みを整えていった。
しかし、その制度を戦国時代のすべての宿にそのまま当てはめることはできない。
戦国期には大名ごとに領国内の交通政策があり、宿や郷の構成、負担の割り当て、文書の形式も異なっていた。
一方、江戸時代には幕府の街道政策のもとで、公用交通を支える宿駅制度が整えられた。
後世の制度で知られる五街道、宿場の定員、助郷の仕組みなどを、戦国時代の一般的な姿として説明するのは適切ではない。
たとえば関戸郷の1564年の伝馬役を、江戸時代の東海道宿場の規定から計算し直すことはできない。
同じ用語が続いていても、政治権力と交通制度の関係は時代によって変化したのである。
29. 伝馬制度から何が分かるのか
伝馬制度を調べると、戦国大名の支配が城や軍勢だけで成り立っていたわけではないことが分かる。
領主が遠方へ命令を伝えるには、その命令を運ぶ人が必要だった。
さらに、その人が移動するには、途中の宿で馬を用意する地域社会の協力が必要だった。
関戸宿の有山源右衛門の事例は、問屋という地域の有力者が、大名の命令と住民の負担を結びつけていたことを示している。
また、1564年の北条氏政印判状写は、伝馬役の負担を具体的な馬数で定め、一定期間について変更していたことを示す。
武田氏の文書からは、伝馬利用の権限が朱印によって管理される場合があったことが分かる。
さらに、1583年の北条氏伝馬手形は、特定の使者と交通区間に向けて実際に伝馬の供出が命じられた例を伝えている。
こうした史料を組み合わせることで、伝馬制度の仕組みを一つの単純な全国共通制度ではなく、地域・権利・負担の関係として理解できる。
30. 伝馬・伝馬役の年表
| 年代 | 主な出来事 | 史料上の意味 |
|---|---|---|
| 古代〜中世 | 駅伝・伝馬に関係する交通制度が展開 | 戦国期の制度と同一とは限らない |
| 1555年 | 松田盛秀が関戸宿の有山源右衛門に商人問屋の権利を保障 | 問屋の権利と伝馬差配の関係 |
| 1561年 | 武田氏の朱印がない者の伝馬利用を禁じた文書 | 伝馬使用権限の制限 |
| 1564年 | 北条氏政印判状写で関戸郷の伝馬役を規定 | 平常時3疋・戦時10疋 |
| 1565年 | 関戸郷で前記の期限付き規定が継続する扱い | 限定期間の負担規定 |
| 1566年 | 関戸郷の伝馬役を以前の扱いに戻すとする規定上の予定年 | 実際の運用実績とは区別 |
| 1570年 | 武田信玄が西光寺門前百姓3人分の普請・兵糧運送役を免除 | 伝馬役とは別の役の比較例 |
| 1583年 | 北条氏伝馬手形 | 小田原から沼津までの公用交通 |
| 1586年 | 関戸の有山源右衛門に関銭上納責任があることを示す文書 | 伝馬役とは別の交通関連負担 |
| 江戸時代 | 幕府が街道の宿駅・伝馬制度を整備 | 戦国期制度との違い |
この年表は、史料が示す個別の出来事を並べたものである。
戦国時代に全国一律の伝馬制度が完成したことを意味するものではない。
31. よくある質問
Q1. 戦国時代の伝馬とは何ですか?
領主などの公用交通に必要な馬を、宿などの拠点で用意し、次の地点へ継ぎ立てる仕組みです。一般の馬による運送すべてを指すわけではありません。
Q2. 伝馬役とは何ですか?
伝馬に必要な馬の提供や調達に関係する負担です。地域・時期によって内容や割り当てが異なりました。
Q3. 伝馬役は誰が負担したのですか?
宿に屋敷を持つ町人や地域の住民などが負担した例があります。問屋が馬の調達や負担の配分を差配する場合もありました。
Q4. 伝馬と馬借は同じですか?
同じではありません。伝馬は公用交通と結びついた制度であり、馬借は陸上輸送に関係する運送の担い手として知られます。
Q5. 継立とは何ですか?
移動する使者などのために、宿などの交通拠点で馬を用意して次へ送り継ぐことです。
Q6. 関戸郷の伝馬役は何頭でしたか?
1564年の北条氏政印判状写では、平常時3疋・戦時10疋とされています。ただし、1564年と1565年の期限付き措置であり、全国共通の基準ではありません。
Q7. 伝馬朱印状とは何ですか?
領主の朱印などを用いて、伝馬の利用・供出に関する命令を示した文書です。実際の名称や形式は地域・年代によって異なります。
Q8. 誰でも伝馬を使えたのですか?
自由に使える制度ではありませんでした。武田氏の1561年の文書には、所定の朱印を持つ者以外による使用を禁じた例があります。
Q9. 伝馬役は免除されましたか?
課役の免除は個別に認められる場合がありました。ただし、伝馬役そのものの免除か、兵糧運送役など別の役の免除かを文書で区別する必要があります。
Q10. 江戸時代の宿場と同じ制度ですか?
同じではありません。戦国大名による地域ごとの伝馬政策と、江戸幕府による五街道などの宿駅制度は、時代と運営主体を区別して理解する必要があります。
32. まとめ
戦国時代の伝馬は、公用の交通を支えるために馬を用意し、宿などの拠点で継ぎ立てる仕組みである。
伝馬役は、その馬の提供や調達に関係する負担だった。
しかし、誰が何頭を負担するのかは全国で一律ではない。
関戸宿の1555年の松田盛秀判物では、有山源右衛門が商人問屋の権利を保障される一方、伝馬の差配を命じられた。
1564年の北条氏政印判状写では、関戸郷の伝馬役が平常時3疋、戦時10疋と定められた。
この規定は二年間の措置であり、長期間の全国標準ではなかった。
武田氏の1561年の朱印状からは、伝馬の使用権限が領主の文書によって管理される場合があったことが分かる。
さらに、1583年の北条氏伝馬手形は、小田原から沼津までの公用交通を支える具体的な命令を示している。
伝馬制度を理解するには、馬を利用する人物、馬を差し出す地域、負担を差配する問屋、命令を発給する領主を分けて考えることが重要である。
戦国時代の伝馬は、軍事や行政を支える制度であると同時に、地域社会が担った負担の歴史でもあった。
33. 史料・参考文献
1. 『多摩市史 通史編1』「関戸宿の問屋有山源右衛門」。
https://adeac.jp/lib-city-tama/texthtml/d100010/mp000010-100010/ht051130
2. 『多摩市史 通史編1』「六斎市」。
https://adeac.jp/lib-city-tama/texthtml/d100010/mp000010-100010/ht051140
3. 早稲田大学図書館 古典籍総合データベース「北条氏伝馬手形」。
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko12/bunko12_00074_0001/
4. 早稲田大学図書館 古典籍総合データベース「日本の歴史」資料解説。
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/ga_jhistory/list_04.html
5. 小田原デジタルミュージアム「小田原の歴史と民俗」北条氏の文書。
https://odawara-digital-museum.jp/history/
6. 八十二文化財団「清水家文書」長和町所在・1561年武田信玄朱印状。
https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=535&seq=0
7. 上田市の文化財「紙本墨書武田信玄朱印状(西光寺文書)」。
https://museum.umic.jp/bunkazai/document2/095.php
8. 『日本大百科全書』「伝馬」。
https://kotobank.jp/word/伝馬-102785
9. 『改訂新版 世界大百科事典』「関戸」。
https://kotobank.jp/word/関戸-1041985
10. 多摩市立図書館「多摩市市制施行50周年記念誌」関戸関係史料。
https://adeac.jp/lib-city-tama/texthtml/d100060/mp000010-100060/ht000280
史料上の制約:
– 1564年の北条氏政印判状は『多摩市史』が紹介する「写」に基づく。
– 関戸関係文書には原本と写があり、文書によって現存状況が異なる。
– 1583年の北条氏伝馬手形については早稲田大学図書館の資料解説を参照した。
– すべての原史料の全文逐語照合を完了したわけではない。
– 戦国時代の地域別負担を全国一律の規定として扱わない。

