この記事で分かること

天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原北条氏を攻撃しました。

その戦争の一部として、石田三成らが攻めたのが武蔵国の忍城です。

忍城は現在の埼玉県行田市にあり、低湿地と沼を利用した独特の城でした。

三成は大規模な堤を築き、水を引き込む「水攻め」を行います。

ところが忍城は簡単には沈まず、小田原城が開城した後まで持ちこたえました。

なぜでしょうか。

まず結論――忍城は「水に弱い城」ではなく、もともと水と低湿地を防御に使う城だった

行田市公式によれば、忍城は北を利根川、南を荒川に挟まれ、小河川や伏流水が集まる広大な沼地の中に築かれました。

自然堤防や微高地、島のような地形を利用しています。

つまり水攻めを受ける前から、周囲に水が多い城でした。

攻撃側から見ると、

  • 大軍が近づきにくい
  • 重い装備を運びにくい
  • 攻撃路が限られる
  • 地元の地形を知らないと動きにくい

という難しさがあります。

忍城は誰の城だったのか

忍城は成田氏の本拠でした。

戦国期の成田氏は、古河公方、関東管領上杉氏、北条氏、上杉謙信など、関東の大勢力の間で生き残ってきました。

最終的には北条氏に属する立場となり、1590年の豊臣秀吉による関東平定で攻撃対象になります。

なぜ石田三成が忍城を攻めたのか

秀吉は小田原城を大軍で包囲する一方、北条方の支城を各地で攻略させました。

忍城もその一つです。

本城の小田原だけを囲んでも、支城や地域勢力が残れば北条支配のネットワークは維持されます。

そのため豊臣軍は、関東各地で北条方の拠点を切り崩しました。

城主は忍城にいなかった

行田市資料では、忍城主・成田氏長は北条氏を支援するため小田原へ出陣していました。

忍城には一族や家臣が籠城します。

つまり「大名本人が城にいないから弱い」という状況ではありませんでした。

城を守るための組織と地形が機能していたことになります。

石田三成の軍勢

行田市の資料では、三成は北関東の諸将からなる約2万人規模の軍勢で忍城を包囲したと紹介されています。

守備側より大幅に多い兵力です。

普通なら、これだけの兵力差があれば正面攻撃で押し切れそうに見えます。

しかし忍城周辺の低湿地は、大軍の展開を難しくします。

なぜ水攻めを選んだのか

水攻めの狙いは、直接城壁を破るのではなく、城と城下を水で孤立させることです。

兵糧。 移動。 士気。 通信。

これらを水によって破壊できれば、少ない損害で降伏させられる可能性があります。

ただし、水攻めには精密な土木工事が必要です。

石田堤

行田市公式によれば、三成らは忍城を囲むため全長約28kmに及ぶ堤を築いたとされます。

現在もその一部が「石田堤」として残っています。

市の文化財解説では、自然堤防や微高地を巧みに利用し、そこへ盛土したものと考えられています。

つまり完全な人工ダムをゼロから築いたわけではなく、既存地形をつないで巨大な水攻めシステムを作ったのです。

本当に一週間で28km築いたのか

「一週間で28km」という非常に有名な説明があります。

行田市の石田堤解説でも、そのように伝わる一方、実際には自然堤防や微高地を利用したと考えられるとしています。

人力だけで完全な堤防を短期間にゼロから作った、と単純に考える必要はありません。

水攻めは本当に三成の失策だったのか

後世には、

「戦下手の石田三成が水攻めを思いつき、失敗した」

という人物像が作られることがあります。

しかし行田市の資料では、秀吉自身が忍城攻略で水攻めを行う考えを持ち、工事を進めるよう指示していたことが紹介されています。

したがって、

「三成個人の奇抜な失策」

とだけ見るのは適切ではありません。

水攻めはなぜ難しかったのか

水は城だけを都合よく沈めてくれません。

土地の高低。 川の流量。 堤の高さ。 堤防の強度。 雨量。 排水路。

これらすべてが影響します。

忍城は微高地や自然堤防を利用していたため、周囲が水につかっても城の主要部分が完全に沈むとは限りません。

「浮き城」と呼ばれた理由

行田市公式は、水攻めでも城がなかなか沈まず、人々が「城が浮いているようだ」と考えたことから「浮き城」の名が広まったと説明しています。

これは忍城の特徴をよく表す呼称です。

実際に城が水に浮いていたわけではなく、微高地に築かれた城が水面から島のように見えたと考えると分かりやすいでしょう。

堤が決壊したという伝承

忍城水攻めでは、堤が決壊したという話も有名です。

大規模な築堤は、それ自体が弱点を持ちます。

水圧。 雨。 地盤。 施工時間。

どこか一か所が崩れれば、水攻め全体の効果が下がります。

ただし、細かな決壊地点や原因については伝承と史料を分ける必要があります。

忍城は本当に「落ちなかった」のか

ここは言葉の整理が必要です。

行田市の資料では、水攻めで忍城は攻略されず、小田原城が先に開城したため、最終的に忍城も降伏・開城しました。

つまり、

「豊臣軍に一度も引き渡されなかった」 ではなく、 「水攻めによる強制攻略には屈しなかった」

という理解が適切です。

小田原城開城が忍城へ与えた影響

忍城がどれほど強くても、北条氏の本拠・小田原城が降伏すれば戦争全体の意味が変わります。

主君側の戦争が終わったのに、支城だけが永久に戦い続けることはできません。

これは城の防御力と国家の存続が別問題であることを示します。

成田氏は滅亡したのか

忍城開城後、成田氏は城を退去します。

しかし行田市資料では、当主氏長はその後、大名として復帰しています。

敗戦=一族全滅ではありません。

戦国武将は新しい権力構造へ適応することで生き残る場合があります。

忍城と小田原征伐の関係

小田原城。 忍城。 鉢形城。 八王子城。 山中城。

1590年の豊臣軍は、北条領国を複数方向から同時に攻めました。

忍城単体の攻防を見るだけでなく、全国規模の北条包囲戦の一部として見ることが重要です。

石田三成の評価

忍城水攻めの失敗から、

「三成は戦争が下手だった」

と結論づけるのは単純です。

三成は豊臣政権の行政官としても活動し、関ヶ原では西軍の中心人物になります。

忍城では、巨大な土木作戦を実行する能力そのものも必要でした。

成功・失敗だけで人物全体を決めるべきではありません。

勝敗を7要素で整理

要素 忍城側の優位
地形 低湿地・沼・自然堤防
城郭 微高地を利用
攻撃路 大軍が展開しにくい
水攻め 城全体を完全に沈めにくい
籠城 城主不在でも組織が機能
時間 小田原開城まで耐えた
戦争全体 最終的には北条降伏で開城

戦国倶楽部的分析――「水属性に強い城へ水攻めをした」ではなく、土木戦の限界

ゲーム的には「水攻め」という特殊コマンドを使えば城の防御力が下がるように見えます。

しかし現実には、地形そのものを読み違えると効果が限定されます。

忍城は、

水を敵にする城ではなく、水を防御資源として使う城

でした。

そこへさらに水を増やす作戦には、高度な地形理解が必要だったのです。

よくある疑問

Q. 忍城は石田三成に勝ったのですか

水攻めでは攻略されませんでしたが、小田原開城後に降伏しています。局地戦と戦争全体の結果を分ける必要があります。

Q. 石田三成が勝手に水攻めを始めたのですか

行田市資料では、秀吉も水攻めを進めるよう指示していたことが紹介されています。

Q. 石田堤は今も残っていますか

はい。行田市には県指定史跡として一部が残っています。

まとめ

忍城が落ちなかった理由は、単なる守備兵の勇敢さだけではありません。

低湿地。 沼。 自然堤防。 微高地。 複雑な水路。

こうした土地そのものが城の防御施設でした。

豊臣軍は巨大な堤を築いて水攻めを行いましたが、城を強制攻略するまでには至りません。

最終的に忍城が開いたのは、小田原城が先に降伏したからです。

忍城攻防戦は、

「城の強さ」と「戦争全体の勝敗」は別物である

ことを非常に分かりやすく示す戦いです。

参考情報

  • 行田市「忍城跡」
  • 行田市「石田堤」
  • 行田市「三成の水攻めのあと 石田堤」
  • 行田市歴史文化資料