石田 三成
いしだ みつなり
1540-1600
享年41歳。

 

名称:佐吉、三也、従五位下治部少輔、
従四位侍従


居城:近江水口城→近江佐和山城

■近江国の大名・浅井久政の家臣で近
江堀田郡の土豪・石田正継の子。
1574年(天正2年)、学問を修めるた
め、近郷の寺に入っていた三成は、
近江長浜城主となった羽柴秀吉と
出会う。

秀吉が鷹狩りの途中、喉が渇いた
ので近くの寺で茶を所望した。
接待したのが三成で、喉が渇いて
いるはじめには一気に茶を飲める
ように、ぬるい茶を出し、秀吉がも
う一服所望すると今度は少し熱い
茶を少なめに入れて出し、さらに
秀吉がもう一服と所望すると三度
目は茶を熱く濃くして出し、秀吉に
茶をじっくりと堪能できるようにした。
このことに秀吉は感心し、”なかな
か機転の利く者”として三成を気に
入り、家臣に取り立てたという。

■秀吉の中国攻略戦や賤ヶ岳の戦い
に従軍。賤ヶ岳合戦では七本槍に
次ぐ軍功を挙げた。
小牧・長久手の戦いにも参軍。この
頃から三成は武官としてではなく文
官として活躍し出す。

■1585年7月13日、秀吉の関白就任に
ともない三成も従五位下治部少輔
に叙任された。
豊臣政権下で五奉行の一人に列し
、太閤検地や九州平定戦での兵站
管理といった事務手腕で大いに活
躍を見せた。
内政面では堺奉行、博多奉行を兼
任するなど豊臣政権の奉行として
治世に手腕を振るった。
九州平定戦では敗戦色が濃くなっ
た島津軍に対して降伏を斡旋し、
島津義久の降伏を実現させるなど
秀吉流の外交手腕も現した。

■1590年小田原征伐では、三成は15
00の手勢を率いて参軍。上野館林
城、武蔵忍城などの攻略にあたった。

朝鮮の役では自ら渡海し、船奉行、
軍奉行を勤め大軍の輸送と大量の
兵站を統括した。
しかし、秀吉の名代として渡海した
諸将に指図したことで、諸将たちか
ら反感をかうことと成る。
戦略上の軍才に乏しかった三成の
軍統括は、命がけで戦場にいる諸
将たちにとってはすこぶる不満な人
事であり、情実に片寄った布陣を行
っていたことも三成の不人気を誘っ
た。

■その後、1595年に長年の豊臣政権下
での内政面ですぐれた功績を残した
ことで、近江佐和山城18万石を拝領。
さらに豊臣家の蔵入地7万石の代官
も勤め、秀吉の死の直前には五奉行
の一人に列して、天下の国政に深く
かかわる重職に就いた。

幼い豊臣秀頼の後見として発言権を
強めた淀殿は同じ近江出身の三成
派文官を重用し、尾張出身の秀吉の
正室・北政所や加藤清正、福島正則
ら武断派との対立が深まった。

朝鮮の役が終る前に秀吉が没したこ
とで一刻も早く渡海した豊臣軍を撤退
させる必要が出てきた。
徳川家康や三成などによって無難に
撤退を処理する。

■秀吉が没してから次の天下人は徳川
家康と見た諸将は一斉に家康へと接
近した。
豊臣政権では勝手な同盟や政略婚姻
を禁じていたが徳川家康はそれを無視
して伊達政宗など有力諸大名との友好
を密接にしていった。
この勝手な行動を謀叛の疑いがあると
して三成ら豊臣家の文官らは、家康を
詰問した。
しかし、家康の巧みな外交で家康を処
断することができなかった三成は、反っ
て加藤清正、福島正則ら武断派から命
を狙われる。
窮地に陥った三成は、徳川家康の屋敷
に逃げ込み命の保護を求めた。
この動きを見て、家康の側近たちは三
成の身柄を武断派に引き渡すべきだと
進言したが、家康は三成の保護を決め
る。
三成と会見した家康は、豊臣家五奉行
に列している三成に奉行職を辞して本
国・佐和山城に蟄居すべきことを勧め
た。
三成も武断派に命を狙われた以上、政
界で失脚したことを認め、奉行職を辞し
て、佐和山に蟄居することを了解した。
家康は、家康の三男・徳川秀忠に三成
を護衛させ、佐和山まで送り届けた。

■1600年7月、上洛を拒絶した会津の
上杉景勝を討伐すべく徳川家康は
豊臣恩顧の武将たちをごっそりと連
れ立って会津へと向った。
畿内が手薄になったことを見計らい
三成はついに徳川家康討伐を目指
して挙兵。
同調した大谷吉継や島津義弘、宇喜多
秀家らを率いて伏見城など東軍の諸城
を次々と落とした。
中国地方の雄・毛利輝元を西軍の
総大将に祭り上げ、上洛してくる東
軍を美濃で迎撃すべく準備万端調え
た。
徳川家康本隊が美濃に到着し、東
西両軍はにらみ合いのこう着状態と
なる。
三成は野戦上手の家康に対して篭
城戦など長期戦で勝利を得ようとした。
しかし、短期決戦を望む家康は、守
備を万全に調える西軍を無理に攻
めずに敵の本拠・大坂城や佐和山城
を叩く作戦に出た。
肩透かしにあった三成は、本拠を叩か
れては西軍が孤立する危険が出てき
たため、急きょ篭城戦を諦め、野戦で
防衛線を張ることにした。
東西両軍は西へ進軍し、関ヶ原の地で
両軍がにらみ合うこととなった。
西軍は数では勝るものの、かつて戦国
最強を誇った武田軍略を踏襲した徳川
家康の野戦上手は、あの豊臣秀吉でさ
えお手上げであったことから三成に
とっては蛇ににらまれたかえるのよう
な心境であったことだろう。
また三成の知らぬところでも家康の戦
上手は光る。
西軍で寝返るであろう武将たちに調略
の手を伸ばしており、家康に呼応する
武将が数多くでれば、西軍の兵力はゴ
ッソリと減り、東軍優勢が確実となるな
ど手抜かりのない戦略を家康は布いて
いた。
関ヶ原決戦の前半は西軍有利に展開
したが、南宮山に布陣する毛利秀元隊
3万は合戦が始まったにもかかわらず
、家康本陣後方に位置しながらまった
く攻撃しないという三成にとっては信じ
られない状況が続いた。

南宮山の麓に布陣した吉川広家隊が
進路を阻み昼飯を食べるとこじつけて
道を譲らなかったため、毛利秀元の軍
勢は山を一兵たりとも降りることができ
なかったのである。
ついで、三成が西軍で一番頼みとした
戦国最強の”つわもの”として諸将から
恐れられた島津義弘隊もまったく軍勢
を動かそうとしなかった。
もともと島津義弘は東軍に属して京都
伏見城に篭城する徳川家康の側近・鳥
居元忠の下へ援軍として、駆けつけた
のだが、鳥居元忠は島津義弘を信用
せず、鉄砲を撃ち掛けて島津軍を追い
返してしまった。
伏見城の周辺では西軍が早くも展開し
て来ており、退路を断たれた状態とな
った島津軍はやむを得ず、西軍に属す
ることとなった経緯を持つ。
そのため、積極的に合戦をする気はな
く、関ヶ原決戦前に東軍を夜襲すると
いう定石案をあっさりと却下するなど三
成の軍略の甘さからまったく西軍として
の役割を放棄していた。
三成の再三の陣頭指揮を執ってくれる
よう島津義弘に対して要請の使者を出
したがまったく引き受けてくれないなど
決戦がいざ始まると三成にとっては計
算外の諸将の反抗にあった。
それでも西軍の主力部隊を率いる宇喜
多秀家は若いながらもよく健闘し、福
島正則隊や黒田長政隊など東軍の名
だたる勇将たちを相手に互角の死闘を
演じた。

東西両軍が押し合いへし合いをやって
いる状況で焦りを見せた家康は、大胆
にも家康本隊を桃配山から関ヶ原のど
真ん中に移動するという作戦に出た。
東軍の本隊が戦場のど真ん中に展開
してきたことで東軍がにわかに押し出
して来ると、関ヶ原を取り囲んだ西軍は
、東軍全軍が関ヶ原に展開するという
光景を目にする。
こうなると数で勝る西軍も自軍より多い
兵力が東軍には有るように見え、内心
穏やかならなくなる。
現に小早川秀秋は、山の上より関ヶ原
を眺め見て、東軍優勢と誤認。東軍へ
の寝返りを決意する。
関ヶ原でまだ戦乱になっていなかった
大谷吉継隊などへ目掛けて小早川隊
が猛攻してくると数で劣る大谷吉継隊
はよく健闘して奮戦したが、時間が経
つにつれ、西軍に寝返りや敗走者が
続出し、遂に堪え切れなくなり、大谷
隊も崩壊。
石田三成本陣も切り崩され、開戦日の
午後には、全西軍は敗走し、東軍の大
勝利に終った。

■再起を図ろうと逃亡生活をしていた三成
であったが、遂に山中で東軍の将に捕
まり、徳川家康ら東軍の将が集まる陣
中に引き出された。
この時、三成は東軍の将に混じってい
る小早川秀秋を目ざとく見つけると太
閤秀吉の大恩を忘れた裏切り者と呼ば
わった。
三成は洛中を引き回された後、六条河
原で斬首された。死刑の直前に三成は
のどの渇きから水を求めるとあいにく
持ち合わせなく干し柿を勧められると
痰の毒だといって断ったという。
死を目前にしながらなおも大望の志が
熱く、珍妙な返答をしてしまい一同を笑
わせたという。