戦国時代の武将について調べていると、

「○○万石だから何人の兵を出せた」

「100貫なら何人の軍役だった」

という説明を見かけます。

では、戦国大名は家臣に対して、

1万石につき250人

のような全国共通の計算式で兵士を出させていたのでしょうか。

答えは、そう単純ではありません。

戦国大名の軍事力を支えた重要な仕組みが、

軍役

です。

軍役とは、大名や主君から知行を与えられた家臣などが、その知行や立場に応じて負担する軍事的奉公です。

しかし軍役は、

「兵を○人連れてくる」

だけではありません。

史料によっては、

  • 本人
  • 騎馬武者
  • 徒歩兵
  • 槍
  • 弓
  • 鉄砲
  • 甲冑
  • 馬
  • 従者

など、かなり具体的な内容が定められます。

後北条氏の天正9年(1581)「北条家着到定書」では、池田孫左衛門尉に対し、本人と寄子分を合わせた389貫100文の知行高に応じて、

本人を含む56人

を率いることが規定されました。

しかも人数だけではなく、

槍。

鉄砲。

皮笠。

甲。

具足。

などの装備まで指定されています。

この一例だけを見ると、

「389貫100文なら56人だから、1貫あたり約0.144人」

と計算したくなるかもしれません。

しかし、その換算を全国へ適用することはできません。

軍役基準は、

  • 大名家
  • 時期
  • 地域
  • 家臣の立場
  • 軍事状況

によって異なります。

武田氏にも貫高制と軍役の関係がありますが、後北条氏とまったく同じ仕組みだったと考えるべきではありません。

さらに豊臣政権期には、石高を基礎とする軍役賦課が大きな意味を持つようになります。

つまり軍役を見ると、

戦国大名が土地・知行と軍事力をどう結びつけたのか

が見えてきます。

この記事では、

  • 軍役とは何か
  • 知行と軍役はどう結びついたのか
  • 貫高制ではどう軍役を定めたのか
  • 石高制では何が変わったのか
  • 着到帳・着到定書とは何か
  • 寄親・寄子は軍役とどう関係したのか
  • 389貫100文で56人という史料は何を意味するのか
  • 1万石で何人出せたのか
  • 軍役と軍勢編成はどうつながるのか

を整理します。

Article 103の「1万石で何人の兵を出せたのか」、Article 108の「貫高と石高」、Article 113の「軍勢編成」をつなぐ中核記事です。

軍役とは何を負担するのか

項目 おおまかな説明
人数 本人・配下・足軽など
装備 槍・弓・鉄砲・甲冑等
騎馬 馬を含む負担の場合あり
指揮 寄子・被官などをまとめる場合あり

大名・時期・史料により異なります。

理解用概念図

知行
↓
軍役負担
↓
家臣が手勢を準備
↓
人員+装備+馬等
↓
大名軍へ参陣

まず結論|戦国時代の軍役とは何か

軍役とは、大まかに言えば、

主君から知行などを与えられた家臣が、その知行・身分・立場に応じて負担する軍事的奉公

です。

戦争になれば、

本人だけが出陣する

のではありません。

一定の人員。

武器。

馬。

武具。

などをそろえて参陣することが求められる場合があります。

つまり知行は、

単なる収入

ではありません。

その知行を受ける代わりに、

軍事力を提供する責任

が伴います。

この関係が、戦国大名軍の重要な基礎でした。

軍役は単なる「徴兵」ではない

軍役という言葉から、

現代国家の徴兵制度

を連想することがあります。

しかし戦国大名の軍役を、そのまま徴兵制と考えるのは適切ではありません。

大名が領国内の成人男性を一人ずつ直接徴兵したわけではありません。

Article 113で説明したように、

大名
↓
有力家臣
↓
その配下
↓
足軽・従者など

という多層的な主従関係があります。

大名は家臣へ軍役を課します。

家臣は自分の配下から必要な人員を編成します。

そのため軍役とは、

主従関係を通じて軍事力を負担させる仕組み

として見る必要があります。

知行と軍事奉公

戦国武士にとって知行は非常に重要です。

知行から得られる収益によって、

  • 家族
  • 家臣
  • 馬
  • 武具

を維持します。

その代わり、主君へ奉公します。

戦時には軍役。

平時には政務。

普請。

警備。

などを求められることがあります。

つまり知行と奉公は切り離せません。

大きな知行を持つ家臣には、より大きな軍事負担が期待されます。

なぜ知行に応じて軍役を課したのか

軍隊を維持するには費用がかかります。

馬。

甲冑。

槍。

弓。

鉄砲。

従者。

兵糧。

これらを大名がすべて中央で用意するのは困難です。

そこで各家臣が、

自分の知行から得られる収入を使って、自分の軍事力を維持する

仕組みが合理的でした。

知行が大きい家臣ほど、

多くの人員。

多くの馬。

多くの装備。

を負担できます。

軍役は、大名が家臣の経済力を軍事力へ変える仕組みでもあります。

軍役は兵士数だけではない

「軍役人数」という言葉がよく使われます。

しかし軍役の内容は人数だけではありません。

後北条氏の史料では、

  • 槍
  • 鉄砲
  • 皮笠
  • 甲
  • 具足

などの装備が具体的に規定されています。

つまり、

50人連れてくればよい

ではありません。

どのような装備を持つ50人なのか。

誰が騎馬なのか。

誰が鉄砲を持つのか。

といった質も軍役に含まれます。

馬・槍・鉄砲・甲冑も軍役だった

戦国軍の強さは人数だけでは決まりません。

500人いても、

武器がなければ戦えません。

鉄砲兵がいても、

鉄砲がなければ意味がありません。

騎馬武者なら馬が必要です。

そのため軍役では、

兵員と装備をセットで考える

必要があります。

Article 103で兵数、Article 113で軍勢編成を見ましたが、軍役制度はその両者を接続します。

後北条氏の軍役制度

後北条氏は軍役研究で非常に重要な大名です。

佐脇栄智氏には、

「後北条氏の軍役」

という専門研究があります。

後北条氏は家臣の知行高を把握し、それに応じて軍役を課しました。

ここで使われる土地・知行評価の基準が、

貫高

です。

Article 108で説明したように、貫高は石高と同じものではありません。

貫文を単純に石へ換算して軍役を求めることはできません。

1581年の北条家着到定書

具体例として重要なのが、

天正9年、1581年7月24日付

北条家着到定書

です。

北条氏直が、家臣の池田孫左衛門尉に軍役を定めた文書です。

小田原市郷土文化館が所蔵しています。

この史料には、

池田孫左衛門尉がどれだけの人員と装備をそろえて参陣すべきか

が記されています。

389貫100文で本人を含む56人

小田原市によると、池田孫左衛門尉の軍役算定には、

本人の知行

191貫600文

に加え、

指揮下の寄子の知行

177貫500文

さらに

駿河大平20貫文

が関係します。

合計すると、

389貫100文

です。

これに対応して、

本人を含む56人

を引率することが規定されました。

装備として、

槍。

鉄砲。

皮笠。

甲。

具足。

なども指定されています。

これは戦国軍役を理解するうえで非常に具体的な史料です。

56人の内訳を見る意味

この「56人」という数字だけを見ると、

389.1 ÷ 56

あるいは、

56 ÷ 389.1

と計算したくなります。

しかし重要なのは人数だけではありません。

軍役は、

本人。

寄子。

各種武装者。

装備。

を含む構成です。

つまり56人という数字は、

一つの家臣がどのような小部隊を形成して参陣したのか

を示しています。

Article 113で扱った「家臣ごとの手勢」の実例として見ると理解しやすくなります。

なぜ1貫=何人と計算できないのか

389貫100文で56人なら、

1貫あたり何人

という比率は数学的には計算できます。

しかし、それを歴史的な全国公式にすることはできません。

理由は、

  • 軍役基準が大名ごとに違う
  • 時期で変わる
  • 人員構成が違う
  • 装備内容が違う
  • 家臣の身分・役割が違う

からです。

さらにArticle 108で見たように、

貫高そのものも大名家ごとの支配・評価体系と結びついています。

したがって、

389貫100文→56人は一つの具体例

として使うべきです。

着到とは何か

「着到」とは、中世・戦国の軍事史で重要な言葉です。

軍勢が参陣し、主君・指揮官のもとへ到着したことを確認する行為や記録と関係します。

ただし、

現代の出席簿

だけのように理解すると不十分です。

誰が参陣したのか。

どれだけの軍勢を連れてきたのか。

軍役を果たしているか。

こうした軍事奉公の確認に関係します。

則竹雄一氏には、

「着到史料からみた戦国大名軍隊」

という研究があります。

着到史料そのものが、戦国大名軍の構成を考える重要資料なのです。

着到帳とは何か

着到帳は、軍役・参陣に関わる人員などを把握する帳簿として理解されます。

後北条氏の1581年着到定書には、

「着到帳」

についての記述があります。

小田原市の解説では、この着到帳は、

家臣へ軍役を課すための基本台帳

として説明されています。

つまり単なる参陣後の名簿ではなく、

軍役賦課の基礎情報として利用されました。

着到定書とは何か

着到定書は、家臣が負担すべき軍役を具体的に示す文書です。

1581年の池田孫左衛門尉宛の文書では、

知行。

人数。

装備。

が結びつけられています。

つまり、

誰が何を準備して参陣するべきか

を明示する軍役文書として理解できます。

着到状との違い

史料には、

着到状。

着到帳。

着到定書。

など似た名称が出てきます。

これらをすべて、

「同じ書類の名前違い」

として機械的に統一するべきではありません。

参陣を報告する文書。

軍勢を把握する帳簿。

軍役内容を定める文書。

など、史料の機能・文脈が異なります。

名称だけでなく、

誰が誰に、何を記録・通知した文書なのか

を見る必要があります。

着到帳・着到定書・着到状の比較

項目 おおまかな説明
着到帳 軍役・参陣に関わる人員などを把握する帳簿。後北条氏の例では軍役賦課の基本台帳。
着到定書 家臣が負担すべき軍役の人数・装備などを具体的に示す文書。
着到状 参陣を報告する文書など。名称だけでなく記録・通知の内容を見る。

用法は史料・時期により異なります。完全な同義語ではありません。

寄親・寄子と軍役

戦国大名はすべての家臣を直接一対一で指揮するわけではありません。

有力家臣の指揮下に別の家臣を付属させることがあります。

一般に、

寄親。

寄子。

という関係で説明される場合があります。

ただし、この仕組みも全国共通の同一制度ではありません。

家ごとに形が異なります。

重要なのは、

軍役を集団として編成するための中間的な指揮関係

が存在することです。

寄子の知行も軍役算定に関係した

池田孫左衛門尉の例では、本人の知行だけではありません。

小田原市の説明では、

指揮下にある寄子の知行も軍役算定へ含まれています。

これは重要です。

つまり池田本人が個人的に389貫100文を持っていた、という単純な話ではありません。

指揮下の人員・知行をまとめて、一つの軍事単位として扱う仕組みが見えます。

軍役の基本単位は家臣だったのか

大名軍を考えるとき、

兵士一人

ではなく、

家臣が率いる軍事集団

が重要な単位になります。

大名が家臣へ軍役を命じます。

その家臣が、

寄子。

被官。

足軽。

従者。

などを率います。

Article 113で説明したように、こうした大小の部隊を集めて大軍を形成します。

軍役制度は、この軍勢編成の基礎です。

軍役と手勢

「手勢300を率いる」

という表現があります。

その300人がどのように準備されたのか。

その背景に軍役があります。

知行。

家臣団。

寄子。

足軽。

などを組み合わせ、一人の武将の手勢が形成されます。

したがって手勢とは、軍役の結果として動員される具体的軍勢でもあります。

軍役と足軽

Article 112で説明した足軽も軍役と無関係ではありません。

家臣が軍役を果たす際に、その配下の足軽を連れて参陣する場合があります。

一方、大名直属の足軽が別途組織されることもあります。

したがって、

軍役=侍だけ

でも、

軍役=農民徴兵

でもありません。

多様な軍事奉公人が軍勢を構成します。

軍役と騎馬武者

馬を維持するには費用がかかります。

そのため騎馬による奉公は、経済力とも関係します。

軍役史料では、

騎馬。

馬上。

などが重要な軍事負担になる場合があります。

ただし、

騎馬人数=騎兵隊人数

と単純化しないことが重要です。

Article 113で説明したように、騎馬武者を近代的騎兵と完全同一視することはできません。

武田氏の貫高制と軍役

後北条氏だけでなく、武田氏でも貫高制と軍役の関係が研究されています。

湯本軍一氏の論文、

「戦国大名武田氏の貫高制と軍役」

は、そのものを主題としています。

さらに柴辻俊六氏の、

『戦国期武田氏領の研究―軍役・諸役・文書』

では、軍役・諸役・文書から武田氏領国支配が研究されています。

ここで重要なのは、

武田氏にも貫高制軍役があるから、後北条氏と同一制度だった

とは考えないことです。

後北条氏と武田氏を同じ制度と考えない

戦国大名は、それぞれ独自の領国支配を発達させました。

後北条氏。

武田氏。

上杉氏。

毛利氏。

島津氏。

それぞれ、

  • 知行制度
  • 家臣団
  • 軍役
  • 国衆統制

が異なります。

比較はできます。

しかし、

後北条氏の基準を武田氏へ、

武田氏の基準を毛利氏へ、

そのまま適用することはできません。

貫高制から石高制へ

戦国後期から豊臣政権期になると、石高による土地・領国評価が大きな意味を持つようになります。

Article 108で説明した通り、

貫高と石高は単なる単位違いではありません。

貫高は貨幣額による評価。

石高は米の収穫量を基準とした生産力評価。

という異なる考え方があります。

軍役の基礎も、豊臣政権下では石高と結びつく方向が強まります。

貫高軍役と石高軍役

項目 おおまかな説明
貫高 戦国大名領国で用いられる例。後北条氏・武田氏等。
石高 豊臣政権期以降、軍役賦課の重要基準になる。

貫高と石高を単純換算しません。大名・時期による制度差があります。

石高制と軍役

石高制では、

大名や家臣がどれだけの石高を持つか

が政治・軍事負担を考える重要な指標になります。

しかし、

石高が同じなら、いつでも全国どこでも全く同じ軍役人数

という意味ではありません。

時期。

戦争。

政権。

役割。

によって負担内容は変わり得ます。

石高は軍役算定の重要な基準になりますが、

万能な固定換算表ではありません。

豊臣政権の軍役

豊臣政権は全国統一を進める中で、大名へ軍事負担を課しました。

特に朝鮮出兵では、大規模な動員が必要となりました。

山本博文氏の研究では、豊臣政権下の島津氏について、

石高を基礎とした統一的軍役賦課

が大きな問題として扱われています。

しかし中央政権が基準を示しても、実際の動員は各大名家の既存家臣団・領国支配を通して行われます。

朝鮮出兵と石高軍役

朝鮮出兵は、豊臣政権の軍役制度を見る重要な事例です。

大規模な海外派兵には、

兵士だけでなく、

  • 船
  • 武器
  • 兵糧
  • 輸送
  • 留守部隊

も必要です。

石高によって兵員を割り当てても、実際にそれだけの軍勢を動員できるかは別問題です。

島津氏は初期動員で十分な軍勢を準備できず、追加動員を求められたことが研究されています。

これは、

軍役基準と実際の軍事動員能力は同じではない

ことを示します。

1万石で何人出せたのか

Article 103で詳しく扱った問題です。

「1万石なら何人出せるのか」

という問いには、一つの全国共通回答はありません。

史料によって異なる基準があります。

豊臣政権期。

江戸初期。

特定大名家。

で数字は変わります。

したがって、

1万石=250人

を戦国時代全体の絶対公式にはできません。

「250人説」はどう扱うべきか

1万石あたり250人という数字は、歴史解説で非常によく見かけます。

特定の軍役基準を説明する目安として使うことはできます。

しかし、

信長でも。

武田でも。

北条でも。

秀吉でも。

すべて1万石=250人だった

という意味ではありません。

Article 103と同じく、

具体的な制度・時期・史料に紐づけて使う

必要があります。

同じ石高でも軍役は同じだったのか

石高が同じ家臣同士でも、

完全に同じ役割だったとは限りません。

軍役には、

  • 騎馬
  • 鉄砲
  • 槍
  • 人数
  • 指揮役

など異なる要素があります。

さらに主君との関係や家格によっても役割が異なります。

数字だけでは軍事的役割の全体は分かりません。

軍役と兵農分離

Article 111で扱った兵農分離とも軍役は深く関係します。

戦国期には、在地に基盤を持つ武士が自らの地域から人員を集めて軍役を果たします。

近世になるにつれて、武士の城下集住などが進みます。

それでも大名・家臣が知行に対応した軍事奉公を負うという考え方は続きます。

兵農分離は軍役制度の消滅ではなく、

軍役を担う武士層と、それを経済的に支える領国社会の関係が再編される過程

としても見ることができます。

軍役と軍勢編成

Article 113で説明した軍勢編成は、軍役の積み上げです。

大名。

有力家臣。

国衆。

寄子。

足軽。

各層の軍事力が組み合わされます。

家臣一人ひとりに軍役が課され、それぞれが手勢を準備し、それらをまとめて一つの軍勢にします。

つまり、

軍役は戦国大名軍を構成する部品を用意する仕組み

とも言えます。

軍役と兵站

軍役で100人出せと言われても、

100人を戦場へ連れて行くだけでは足りません。

Article 104で見たように、

食料。

荷駄。

馬。

弾薬。

が必要です。

軍役で鉄砲を負担するなら、鉄砲だけでなく、

火薬。

弾丸。

火縄。

の補給が必要です。

したがって軍役人数が大きいほど、兵站負担も大きくなります。

軍役以外の負担もあった

家臣や領民が負担したのは、戦闘員としての軍役だけではありません。

戦国大名は、

  • 普請
  • 運送
  • 人夫
  • 馬
  • 金銭

など、さまざまな負担を課します。

それらを総称的に「諸役」と呼ぶ研究もあります。

軍役は重要ですが、

大名支配における負担の全部ではありません。

普請役・陣夫・輸送

城を築く。

道を直す。

陣地を作る。

兵糧を運ぶ。

こうした仕事にも人員が必要です。

戦場へ兵士500人を出すだけでなく、

その軍隊を支える多数の労働力が必要です。

したがって大名の軍事力を考えるとき、

軍役人数

だけでなく、

軍事を支える諸役

も見る必要があります。

軍役を果たせないとどうなるのか

主君から知行を与えられているのに、要求された軍役を果たさない。

これは主従関係上、大きな問題です。

軍役は奉公の重要部分です。

ただし、

不足したら即座に所領没収

という全国共通機械ルールがあったわけではありません。

戦争状況。

家臣との関係。

不足理由。

などによって対応は異なります。

重要なのは、

知行には軍事的義務が伴う

という点です。

江戸時代の軍役との違い

江戸時代にも、大名・旗本などには石高に応じた軍役があります。

しかし江戸幕府の制度化された軍役基準を、

そのまま戦国時代へ遡及してはいけません。

戦国期は大名ごとの制度差が大きく、

貫高制もあります。

江戸時代になると幕藩体制の中で石高制がより制度的な基準となります。

同じ「軍役」という言葉でも時代差があります。

戦国ゲームの「兵力換算」との違い

戦国ゲームでは、

石高100
↓
兵士25

のように自動計算されます。

ゲームでは非常に便利です。

しかし史実では、

知行高だけでなく、

  • 家臣団構造
  • 装備
  • 寄子
  • 馬
  • 軍役基準
  • 戦況

などが関係します。

そのため歴史記事では、

石高×固定係数=兵力

という万能公式を使うことはできません。

戦国倶楽部の兵力計算ツールも、

特定条件を設定したシミュレーション

として使うのが適切です。

よくある誤解

誤解1|軍役とは兵士を出すことだけ

人員だけでなく、槍・鉄砲・甲冑・馬などの装備が規定される場合があります。

誤解2|1万石なら必ず250人

全国共通固定公式ではありません。時代・政権・大名家によって異なります。

誤解3|1貫あたり一定人数を出した

後北条氏の389貫100文→56人の例から全国共通比率を作ることはできません。

誤解4|軍役は現代の徴兵制

主従関係と知行を基礎に家臣へ軍事奉公を課す仕組みであり、現代国家の徴兵制とは異なります。

誤解5|着到帳は単なる出席簿

参陣確認だけでなく、軍役を把握・賦課するための重要な軍事資料として使われます。

誤解6|後北条氏と武田氏の軍役制度は同じ

双方に貫高と軍役の関係がありますが、制度・家臣団構造を同一視できません。

誤解7|石高制になった瞬間、全国の軍役が統一された

豊臣政権による統一的賦課は進みますが、実際の動員は各大名の既存家臣団・領国構造を通して行われます。

誤解8|軍役人数=実際に戦場へ行った戦闘員数

軍役規定と実際の出陣人数は必ずしも同一ではありません。また軍勢には非戦闘要員も含まれます。

誤解9|知行は武士の給料だった

収入源という面はありますが、軍事奉公などの義務と結びつく支配・給付関係でもあります。

誤解10|軍役だけ見れば大名の軍事力が分かる

実際には兵站、資金、装備、輸送、家臣団統制なども必要です。

まとめ

戦国時代の軍役とは何か。

最も重要なのは、

知行と軍事奉公を結びつける仕組み

として理解することです。

家臣は知行を受けます。

その知行・立場に応じて、

  • 本人
  • 配下
  • 足軽
  • 馬
  • 槍
  • 鉄砲
  • 武具

などを準備し、主君の戦争へ参加します。

1581年の後北条氏「北条家着到定書」では、

池田孫左衛門尉と寄子などに関係する389貫100文の知行に対して、

本人を含む56人

と装備が規定されています。

これは軍役の具体像を示す非常に重要な史料です。

しかし、

389貫100文=56人

だから、

1貫=○人

と全国公式を作ることはできません。

武田氏にも貫高制と軍役があります。

豊臣政権期には石高を基礎とする軍役賦課が進みます。

しかし大名・時期・地域によって制度は異なります。

したがって軍役を理解するときは、

何石・何貫だから何人

という数字だけではなく、

誰が。

誰に。

どの知行を基礎に。

どの人員・装備を。

どのような主従関係で。

負担したのかを見ることが重要です。

Article 103の兵力。

Article 108の貫高・石高。

Article 113の軍勢編成。

そしてArticle 114の軍役。

この4本をつなげると、

戦国大名が、

土地の支配力を軍事力へ変換する仕組み

が見えてきます。

参考資料

1.
小田原市
「池田文書・和田文書・清水文書」

北条家着到定書
天正9年(1581)7月24日。

池田孫左衛門尉について、
本人の知行191貫600文、
寄子知行177貫500文、
駿河大平20貫文、
合計389貫100文を基礎に、
本人を含む56人と、
鑓・鉄砲・皮笠・甲・具足などを規定。

2.
小田原市
「古文書・北条家虎朱印状 天正9年7月24日付」

寄子分を含む389貫100文、
本人を含む56人、
武器・武具の規定を解説。

3.
佐脇栄智
「後北条氏の軍役」
『日本歴史』393号、1981年、20-38頁。
国立国会図書館書誌ID:
2246116

4.
佐脇栄智
「後北条氏の貫高制についての一考察」
『日本歴史』271号、1970年、73-86頁。
国立国会図書館書誌ID:
256448

5.
湯本軍一
「戦国大名武田氏の貫高制と軍役」
『法政史学』29号、1977年、34-48頁。
DOI:
10.15002/00010954
国立国会図書館書誌ID:
1761589

6.
柴辻俊六
『戦国期武田氏領の研究―軍役・諸役・文書』
勉誠出版、2019年。
国立国会図書館書誌ID:
029854084

7.
則竹雄一
「着到史料からみた戦国大名軍隊」
『歴史評論』755号、2013年、5-18頁。
国立国会図書館書誌ID:
024257979

8.
山本博文
「豊臣政権期島津氏の蔵入地と軍役体制」
『史学雑誌』92巻6号、1983年。
国立国会図書館書誌ID:
2539332

豊臣政権の朝鮮出兵における
石高を基礎とした軍役賦課と、
島津氏の既存家臣団・領国体制との関係を検討。

9.
白峰旬
「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」
『別府大学大学院紀要』18号、2016年、65-77頁。
国立国会図書館書誌ID:
027485626

FAQ

戦国時代の軍役とは何ですか?

主君から知行などを与えられた家臣が、その知行・立場に応じて人員・武器・馬などを準備し、軍事奉公を行う仕組みです。

軍役は兵士を何人出すかだけですか?

いいえ。後北条氏の史料では、槍・鉄砲・皮笠・甲・具足など装備も細かく規定されています。

1万石なら何人の軍役ですか?

全国共通の固定人数はありません。大名・時期・制度によって異なります。「1万石=250人」は特定の基準を説明する場合の数字として扱う必要があります。

1貫あたり何人の兵士を出したのですか?

全国共通比率はありません。後北条氏の具体例では389貫100文に対して本人を含む56人ですが、これを一般換算式にはできません。

着到帳とは何ですか?

家臣の軍役・参陣などを把握するための帳簿です。後北条氏では軍役を課すための基本台帳として使われていました。

着到定書とは何ですか?

家臣に対して負担すべき軍役の人数・装備などを定めた文書です。

寄親・寄子とは何ですか?

大名の家臣団を軍事・統治上まとめるため、有力家臣の指揮下へ他の家臣を付属させる関係として説明されます。ただし家ごとに制度差があります。

後北条氏ではどのような軍役がありましたか?

1581年の池田孫左衛門尉宛着到定書では、本人・寄子関係の389貫100文に応じ、本人を含む56人と槍・鉄砲・武具などが規定されました。

武田氏にも軍役制度はありましたか?

はい。武田氏についても貫高制と軍役の関係を扱った専門研究があります。ただし後北条氏と同一制度とは限りません。

石高制になると軍役はどう変わりましたか?

豊臣政権期には石高を基礎に大名へ軍役を課す仕組みが大きな意味を持つようになります。ただし実際の軍勢動員は各大名の既存家臣団・領国構造を通して行われました。