1587年(天正15年)頃の諸大名の石高の状況を調べてみると、天下統一を成し遂げようとする時代の動向を読み解くことができる。

豊臣秀吉が400万石の単独トップの石高を誇っている。

毛利輝元、宇喜多秀家、長宗我部元親、大友宗麟をも傘下に治めており、実質的な石高は、637万石となる。

2位の九州統一をほぼ成し遂げた島津義久は250万石と大身ではあるが、九州統一を急ピッチで成し遂げたために領国経営は、臨時の感があり、足並みを一つにできていない。

その後の九州征伐を経て、秀吉の実力が天下人へと確実のものとなる。

3位の北条氏政は関東をほぼ手中に治めつつあり。豊臣方に与する佐竹義重との対立を鮮明にしつつある。北条氏は、奥州で急激な勢力拡大を図った伊達政宗と手を結び、関東制圧を目指す。

4位の徳川家康は、中部地方の半分以上を抑えて、中央への進出の機会をうかがう。豊臣方に与する上杉氏と信濃と越後の国境でつばぜり合いの状態にある。

徳川家康にこの時点で勝機があるとするならば、九州の島津氏、関東の北条氏、奥州の伊達氏と手を結び、畿内でまだくすぶる反秀吉勢力、本願寺や一向門徒を焚き付けて、兵乱を起こさせることにある。

しかし、実質的に領国経営を盤石にしつつある秀吉は、朝廷をも巻き込んで正統性を全面に押し出し、天下公儀のこととして、天下統一に邁進しており、徳川氏は劣勢である。