1570年(元亀元年)頃の畿内・中部・北陸・関東・東北の諸大名石高をランキング化してみた。

石高は米の取れ高のため、一概に大名の財力を直接表すことにはつながらないが、石高を中心とする経済力の大体の目安にはなる。

織田信長が畿内を制圧し、浅井・朝倉連合軍と対立関係にある時期。

240万石は、比肩する大名がない独走体制に入ったことを意味する。

畿内から遠く離れたところに上杉、北条、武田が100万石以上で一大勢力を築いている。不幸にもこの三大勢力は、互いに領土を接しており、三つ巴の戦いの様相を呈する状態にあった。

100万石以下で70万石、60万石級の大名クラスは、共に関東・東北に位置しており、やはり畿内を脅かす存在とは成り得なかった。

それでも織田信長にとって、浅井・朝倉連合軍は脅威の勢力を持っていた。また、摂津の本願寺、畿内中央には比叡山延暦寺の僧兵勢力も跋扈しており、織田軍にとって、必ずしも安全地帯を畿内に持ち合わせていないのが実情であった。

最大動員兵力数も石高に応じて変わってくる。単純に1万石あたり250人を動員できるものとして、算出した。

単純に領国が広大になれば、それだけ石高が上がる一方で、守備範囲が広がるため、堂々巡りの感もある。

兵力差だけで戦闘の勝敗が確実に決るわけでもなく、武将の勇猛さ、機知に富んだ戦略・戦術によっても、勝敗は大きく変わった。そのため、一度の合戦の勝敗が、その後の優劣を左右することもあるため、気を緩めることはできなかった。

例えば、徳川家康が率いる三河武士団は、少数精鋭部隊であった。勇猛果敢さ、犠牲をいとわない戦いぶりは、武田信玄が三方ヶ原の戦いで大いに三河武士を称賛したことからも見て取れる。

逆に、職業軍人化した織田軍は、四六時中、農作物の収穫時期に関係なく兵力を出撃できた点では高く評価できよう。だが、土地に縛られない雇われ軍人であるがゆえに、命を落としてまで死守するほどの頑強さは持ち合わせていなかった。

ゆえに兵数は多いが、胆力に少々弱点があったと言える。