この記事で分かること
長野県上田市の上田城。
真田氏の城として非常に人気があります。
有名なのは、この城が徳川方の大軍を二度退けたことです。
1585年、第一次上田合戦。
1600年、第二次上田合戦。
上田市公式は、第一次では約7千余の徳川軍を2千足らずの真田軍が退け、第二次では徳川秀忠率いる3万8千の部隊を足止めしたと説明しています。
なぜ小さな真田氏がこれほど戦えたのでしょうか。
まず結論――上田城は「巨大城郭」ではなく、地形・城下・外交・時間を使って大軍の優位を消す城だった
上田城を見て、
「高い石垣と巨大天守で徳川軍を防いだ」
と考えると間違います。
真田期の上田城は、後世の近世城郭とは姿が異なります。
強さの本質は、
- 千曲川と上田盆地の地形
- 城下町
- 限られた攻撃路
- 地域を熟知する真田軍
- 敵を引き込む戦術
- 周辺大名との外交
にありました。
上田城はいつ築かれたのか
上田市公式によれば、真田昌幸は1583年に上田城の築城を始めました。
当時、昌幸は徳川家康の勢力下にいました。
つまり上田城は最初から「徳川と戦うための城」として始まったわけではありません。
徳川の援助も受けながら築かれます。
なぜ昌幸は徳川と対立したのか
問題になったのが上野国沼田領です。
徳川家康は北条氏との外交上、昌幸に沼田領を北条方へ譲るよう求めます。
昌幸は拒否。
これによって徳川と断交します。
城を築く時の味方が、わずか数年で敵になる。
戦国時代の外交がどれほど流動的だったか分かります。
昌幸は上杉景勝へ接近
徳川と対立した昌幸は、上杉景勝へ接近します。
上田市公式では、次男・信繁を上杉方へ人質として送り、築城その他の援助を求めたと説明しています。
つまり昌幸は、戦う前に外交で背後を固めています。
第一次上田合戦
1585年、徳川軍が上田へ攻め込みます。
上田市公式では、
徳川軍 7千余 真田軍 2千足らず
としています。
兵力だけ見れば徳川側が圧倒的です。
それでも真田側が撃退しました。
なぜ少数側が勝てたのか
攻城戦では、守備側が地形と防御施設を利用できます。
大軍がいても、狭い攻撃路では一度に戦える人数が限られます。
さらに城下へ敵を引き込めば、道や建物、川、堀が障害になります。
真田軍は地元の地形を熟知しています。
千曲川の存在
上田城は上田盆地に築かれ、南側には千曲川が流れます。
上田市は、川の流れを巧みに活用しながら城と城下町を戦略的に整備したと説明しています。
自然地形が城の防御の一部になっていました。
城下町も防御施設
戦国城郭では、城壁の内側だけが戦場ではありません。
城下町。 道路。 寺社。 水路。 田畑。
すべてが部隊移動に影響します。
攻撃側が城下へ深く入れば、退却時に混乱する危険があります。
真田昌幸の戦術家イメージ
昌幸は「表裏比興の者」など、策略家として有名です。
ただし、すべての逸話を天才的奇策に還元する必要はありません。
城。 地形。 兵力。 外交。 情報。
を合理的に使った結果として見る方が、実像に近づきます。
上田城は完成していたのか
第一次上田合戦当時、城は築城開始からまだ約2年です。
上田市公式では、第一次上田合戦の時期にも上杉方の武将を動員して普請が行われ、同年9月頃に一応の完成を見たと説明しています。
つまり「完成済み巨大要塞」で勝ったわけではありません。
その後、豊臣秀吉に臣従
昌幸はその後、豊臣秀吉へ臣従します。
上田城も大規模整備が行われたと推定されています。
戦国大名として生き残るには、昨日の敵・今日の味方を切り替える外交力が必要でした。
1600年、再び徳川と戦う
関ヶ原の戦いが起きると、真田家は分裂します。
昌幸・信繁は西軍側。 長男・信之は東軍側。
家族を両陣営に分ける形になりました。
これは真田家存続という観点でも非常に重要です。
第二次上田合戦
上田市公式によれば、昌幸・信繁は上田城に籠城し、徳川秀忠率いる3万8千の部隊を足止めしました。
真田側は大幅に少数です。
再び「兵力差だけでは説明できない」戦争になります。
秀忠軍の目的は上田城攻略だけではない
ここが重要です。
秀忠軍は関ヶ原方面へ向かう必要があります。
つまり上田城を落とすことに何週間もかけられません。
真田側から見れば、
城を完全に守り続ける より 敵の時間を奪う
だけでも大きな成果です。
防御側の「勝利条件」が違う
攻撃側: 城を落とし、先へ進む。
守備側: 落城せず、敵を足止めする。
この場合、守備側は敵軍を全滅させる必要がありません。
数日でも時間を奪えば戦略的価値があります。
秀忠は関ヶ原に間に合わなかった
上田市は、秀忠軍が上田で7日間足止めされ、関ヶ原本戦に間に合わなかったと説明しています。
ただし遅参の原因を「上田城だけ」と完全に単純化するのは慎重であるべきです。
行軍日程、命令伝達、天候、道路なども影響します。
それでも上田で時間を消費したことは重要です。
それでも徳川は関ヶ原に勝った
ここが面白いところです。
真田側は上田で局地的に成功。
しかし関ヶ原本戦では東軍が勝利。
その結果、昌幸・信繁は敗者側になります。
つまり、
「上田合戦に勝った」 と 「戦争全体に勝った」
は別です。
上田城はなぜ破却されたのか
関ヶ原後、昌幸・信繁は九度山へ配流されます。
上田城は徳川方に接収され、破却。
堀や建物などが破壊されました。
上田市公式もこの経過を説明しています。
徳川側から見れば、二度も抵抗を受けた城をそのまま残す必要はありません。
現在の上田城は真田時代そのままか
現在見える上田城の櫓などは、真田時代そのままの構造だけではありません。
関ヶ原後に一度破却され、後に仙石氏によって復興されました。
史跡を見るときは「真田期」と「江戸期以降」を分ける必要があります。
二度の上田合戦を比較
| 項目 | 第一次 | 第二次 |
|---|---|---|
| 年 | 1585 | 1600 |
| 主敵 | 徳川家康方 | 徳川秀忠軍 |
| 真田側 | 昌幸ら | 昌幸・信繁 |
| 目的 | 上田領防衛 | 関ヶ原戦役で足止め |
| 結果 | 徳川軍撃退 | 秀忠軍を遅延 |
戦国倶楽部的分析――上田城は「敵を倒す城」より「敵の時間を奪う城」
ゲームでは城の価値を、
敵兵を何人倒すか
で評価しがちです。
しかし第二次上田合戦では、
敵の3万8千を数日拘束する
だけで巨大な戦略効果があります。
小さな城でも、主要街道上にあり、無視できない位置なら価値は非常に高いのです。
よくある疑問
Q. 真田軍は本当に2千人で7千を破ったのですか
上田市公式は第一次上田合戦について、その規模で紹介しています。細部の兵数は史料上の幅を意識する必要があります。
Q. 秀忠が関ヶ原に遅れたのは上田城のせいですか
上田での足止めは重要ですが、遅参全体を一要因だけに限定するのは慎重です。
Q. 上田城に天守はありましたか
真田期の天守については確定しておらず、上田市も「謎」として紹介しています。
まとめ
上田城が徳川の大軍を二度退けた理由は、
「真田昌幸が天才だったから」
だけではありません。
千曲川。 上田盆地。 城下町。 狭い攻撃路。 地元情報。 外交。 そして時間。
これらを使って大軍の兵力差を小さくしました。
特に第二次上田合戦では、
敵を全滅させる必要はない。 時間を奪えばよい。
という防御戦の本質が見えます。
上田城は、
小勢力が大勢力と戦うための「時間を武器にする城」
だったのです。
参考情報
- 上田市「上田城の歴史」
- 上田市「上田城の歴史とひみつ」
- 上田市「上田城下町」
- 上田市「上田城の整備・復元」

