徳川 家康
とくがわ いえやす
1542-1616
享年75歳。

名称:竹千代、松平二郎三郎元信、
元康、内府、征夷大将軍


居城:三河岡崎城→三河浜松城→
武蔵江戸城→駿河駿府城

■三河岡崎城主・松平広忠の嫡子とし
て誕生。
母は、三河刈屋城主・水野忠政の娘
・お大の方。

■1548年 6才
尾張の織田信秀が三河へ侵攻してく
ると広忠は、駿河の今川義元を頼る
。今川家は三河へ救援軍派兵に対し
て、今川家へ広忠の嫡子を人質とし
て出すことを求めてきた。
それに応じた広忠は、六歳に満たな
い嫡子・竹千代を今川氏へ送る。
が、途中で織田家に奪われ、竹千代
は尾張の万松寺で三年間過ごすこと
と成る。

■1550年 8才
織田家と今川家の間で人質同士の
交換が行われ、織田信広と竹千代
が交換され、8歳から19歳までの
12年間の間、今川家の人質生活を
送ることと成る。
竹千代の人質生活は、決して無駄な
時期ではなく、今川家当主・今川
義元の計らいで高い学習環境を提供
され、立派な武将となるべく英才教
育を受けている。
今川義元も今川家嫡子でなかった
ため、僧・承芳と称して勉学に日々
精進していた経歴を持つ。
その為、並の武将よりも学問に長じ
ていたらしく、学問の大切さを知って
いたことが竹千代にとって幸いした
といえる。

■1556年 14才
竹千代は元服し、今川義元から一
字を拝命し、松平二郎三郎元信と
名乗る。
この時、元信は、今川家一族の関口
親永の娘・築山殿(つきやまどの)を
妻とする。
ほどなくして、元信は名将として名高
い祖父・松平清康にあやかって一字
を取り、松平元康と名乗る。

■1559年 17才
東海一の弓取りと称されていた今川
義元はその実力を天下に知らしめる
ため上洛戦を開始する。
その先鋒として元康ら三河勢は、
尾張の織田領に侵攻。
尾張大高城を攻略する。

■1560年 18才
今川義元が大軍を率い、本格的な
京入洛の軍事行動を実施すると、
元康はその先鋒を務め、三河武士を
率いて、織田方の丸根城を攻略し、
大高城の守備を固める。
だが、桶狭間の戦いで主君・今川義
元が討死したため、大高城を捨て、
本国である三河の岡崎城へ引き上
げた。

■1561年 19才
今川氏真の属城三河国長沢城を
攻略。
ついで、三河国東条城の吉良義昭
を攻め落とし、西三河を統一。

■1562年 20才
織田信長と同盟を結び、今川家か
ら完全に独立を果たす。

■1563年 21才
元康は、名前をそれまでの元康か
ら家康に改名。
松平家康と称す。
三河一向一揆が勃発する。

■1564年 22才
三河一向一揆を苦戦の末に平定。
今川方の吉田城主・小原鎮実を攻略
し、三河国を統一。

■1566年 24才
朝廷の勅許(ちょっきょ)を得て、それ
までの松平姓から祖先が名乗って
いた徳川姓へと改名し、徳川家康と
名乗る。

■1568年 26才
武田信玄と相計って、今川氏を攻め
る。武田氏は駿河を攻め、徳川氏は
遠江を攻める。

■1569年 27才
今川氏真がこもる掛川城を包囲し、
篭城戦の未、氏真は降伏。
室町幕府で副将軍の地位に就く名門
・今川家は没落する。
氏真は、助命されて、妻の実家で
ある北条氏に身を寄せることになる。

■1570年 28才
盟友にして義兄弟の契りを交わした
織田信長の要請を受けて、浅井・朝
倉連合軍との決戦の為、近江へ
出陣。
激戦の姉川合戦で、家康の家臣・
榊原康政の機転を利かせた横槍部
隊が朝倉軍総崩れのきっかけを作り
、織田・徳川連合軍の勝利をもたす。

それまで交流のあった武田氏と断絶
し、上杉謙信と盟約を結び、武田信
玄の西進を牽制する。

■1571年 29才
武田信玄が家康の領土である遠江
へ進軍してきたことから小競り合い
の合戦が幾つも起きる。

■1572年 30才
武田信玄が遠江国浜松城近辺へ進
軍してきたことから三方ケ原の戦い
が勃発。
武田信玄の巧妙な戦術にあい、大敗
を喫して、ばばをたれながら敗走。
浜松城に入ると城の門を全て開け放
ち、まぶしいくらいにかがり火をたき、
信玄の追撃部隊を警戒させ、篭城戦
を巧みに回避することに成功。

■1573年 31才
武田信玄が病没したことで、武田軍
が甲斐へ退去すると、この機会を捕
らえ、長篠城を攻略。

■1574年 32才
武田信玄の跡目を継いだ武田信勝
の後見役を務める武田勝頼は、信玄
でも落としきれなかった遠江国高天
神城を攻撃し、城主・小笠原長忠を
降伏させることに成功。織田・徳川方
を震え上がらせる。

■1575年 33才
長篠城を包囲した武田勝頼を迎え撃
つ為、織田・徳川連合軍が遠江国に
集結。
鉄砲3000挺という膨大な量の飛び
道具を用い、鉄砲を三段構えにして
発射。
戦国時代無敵を誇った武田騎馬隊
の精鋭をことごとく打ち破り、大勝利
を得た。

■1579年 37才
盟友にして義兄弟の契りを交わした
織田信長の命令で、武田方に通じて
いると噂された嫡男・松平信康と妻・
築山殿(つきやまどの)を処罰。
築山殿は惨殺。
信康は切腹という形をとった。

■1581年 39才
武田方の遠江国高天神城を攻略。
武田氏殲滅の足がかりを作る。

■1582年 40才
武田方駿河国依田信蕃(よりたのぶ
しげ)の降伏により、駿河国は徳川家
康の支配下となる。
清和源氏の流れを汲み、筆頭の御
家柄であった名門武田家は武田勝
頼が天目山で自刃、子の武田信勝
は奮戦むなしく、自刃し、ここに名門
武田家は滅亡した。

信長の許しを得て、駿河国を領土と
した家康は、その礼参の為、京へ入
洛。安土・堺を見てまわる。
「本能寺の変」の知らせを受け、側近
の服部半蔵や伊賀忍者、堺商人の
支援を得て、本国である三河へ船で
帰国す。

浜松城より、反乱が起きた甲斐・信
濃の平定に出陣する。関東の北条氏
政・氏直と対陣するがこう着状態と
なり、和議を結ぶ。

家康の重臣・石川数正を秀吉のもと
へ遣わし、戦勝を賀して、「初花の小
壺」を贈る。

■1584年 42才
織田信雄・佐々成政らと組し、反秀
吉勢力の中核となる。
小牧・長久手の戦いで秀吉軍を破り
、戦上手家康の名を天下に知らしめ
た。

■1585年 43才
家康の家臣・大久保忠世・平岩親吉
らに兵を預け、信濃の上田城主・真
田昌幸を攻めるが、徳川軍は大敗を
帰す。
家康の重臣・石川数正が秀吉の下
へ出奔する。

■1586年 44才
北条氏政・氏直と対面し、徳川氏と
北条氏の同盟が成立。
秀吉の妹・朝日姫が家康の下へ嫁
がされる。
続いて、秀吉の実母・大政所(おおま
んどころ)が徳川家への人質として来
る。
家康は秀吉の要請を受けて、京へ入
洛し、秀吉と対面、秀吉の臣下とな
ることを諸将の目の前で公言する。

■1587年 45才
朝廷より権大納言(ごんのだいなごん
)に任ぜられる。

■1589年 47才
信濃国上田城主・真田昌幸と和議を
結び、真田信幸を人質とする。
甲斐国の統治を推進し、武田信玄の
遺臣を数多く召抱える。

■1590年 48才
秀吉の小田原征伐に3万の兵をもっ
て、従軍する。
北条氏の降伏により、天下統一成る

秀吉の命により、所領の三河、遠江
、駿河、甲斐、信濃の五つ国から相
模、武蔵、上総などへ移封となる。
家康、江戸城を居城と定める。

■1591年 49才
秀吉の命を受け、奥州征伐の主力部
隊として江戸を出陣。
この時、利発な伊達政宗と懇意にな
る。

■1592年 50才
秀吉の朝鮮出兵が断行され、家康
は秀吉本隊に従軍して、肥前国唐津
の名護屋城に入る。

■1595年 53才
朝廷より正二位内大臣に叙任される

■1596年 54才
徳川家きっての重臣筆頭・酒井忠次
が病没す。
秀吉、家康・前田利家に遺言状を与
え、我が子・豊臣秀頼を託す。

■1598年 56才
太閤・豊臣秀吉が病没す。享年63才

石田三成、家康謀殺しようとするが
失敗す。
家康・利家連署で朝鮮出兵軍の撤退
を決定。

■1599年 57才
家康、伊達政宗などと婚姻関係を豊
臣家に許可なく、勝手に結ぶ。
前田利家らから詰問を受けるが家康
は巧みに受け流す。
五大老の一人で、豊臣秀吉の盟友
にして、豊臣秀頼の最大の後見役で
ある前田利家が病没す。享年61才。
加藤清正・黒田長政ら武断派が石田
三成討伐を決起するが家康がそれを
阻む。

■1600年 58才
会津に居る上杉景勝に急きょ上洛を
促すが景勝これを拒否。
家康、会津征伐を断行す。
石田三成・小西行長らが家康に対し
、謀反を起こし、家康の老臣・鳥居元
忠が守る伏見城を攻略する。
同年9月16日、関ケ原にて東軍VS西
軍の合戦が起こる。(関ケ原の戦い)
家康、勝利を収め、名実共に天下人
を継承する。

■1602年 60才
実母・於大の方(おだいのかた)が没
す。

■1603年 61才
2月12日、徳川家康は、朝廷より「征
夷大将軍」に任ぜられ、江戸幕府を
開く。
7月28日、家康の孫娘・千姫が大坂
の豊臣秀頼へ嫁ぐ。

■1604年 62才
「糸割符制」を設ける。

■1605年 63才
家康は、将軍職を三男の徳川秀忠に
譲る。

■1606年 64才
本多忠勝の並び称される徳川四天
王の一人・榊原康政が病没す。
家康の九男・徳川義直が尾張・名古
屋城主となる。

■1608年 66才
家康は、居城を駿河国駿府城に移す

■1611年 69才
京都・二条城にて家康は、豊臣秀頼
と会見する。

■1612年 70才
キリシタン禁止令を発布。

■1613年 71才
幕臣で金山奉行の大久保長安(おお
くぼちょうあん)が不正を行っていたこ
とが発覚。
公家諸法度・勅使紫衣法度を定める

■1614年 72才
徳川秀忠の側近・大久保忠隣(おおく
ぼただちか)を改易に処す。
豊臣家が建立した方広寺の大仏鍾
銘が家康を呪い殺すものだという言
いがかりを豊臣家に突きつける。
大坂冬の陣が勃発す。
豊臣家と講和条約を結ぶ。

■1615年 73才
講和が決裂し、再度大坂攻めを行う
。(大坂夏の陣)
大坂城は炎上し、豊臣秀頼、淀殿な
ど豊臣方は自刃し、滅亡す。
武家諸法度を定める。

■1616年 74才
徳川家康は、朝廷より太政大臣に任
ぜられる。
同年4月17日、徳川家康が病没す。
病名は胃がんとされる。享年75。
家康の遺命により、遺骸は、駿河国
久能山に移す。