Wikipediaより参照:能島村上家の過所船旗 天正玖年(1581年)
重要文化財(山口県文書館蔵)

村上水軍(むらかみすいぐん)は、戦国時代の瀬戸内海で活躍した日本最大級の水軍(海賊衆)です。彼らは単なる海賊ではなく、海上交通を支配し、戦国大名に仕えることで強大な影響力を持ちました。

村上水軍の基本情報

名称活動地域主な拠点主な勢力関係
村上水軍瀬戸内海能島(愛媛)、因島(広島)、来島(愛媛)毛利氏、大内氏、河野氏

彼らは「海の大名」とも呼ばれ、関所のように通行料を徴収し、時には戦国大名の水軍として活躍しました。


村上水軍の三家

村上水軍は大きく 能島村上氏、因島村上氏、来島村上氏 の三つに分かれます。それぞれ独立した勢力を持ちつつ、協力しながら瀬戸内海の制海権を握りました。

1. 能島村上氏(のうしまむらかみし)

Wikipediaより参照:村上景親像 (村上水軍博物館所蔵)

特徴詳細
拠点能島(愛媛県今治市)
領域瀬戸内海の中央部(芸予諸島)
代表者村上武吉(むらかみ たけよし)
活動通行料徴収、毛利氏の水軍として活動

能島村上氏は、村上水軍の中でも最も有力な勢力でした。リーダーである 村上武吉 は、戦国大名の毛利氏に仕え、織田信長との戦い(木津川口の戦い)などで活躍しました。


2. 因島村上氏(いんのしまむらかみし)

Wikipediaより参照:村上吉充肖像(金蓮寺所蔵)

特徴詳細
拠点因島(広島県尾道市)
領域瀬戸内海東部(備後水道周辺)
代表者村上吉充(むらかみ よしみつ)
活動防衛戦、海運統制

因島村上氏は、防衛の役割が強く、瀬戸内海の商船や戦国大名の軍船の安全を確保するための軍事力を提供していました。


3. 来島村上氏(くるしまむらかみし)

Wikipediaより参照:村上通康肖像(安楽寺蔵)

特徴詳細
拠点来島(愛媛県今治市)
領域瀬戸内海西部(伊予灘周辺)
代表者村上通康(むらかみ みちやす)
活動河野氏の水軍として活動

来島村上氏は、伊予の戦国大名 河野氏 の家臣として働き、瀬戸内海の西側で活動しました。


村上水軍の役割

1. 瀬戸内海の制海権を掌握

村上水軍は、瀬戸内海を通る船に 「関銭(せきせん)」 という通行料を課していました。これは現代の高速道路の料金所のようなもので、瀬戸内海の航行を管理し、海賊行為を防ぐ役割もありました。

活動内容
通行料徴収海上関所を設置し、船の安全を確保する代わりに関銭を徴収
海上護衛貿易船や大名の船を護衛し、敵対勢力から守る
交易日本国内や明(中国)・朝鮮との貿易に関与

2. 戦国大名の水軍として活動

村上水軍は、多くの戦国大名と同盟を結び、戦争の際には海戦に参加しました。

戦国大名関係性
毛利氏(安芸国)強い同盟関係を結び、織田軍との戦いに参加
大内氏(周防国)かつては大内氏の傘下にいたが、大内氏滅亡後は毛利氏に従う
河野氏(伊予国)来島村上氏が家臣として仕える

村上水軍の活躍した戦い

1. 第一次木津川口の戦い(1576年)

背景:
織田信長が石山本願寺(現在の大阪)を攻める際、毛利氏が本願寺を支援し、村上水軍も毛利方として参戦。

戦いの流れ:

  • 織田信長が本願寺への補給路を封鎖しようとする。
  • 村上水軍が毛利軍とともに織田軍の船団を襲撃。
  • 村上水軍の戦法「焙烙火矢(ほうろくひや)」 を使用し、織田軍の船を焼き討ち。
  • 村上水軍が勝利! 織田軍は撤退。

2. 第二次木津川口の戦い(1578年)

背景:
織田信長は第一次の敗北を受け、 鉄甲船(てっこうせん) という防御力の高い船を建造し、再び毛利軍に挑む。

戦いの流れ:

  • 織田軍の鉄甲船は、焙烙火矢を弾き返す強力な装甲を持つ。
  • 村上水軍は火矢を使うが、効果が薄い。
  • 織田軍が強力な砲撃を行い、村上水軍は敗北。
  • 毛利氏の海上支配が崩れ、瀬戸内海の覇権が織田方へ傾く。

村上水軍の衰退

1588年、豊臣秀吉が 「海賊禁止令」 を発布し、村上水軍のような私的な水軍の活動を禁止しました。これにより村上水軍は解体され、江戸時代には多くが大名の家臣や商人として生き延びました。

時期出来事
1588年豊臣秀吉の「海賊禁止令」により水軍活動が禁止される
1600年関ヶ原の戦い後、村上水軍の残党は大名の家臣となる
江戸時代村上水軍の子孫は瀬戸内の役人や漁師として生き延びる

まとめ

村上水軍は 戦国時代の「海の支配者」 であり、戦国大名のために戦う一方で、交易や通行料徴収を行い、瀬戸内海の経済と軍事を支えました。しかし、戦国時代の終焉とともに役目を終え、豊臣秀吉の政策によって歴史の表舞台から姿を消しました。

彼らの名残は、現在の 「村上海賊の末裔」 として、瀬戸内海の文化に受け継がれています。