氏家卜全(うじいえ ぼくぜん、1509年?~1571年)は、戦国時代の武将であり、美濃国(現在の岐阜県)の戦国大名斎藤氏の重臣として仕えた後、織田信長に臣従した武将です。本名は**氏家直元(うじいえ なおもと)**ですが、「卜全」は号です。
彼は、斎藤道三の時代から斎藤家を支えた名将であり、後に「西美濃三人衆(にしみの さんにんしゅう)」の一人として織田信長の美濃攻略に貢献しました。しかし、織田家に仕えて間もなく病死し、戦国乱世の中で生涯を終えました。本章では、氏家卜全の生涯を詳しく解説します。
目次
1. 氏家卜全の家系と出自
1-1. 氏家氏とは?
氏家氏は、美濃国の有力な土豪(国人領主)の一つで、戦国時代には美濃守護・土岐氏の家臣として活動していました。
家名 | 出自 | 特徴 |
---|---|---|
氏家氏 | 美濃国の土豪 | 土岐氏に仕えた後、斎藤氏の家臣となる |
斎藤道三が土岐氏を追放して美濃を支配すると、氏家氏も斎藤家に仕えるようになりました。
1-2. 氏家卜全の生誕と若年期
氏家卜全は、1509年頃に美濃国で生まれたとされています。彼の若年期の記録は少ないですが、美濃国の国人領主の家に生まれ、戦国武将としての教育を受けたと考えられます。
年 | 出来事 |
---|---|
1509年? | 氏家卜全 誕生 |
1530年頃 | 美濃国の武将として活動開始 |
戦国時代の武士らしく、彼もまた実戦を経験しながら、徐々に武将としての地位を高めていきました。
2. 斎藤家での活躍
2-1. 斎藤道三に仕える
氏家卜全は、美濃の戦国大名・斎藤道三に仕え、家臣団の一員として活躍しました。道三は、商人から成り上がった戦国武将であり、彼の家臣団の中で卜全も重臣としての地位を確立していきました。
✅ 道三の政策を支え、美濃国の統治に貢献
✅ 各地の合戦に参加し、軍事面で活躍
✅ 斎藤家の家臣として、他の国人領主と協力しながら戦った
1548年には、美濃国内の城を与えられ、氏家卜全は戦国武将として本格的に活動を始めました。
2-2. 斎藤義龍の時代
1556年、斎藤道三とその息子・**斎藤義龍(よしたつ)**の間で内紛が発生し、道三が義龍によって討たれました。
この時、氏家卜全は斎藤義龍に従い、道三討伐に加わりました。
年 | 出来事 | 氏家卜全の動き |
---|---|---|
1556年 | 斎藤道三 vs 斎藤義龍 | 義龍に従い、道三を討つ |
1561年 | 斎藤義龍の死去 | 息子・斎藤龍興に仕える |
義龍は武勇に優れた武将であり、氏家卜全も彼を支えましたが、1561年に義龍が急死し、若年の**斎藤龍興(さいとう たつおき)**が家督を継ぎました。
2-3. 斎藤龍興の時代と織田信長への寝返り
斎藤龍興は若くして当主となりましたが、家臣団の統制に失敗し、稲葉一鉄や安藤守就らと対立するようになりました。
1567年、氏家卜全は「西美濃三人衆(にしみの さんにんしゅう)」の一人として、斎藤龍興を見限り、織田信長に寝返りました。
西美濃三人衆 | 役割 |
---|---|
稲葉一鉄 | 織田家の家臣として活躍 |
安藤守就 | 美濃の重要拠点を信長に明け渡す |
氏家卜全 | 信長の美濃攻略を支援 |
この裏切りにより、斎藤家は滅亡し、美濃は織田信長の支配下に入りました。
3. 織田信長への仕官
3-1. 信長の家臣として
織田信長に仕えた後、氏家卜全は重臣として各地の戦いに参加しました。
✅ 稲葉一鉄・安藤守就とともに美濃統治に協力
✅ 織田信長の命令で、戦国時代の合戦に参加
彼は信長の家臣として順調にキャリアを重ねていましたが、1571年に病死しました。
4. 氏家卜全の歴史的意義
✅ 剛直で義理堅い武将として知られ、斎藤家の重臣として活躍した
✅ 「西美濃三人衆」の一人として、織田信長の美濃侵攻を成功させた
✅ 織田家に仕えるも、間もなく病死し、後の戦国時代に影響を残せなかった
氏家卜全は、戦国武将としては短命でしたが、織田信長の美濃攻略において重要な役割を果たしました。彼の裏切りがなければ、斎藤家はもう少し存続した可能性があり、彼の決断は戦国史の大きな転換点となりました。