築山殿(1539年~1579年):徳川家康の正室とその悲劇的な運命

築山殿(つきやまどの)は、戦国時代を生きた女性で、徳川家康の正室(正妻)として知られています。彼女は今川家の名門の出身であり、家康との政略結婚によって松平(徳川)家の正室となりました。しかし、1579年に「築山殿事件」と呼ばれる出来事で暗殺されるという悲劇的な最期を迎えました。

本稿では、築山殿の生い立ち、徳川家康との関係、岡崎城での生活、築山殿事件の詳細、そして死後の影響と後世の評価について詳しく解説します。


1. 築山殿の生い立ちと家康との政略結婚

1.1 築山殿の出自

築山殿は、1539年(天文8年)に、駿河国(現在の静岡県)で生まれました。

  • 父:関口親永(せきぐち ちかなが)
    • 今川義元の重臣であり、今川家の有力な家臣。
  • 母:今川氏の一族
    • 築山殿の母は今川義元の親族(または妹)とされることが多く、彼女は今川家の名門の娘でした。

築山殿は、幼少期から今川家の格式高い環境で育ち、戦国時代の女性としての教養を身につけていたと考えられます。

1.2 徳川家康との政略結婚

1560年の「桶狭間の戦い」以前、徳川家康(当時は松平元康)は今川家の家臣でした。家康は人質として今川家に預けられており、その忠誠を示すために、今川義元の命令で築山殿と結婚しました。

  • 1557年頃(または1558年)に家康と結婚。
  • 1559年に長男の松平信康を出産。
  • 1560年に桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、家康が独立。
  • その後、築山殿は岡崎城で生活することになった。
年代出来事築山殿の影響
1539年駿河国で誕生今川家の名門の娘として育つ
1557年徳川家康と結婚松平家(徳川家)の正室となる
1559年長男・松平信康を出産徳川家の後継者を生む
1560年桶狭間の戦い(今川義元の討死)家康が今川家から独立し、築山殿の立場が変化

2. 岡崎城での生活と織田信長との関係

2.1 家康の独立と築山殿の立場

1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後、家康は今川家から独立しました。しかし、築山殿の実家である関口家は今川家の家臣であり、築山殿は「家康の妻でありながら、今川家の名門の娘」という微妙な立場になりました。

  • 家康が今川家から独立したことで、築山殿は徳川家の家臣とも距離を取ることが増えた。
  • 岡崎城に住んでいたが、家康が遠江や駿河へ勢力を広げると、政治的な影響力が減少していった。

2.2 信長の娘・徳姫(五徳)との関係

1570年、家康は織田信長と「清洲同盟」を結び、その一環として築山殿の長男・松平信康が、信長の娘・徳姫(五徳)と結婚しました。

しかし、築山殿と徳姫の関係は悪く、特に以下のような問題が発生しました。

  1. 築山殿と徳姫の確執
    • 築山殿は今川家の血筋を誇り、織田家との結びつきをあまり好まなかったとされる。
    • 徳姫との関係は悪化し、対立が続いた。
  2. 築山殿の政治的影響の低下
    • 家康の勢力拡大に伴い、築山殿の影響力が減少。
    • 岡崎城で孤立し、家康の側室(西郷局など)が勢力を強める。
年代出来事築山殿の立場
1570年清洲同盟締結、信康と徳姫が結婚織田家との関係が強まり、築山殿の影響が低下

3. 築山殿事件(1579年)の詳細

3.1 武田家との内通疑惑

1579年、築山殿は「武田勝頼と内通している」という疑惑を持たれました。

  • この疑惑の発端は、信康の妻・徳姫(五徳)が信長に送った12通の手紙
  • その内容には、「築山殿が武田家と密通し、信康をそそのかして家康に反抗させている」との記述があったとされる。

これを受けた織田信長は、家康に対し「信康と築山殿を処分せよ」と圧力をかけました。

年代出来事影響
1579年徳姫が築山殿の武田家との内通を信長に報告信長が家康に対し、築山殿と信康の処分を要求

3.2 築山殿の最期

家康は、信長の意向を無視することができず、築山殿の処刑を決定しました。

  • 1579年8月29日、築山殿は岡崎城を離れ、浜松へ護送される途中で暗殺された。
  • 暗殺を実行したのは、服部半蔵ら徳川家の家臣たち
  • 享年41歳

4. 築山殿の死後の影響と評価

4.1 家康の後悔

  • 家康は、築山殿の死を生涯悔いたとされる。
  • 彼女の菩提を弔うために寺院を建立し、供養を続けた。

4.2 後世の評価

  • 築山殿は「戦国時代の犠牲者」として、後世の歴史家から同情されることが多い。
  • 彼女の死は、戦国時代の権力闘争の非情さを象徴する事件として記録された。

5. まとめ

築山殿は、徳川家康の正室として徳川家の発展に貢献しましたが、戦国時代の権力闘争の中で悲劇的な最期を迎えました。彼女の死は、徳川家の歴史において重要な転換点となり、家康自身にも大きな影響を与えたと言えるでしょう。