安藤守就(あんどう もりなり、1503年?~1582年?)は、戦国時代の武将であり、美濃国(現在の岐阜県)の戦国大名斎藤氏の重臣として仕えた後、織田信長に臣従した武将です。「西美濃三人衆(にしみの さんにんしゅう)」の一人として、織田信長の美濃攻略に貢献したことで知られています

彼はもともと斎藤道三の家臣でしたが、道三の死後も斎藤義龍・斎藤龍興の2代に仕えました。しかし、斎藤家の衰退が進むと、稲葉一鉄・氏家卜全と共に織田信長に寝返り、斎藤家を滅亡に追いやりました。その後は信長の家臣となりましたが、本能寺の変(1582年)後に明智光秀の攻撃を受け、戦死したといわれています。本章では、安藤守就の生涯を詳しく解説します。


1. 安藤守就の家系と出自

1-1. 安藤氏とは?

安藤氏は、美濃国の有力な土豪(国人領主)の一つで、戦国時代には美濃守護・土岐氏や斎藤氏に仕えていた家柄です。

家名出自特徴
安藤氏美濃国の土豪戦国時代に斎藤氏に仕える

美濃の戦国大名である斎藤道三が土岐氏を追放し、美濃を支配した際、安藤氏は道三に従いました


1-2. 安藤守就の生い立ち

安藤守就は、1503年頃に美濃国で生まれたとされています。彼の若年期の記録は少ないですが、美濃国の国人領主の家に生まれ、戦国武将としての教育を受けたと考えられます。

出来事
1503年?安藤守就 誕生
1530年頃斎藤道三に仕える

戦国時代の武士らしく、彼もまた実戦を経験しながら、徐々に武将としての地位を高めていきました。


2. 斎藤家での活躍

2-1. 斎藤道三に仕える

安藤守就は、美濃の戦国大名・斎藤道三に仕え、家臣団の一員として活躍しました。道三は、商人から成り上がった戦国武将であり、彼の家臣団の中で守就も重臣としての地位を確立していきました。

道三の政策を支え、美濃国の統治に貢献
各地の合戦に参加し、軍事面で活躍
斎藤家の家臣として、他の国人領主と協力しながら戦った

1548年には、美濃国内の城を与えられ、安藤守就は戦国武将として本格的に活動を始めました


2-2. 斎藤義龍の時代

1556年、斎藤道三とその息子・**斎藤義龍(よしたつ)**の間で内紛が発生し、道三が義龍によって討たれました。

この時、安藤守就は斎藤義龍に従い、道三討伐に加わりました

出来事安藤守就の動き
1556年斎藤道三 vs 斎藤義龍義龍に従い、道三を討つ
1561年斎藤義龍の死去息子・斎藤龍興に仕える

義龍は武勇に優れた武将であり、安藤守就も彼を支えましたが、1561年に義龍が急死し、若年の**斎藤龍興(さいとう たつおき)**が家督を継ぎました。


2-3. 斎藤龍興の時代と織田信長への寝返り

斎藤龍興は若くして当主となりましたが、家臣団の統制に失敗し、稲葉一鉄や氏家卜全らと対立するようになりました。

1567年、安藤守就は「西美濃三人衆(にしみの さんにんしゅう)」の一人として、斎藤龍興を見限り、織田信長に寝返りました

西美濃三人衆役割
稲葉一鉄織田家の家臣として活躍
安藤守就美濃の重要拠点を信長に明け渡す
氏家卜全信長の美濃攻略を支援

この裏切りにより、斎藤家は滅亡し、美濃は織田信長の支配下に入りました。


3. 織田信長への仕官

3-1. 信長の家臣として

織田信長に仕えた後、安藤守就は重臣として各地の戦いに参加しました。

稲葉一鉄・氏家卜全とともに美濃統治に協力
織田信長の命令で、戦国時代の合戦に参加

彼は信長の家臣として順調にキャリアを重ねていましたが、1582年の本能寺の変で信長が死去すると、運命が大きく変わります。


3-2. 本能寺の変と最期

1582年、本能寺の変で明智光秀が織田信長を討ちました。これにより、美濃国内でも混乱が生じ、安藤守就も明智光秀と対立する立場に置かれました。

安藤守就は、織田家の他の武将とともに明智軍と戦おうとした
しかし、明智光秀の攻撃を受け、敗北したとされる

この戦いで安藤守就は戦死したとされますが、その詳細な記録は不明です。一説には、討ち死にしたとも、捕らえられて処刑されたともいわれています。


4. 安藤守就の歴史的意義

斎藤道三・義龍・龍興の3代に仕えた忠臣だったが、最後は織田信長に寝返った
「西美濃三人衆」の一人として、織田信長の美濃攻略に貢献した
本能寺の変後に明智光秀と対立し、戦死したとされる

安藤守就の生涯は、戦国時代の武将の典型例として語り継がれています。彼の寝返りがなければ、美濃の戦国史は大きく変わっていたかもしれません。