濃姫(のうひめ、1535年?~没年不詳)は、戦国時代の女性で、斎藤道三(さいとう どうさん)の娘であり、織田信長(おだ のぶなが)の正室(正妻)として知られています。

彼女の生涯についての記録は非常に少なく、詳細は不明な点が多いものの、「美濃のマムシ」と呼ばれた父・斎藤道三の血を受け継ぎ、聡明で気丈な女性であったと伝えられています。また、後世の物語や小説などでは「帰蝶(きちょう)」の名で呼ばれることもありますが、当時の史料にはこの名は見られません。

本章では、濃姫の生涯、信長との結婚、そして彼女の歴史的意義について詳しく解説します。


1. 濃姫の出自と幼少期

1-1. 斎藤道三の娘として生まれる

濃姫は、美濃国(現在の岐阜県)の戦国大名・斎藤道三の娘として生まれました。

親族人物名
斎藤道三(美濃の戦国大名)
小見の方(近江・京極家の出身とされる)
織田信長

父・斎藤道三は「美濃のマムシ」と呼ばれた戦国武将
母・小見の方は近江の名門・京極家の出身とされる

彼女の生誕年には諸説あり、1533年~1535年頃と推定されています。


1-2. 濃姫の幼少期

濃姫の幼少期の記録はほとんど残されていませんが、父・斎藤道三のもとで育ち、戦国武将の娘としての教養を受けたと考えられます。

武家の姫として、礼法や書道、和歌などを学んだ
戦国時代の女性として、政治や外交にも理解があった可能性が高い
道三の娘らしく、気丈で聡明な性格だったと伝えられる

のちに織田信長に嫁ぐことになるため、彼女が持っていた教養や資質は、信長の妻としての役割に大きく影響を与えたと考えられます。


2. 織田信長との政略結婚

2-1. 斎藤道三と織田信秀の同盟

1548年、濃姫の父・斎藤道三は、尾張国(現在の愛知県)の戦国大名・**織田信秀(おだ のぶひで)**と同盟を結びました。

出来事
1548年斎藤道三と織田信秀が同盟を結ぶ
1549年濃姫と織田信長が結婚

この同盟は、当時の戦国大名にとって非常に重要なものであり、両家の関係を強化するために、濃姫は織田信秀の嫡男・織田信長に嫁ぐこととなりました(1549年)


2-2. 織田信長との結婚

1549年、濃姫は織田信長の正室(正妻)として嫁ぎます

**織田信長(1534年~1582年)
婚姻の目的織田家と斎藤家の同盟を強化
結婚時の年齢濃姫(約15歳)、信長(約16歳)

戦国時代の政略結婚の一例として有名
濃姫は織田家に入り、信長の正室としての役割を果たすことになる


2-3. 「うつけ者」の夫との初対面

当時の織田信長は、「うつけ者(愚か者)」と呼ばれるほど奇抜な行動を取ることで知られていました。

信長は粗末な格好で現れ、形式を重んじない振る舞いをした
しかし、実際には冷静な戦略家であり、後の天下人となる器量を持っていた

濃姫が信長とどのような関係を築いたのかについては記録がほとんど残っていませんが、後世の物語では「気丈で聡明な女性として、信長の心をつかんだ」と伝えられています。


3. 濃姫のその後

3-1. 斎藤家の滅亡

1556年、濃姫の父・斎藤道三は**息子・斎藤義龍(さいとう よしたつ)**との戦い(長良川の戦い)で敗れ、戦死しました。

道三の死後、織田家と斎藤家の関係は悪化
1567年、織田信長が美濃を攻略し、斎藤家は滅亡

濃姫がこの間、どのような立場にあったのかは不明ですが、斎藤家が滅びた後も、信長の正室として織田家にとどまったと考えられます。


3-2. 本能寺の変と濃姫の消息

1582年、織田信長は本能寺の変で明智光秀に討たれました

この時、濃姫がどこにいたのかは不明
一説には、本能寺の変の前に亡くなっていたとも言われる
また、信長の死後に出家したともされるが、確かな証拠はない

歴史上の記録では、濃姫の晩年に関する記述がなく、彼女の最期は謎に包まれています


4. 濃姫の歴史的意義

戦国時代の政略結婚の象徴として重要な役割を果たした
父・斎藤道三と夫・織田信長の架け橋となった
気丈で聡明な女性として、戦国の荒波を生き抜いた

濃姫の存在は、織田信長の生涯にも大きな影響を与えた可能性が高く、彼女がいなければ、織田家と斎藤家の関係は大きく変わっていたかもしれません。


5. まとめ

美濃国の戦国大名・斎藤道三の娘として生まれる
1549年、政略結婚により織田信長の正室となる
父・斎藤道三の死後も、信長とともに織田家に残ったと考えられる
本能寺の変以降の記録がなく、彼女の最期は謎に包まれている

濃姫は、歴史の表舞台にはほとんど登場しないものの、戦国時代の重要な女性の一人として記憶されています。