稲葉一鉄(いなば いってつ、1515年~1588年)は、戦国時代の武将であり、美濃国(現在の岐阜県)の戦国大名・斎藤氏や織田信長に仕えた武士です。本名は**稲葉良通(いなば よしみち)**ですが、後に「一鉄」と号しました。剛直で義理堅い武将として知られ、知略と忠誠心を兼ね備えた名将として名を残しています。彼は、斎藤道三・義龍・龍興の3代に仕えた後、織田信長に従い、安土桃山時代まで活躍しました。本章では、稲葉一鉄の生涯を詳しく解説します。


1. 稲葉一鉄の出自と若年期

1-1. 稲葉氏とは?

稲葉一鉄は、美濃国の土岐氏の家臣である稲葉氏の出身でした。稲葉氏は、清和源氏の流れを汲む名門で、鎌倉時代から美濃国に勢力を持っていたとされています。

家名出自特徴
稲葉氏清和源氏美濃国の土岐氏に仕える
稲葉流稲葉通則が祖戦国時代には斎藤氏・織田氏に仕える

稲葉一鉄の父・**稲葉通則(いなば みちのり)**も美濃の国人領主であり、美濃の守護大名・土岐氏に仕えていました。しかし、戦国時代の混乱の中で、斎藤道三が美濃を掌握すると、一鉄の父は道三に従属することを選びました


1-2. 稲葉一鉄の生い立ち

稲葉一鉄は、1515年に美濃国で生まれました。本名は**稲葉良通(いなば よしみち)**で、後に「一鉄」と名乗るようになります。

彼の若年期についての記録は多くありませんが、父の影響を受けて武芸を学び、戦国時代の武将としての教育を受けていたと考えられます。

出来事
1515年稲葉一鉄 誕生
1540年頃斎藤道三の家臣として活動開始

戦国時代の美濃は、斎藤道三が土岐氏を追放して下克上を成し遂げた地であり、一鉄もその過程で道三に仕えることになりました。


2. 斎藤家での活躍

2-1. 斎藤道三に仕える

稲葉一鉄は、美濃の戦国大名・斎藤道三に仕え、重臣として活躍しました。道三は、商人から成り上がった戦国武将であり、稲葉一鉄はその家臣団の中で重要な地位を占めていました。

剛直な性格と武勇で、道三の信頼を得る
道三の息子・斎藤義龍とも良好な関係を築く
道三が織田信長の岳父となる中で、政略の一翼を担う

1548年には、稲葉一鉄は美濃国内の城を与えられ、戦国武将として本格的な活動を始めました


2-2. 斎藤家の内紛と義龍への仕官

1556年、斎藤道三とその息子・斎藤義龍(よしたつ)の間で内紛が発生しました。道三は義龍に討たれ、家督は義龍が継ぐことになります。

この時、稲葉一鉄は義龍に従い、その家臣として仕えることを選びました

出来事稲葉一鉄の動き
1556年斎藤道三 vs 斎藤義龍義龍に従い、道三の討伐に加わる
1561年斎藤義龍の死去息子・斎藤龍興に仕える

義龍は武勇に優れた武将であり、稲葉一鉄も彼を支えましたが、1561年に義龍が急死し、跡を継いだのは若年の**斎藤龍興(さいとう たつおき)**でした。


2-3. 斎藤龍興の時代と織田信長への寝返り

斎藤龍興は若くして当主となりましたが、稲葉一鉄を含む家臣団は彼の統治能力に不安を感じていました。特に、織田信長が勢力を拡大して美濃に侵攻してくると、斎藤家の家臣団は動揺しました

1567年、稲葉一鉄は**西美濃三人衆(にしみの さんにんしゅう)**の一人として、斎藤龍興を見限り、織田信長に寝返りました。

西美濃三人衆役割
稲葉一鉄織田家の家臣として活躍
安藤守就美濃の重要拠点を信長に明け渡す
氏家卜全信長の軍勢を美濃へ迎え入れる

この裏切りにより、斎藤家は滅亡し、美濃は織田信長の支配下に入りました。


3. 織田信長・豊臣秀吉への仕官

3-1. 織田家での活躍

織田信長に仕えた後、稲葉一鉄は重臣として各地の戦いに参加しました。

姉川の戦い(1570年)に参戦し、浅井・朝倉連合軍と戦う
長篠の戦い(1575年)で鉄砲隊の運用を支援
本能寺の変(1582年)後も生き残り、豊臣秀吉に従う

稲葉一鉄は、信長の軍団の中でも特に堅実な武将として評価されました。


3-2. 晩年と死去

本能寺の変(1582年)で織田信長が亡くなった後、稲葉一鉄は豊臣秀吉に仕えました。秀吉の統治の下でも重要な役割を担いましたが、1588年に死去しました。享年74。

西美濃の名将として最後まで活躍
その子孫は江戸時代に大名として存続


4. まとめ

稲葉一鉄は、斎藤道三・義龍・龍興の3代に仕えた後、織田信長に仕えた戦国武将
1567年に「西美濃三人衆」として斎藤家を裏切り、織田家に寝返る
織田信長・豊臣秀吉に仕え、姉川の戦いや長篠の戦いで活躍
剛直な性格で知られ、戦国時代の忠義の武将として評価される

稲葉一鉄の生涯は、戦国時代の武士の典型例として、多くの戦国ファンに知られています。