目次

1. 下剋上(げこくじょう)とは?

1.1 はじめに

下剋上(げこくじょう)とは、身分の低い者が、身分の高い者を倒して権力を奪い取ることを指します。
もともとは室町時代後期から戦国時代(15~16世紀)にかけて頻発した社会現象で、
「下の者が上の者をしのぐ」ことが当然とされた時代の特徴を表す言葉です。

この現象は、従来の「身分制度」が崩壊し、実力さえあれば誰でものし上がれる時代になったことを意味します。
戦国大名の中には、もともと身分の低い家臣だった者や、商人出身だった者もおり、
下剋上によって成り上がった代表的な例として、斎藤道三・松永久秀・織田信長などが挙げられます。

本章では、下剋上の基本的な意味や定義、語源について詳しく解説します。


1.2 下剋上の意味

1.2.1 下剋上の定義

「下剋上」とは、「下の者が上の者を倒して権力を奪い取ること」を意味します。

具体的には、以下のような例が下剋上に該当します。

家臣が主君を倒して領国を奪う(例:斎藤道三が土岐氏を倒して美濃国を支配)
商人や僧侶が武士に取り立てられ、大名に成り上がる(例:豊臣秀吉が百姓から天下人に)
戦国大名が将軍を追放し、幕府を滅ぼす(例:織田信長が足利義昭を追放)

このように、戦国時代においては、「身分の低い者が権力を奪うこと」は特別なことではなく、むしろ一般的な風潮となっていました。


1.2.2 下剋上の本質

下剋上の本質は、「家柄」や「血筋」よりも「実力」が重視される社会の変化です。

時代支配の基準下剋上のしやすさ
鎌倉・室町時代家柄(源氏・藤原氏など)低い(血統が重視される)
戦国時代実力(武力・経済力)高い(家臣が大名を追い落とす)

戦国時代には、武力や知略を持つ者が上に立つ風潮が強まった。
家臣が主君を裏切り、新しい支配者になるケースが頻発した。

この変化が、「下剋上の時代」と呼ばれる戦国時代の特徴を形成しました。


1.3 下剋上の語源

「下剋上」という言葉は、もともと仏教用語であったとされています。
もともとは「下が上を討つ」という意味を持ち、そこから転じて、「下位の者が上位の者を倒す」ことを意味する言葉として使われるようになりました。

「剋(こく)」は「打ち勝つ」「制する」という意味があり、下の者が上を制することを表す。
室町時代後期から、主君を倒して成り上がる風潮を指して「下剋上」という言葉が一般化した。


1.4 下剋上の具体的なパターン

戦国時代に見られた下剋上には、大きく分けて3つのパターンがあります。

1.4.1 家臣が主君を倒す(武士階級内での下剋上)

斎藤道三が主君・土岐頼芸を追放し、美濃国の支配者となった(戦国大名の下剋上)。
松永久秀が三好長慶を乗っ取り、将軍・足利義輝を殺害して幕府を支配した(幕府内の下剋上)。

1.4.2 庶民が武士として成り上がる(社会的な下剋上)

豊臣秀吉は百姓の出身だったが、織田信長の家臣として出世し、最終的に天下人となった。
斎藤道三ももともと商人(油売り)だったが、戦国大名に成り上がった。

1.4.3 戦国大名が将軍を追放する(国家レベルの下剋上)

織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府を滅ぼした(国家レベルの下剋上)。
徳川家康が豊臣家を滅ぼし、江戸幕府を開いた(天下人の交代)。

戦国時代の下剋上は、個人レベルから国家レベルまで、あらゆる階層で起こった現象だった。


1.5 まとめ(下剋上の意義)

1.5.1 下剋上の本質的な特徴

  1. 家柄ではなく、実力が重視される時代になった。
  2. 戦国大名の多くは、下剋上によって成り上がった。
  3. 室町幕府の崩壊とともに、主君を倒すことが当たり前になった。

1.5.2 戦国時代と下剋上の関係

戦国時代は、下剋上が最も激しく行われた時代だった。
新しい領主が次々と登場し、全国で大名が入れ替わった。
戦国時代の終焉とともに、下剋上の風潮はなくなった(江戸時代の幕藩体制)。

1.5.3 下剋上の終焉と江戸時代

戦国時代が終わり、徳川家康が江戸幕府を開く(1603年)と、下剋上の時代は終焉を迎えた。
江戸時代では武士の身分制度が固定され、「主君を裏切ることは許されない時代」となった。


1.6 最終的なまとめ

  1. 下剋上とは、身分の低い者が身分の高い者を倒し、権力を奪うこと。
  2. 室町時代後期から戦国時代にかけて頻発し、多くの戦国大名が下剋上によって成り上がった。
  3. 下剋上によって、従来の身分制度が崩れ、実力主義の時代が到来した。
  4. しかし、江戸幕府の成立(1603年)により、下剋上の時代は終焉を迎えた。

下剋上は、日本の歴史における「実力主義の時代」を象徴する重要な概念であり、戦国時代の特徴を最もよく表す言葉の一つである。

2. 下剋上が広まった背景

2.1 はじめに

「下剋上(げこくじょう)」とは、身分の低い者が、身分の高い者を倒して権力を奪い取ることを意味します。
下剋上が広まった背景には、室町幕府の権力低下や戦国時代の社会構造の変化がありました。

本章では、下剋上が発生した原因を、以下の4つの要因に分けて詳しく解説します。

要因説明
室町幕府の支配力の低下応仁の乱による幕府の崩壊
守護大名の弱体化家臣が実権を握り、主君を倒す動きが活発化
戦国時代の「実力主義」の台頭身分ではなく、武力・経済力が支配権を決める
経済の発展と商人・僧侶の台頭武士以外の層が政治に影響を及ぼす

2.2 室町幕府の支配力の低下(幕府の崩壊が下剋上を生んだ)

室町幕府(1336年~1573年)の支配は、もともと将軍が守護大名(各地の領主)を統制することで成り立っていました。
しかし、15世紀後半になると幕府の力が弱まり、守護大名が独立化し始めます。

2.2.1 応仁の乱(1467年~1477年)がもたらした混乱

応仁の乱は、室町幕府を支える将軍家・守護大名たちが二派に分かれて戦った内乱。
戦争が長期化し、幕府の権威が大きく低下。
全国の武士たちは「幕府を頼るよりも、自力で領地を守る」方向へ。

2.2.2 幕府の弱体化による下剋上の加速

将軍の権力が低下し、各地の守護大名が勝手に戦を始めるようになった。
守護大名の配下にいた家臣(守護代・国人)が力をつけ、主君を倒すケースが増加。
この結果、「下剋上」が全国的に広がることになった。

時代幕府の力武士の行動下剋上の発生状況
室町幕府前期強い将軍が大名を統制ほとんど発生せず
応仁の乱(1467年~)弱体化大名が独立傾向に守護大名が倒される
戦国時代崩壊家臣が主君を倒す下剋上が日常化

2.3 守護大名の弱体化(家臣が主君を倒す時代へ)

戦国時代の下剋上の典型例は、「家臣が主君を倒して成り上がる」現象です。
これが起こった原因は、守護大名の権力が弱体化し、家臣(守護代・国人)が実権を握るようになったためです。

2.3.1 「守護代(しゅごだい)」の台頭

✅ 守護大名の補佐役である「守護代」が、戦国時代に入ると主君を追放し、大名の座を奪うケースが増えた。

例:斎藤道三の下剋上(美濃国)

時代支配者出来事
戦国初期土岐頼芸(美濃国の守護大名)政治力が弱く、家臣に実権を握られる
道三の台頭斎藤道三(守護代)土岐氏を追放し、美濃の支配者に

家臣が実権を握り、そのまま主君を追放するケースが増えた。

2.3.2 「国人(こくじん)」の独立化

戦国時代には、地方の小領主(国人)が独立し、守護大名の支配から離れる動きが活発化。

例:毛利元就の下剋上(安芸国)

もともと毛利氏は大内氏の家臣だったが、元就が大内氏を裏切り、独立した。
結果として、毛利氏は戦国大名へと成長し、中国地方の覇者となった。

このように、戦国時代には「主君を裏切って独立する」ことが珍しくなくなった。


2.4 戦国時代の「実力主義」の台頭(身分を超えてのし上がれる時代)

戦国時代は、それまでの「血筋・家柄重視」の社会から、「実力主義」の社会へと変わっていきました。
これが下剋上を加速させた大きな要因の一つです。

時代支配者の特徴下剋上の可能性
鎌倉・室町時代名門武士(源氏・藤原氏など)低い(血統が重視される)
戦国時代武力や知略のある者高い(家臣が主君を追い落とす)

戦国時代には、もともと身分の低い者でも、実力次第で天下を取ることが可能になった。


2.5 経済の発展と商人・僧侶の台頭(武士以外の下剋上)

下剋上は武士の世界だけでなく、商人や僧侶の間でも起こった。

2.5.1 商人の台頭

戦国時代には、城下町が発展し、商人が経済力を持つようになった。
一部の商人は、武士と結びつき、大名のような力を持つようになった。

例:堺の豪商(町衆)の自治

戦国時代、堺の商人たちは独立した自治を行い、戦国大名に対抗した。
このように、武士以外の階層も政治に影響を与え始めた。

2.5.2 僧侶の下剋上(本願寺の勢力拡大)

一向宗(浄土真宗)の本願寺は、戦国時代に大名と同じくらいの軍事力を持つようになった。
織田信長も石山本願寺(大阪)を攻めるのに10年近くかかった。

武士だけでなく、商人や僧侶も下剋上を果たした例がある。


2.6 まとめ(なぜ下剋上が広まったのか?)

室町幕府の弱体化により、大名の権力が崩れた。
戦国時代は「実力主義」の時代になり、家臣が主君を倒しやすくなった。
商人や僧侶も権力を握るようになり、社会全体で下剋上が広まった。

下剋上は、戦国時代を象徴する現象であり、最も実力が重視された時代を作り出した。

3. 下剋上の代表的な例

3.1 はじめに

「下剋上(げこくじょう)」とは、身分の低い者が、身分の高い者を倒して権力を奪い取ることを意味します。
戦国時代(15世紀後半~16世紀)は、下剋上が最も盛んに行われた時代であり、
多くの戦国大名が、主君を倒したり、旧来の支配者を追放することで領土を獲得しました。

本章では、戦国時代に実際に起こった代表的な下剋上の事例を詳しく解説します。
具体的には、以下の5つの事例を取り上げます。

人物成り上がりの手段下剋上の相手
斎藤道三商人から戦国大名へ美濃国守護・土岐氏
松永久秀主君を裏切り、大和を支配三好長慶・足利義輝
織田信長将軍を追放し、幕府を滅ぼす足利義昭
豊臣秀吉百姓から天下人へ織田家の旧臣・柴田勝家
信長の三男・織田信孝
信長の次男・織田信雄
徳川家康豊臣政権を倒し、江戸幕府を開く豊臣秀頼

3.2 斎藤道三(さいとう どうさん)— 油売りから戦国大名へ

3.2.1 どのように成り上がったのか?

商人(油売り)の出身だったが、武士として取り立てられる。
美濃国の実力者・長井氏の家臣となり、家中で権力を握る。
美濃国の守護(正式な領主)だった土岐頼芸(とき よりのり)を追放し、自らが美濃国の支配者になる。

3.2.2 下剋上の相手

土岐頼芸(とき よりのり)— 美濃国の守護大名(伝統的な領主)。
道三に追放され、美濃を奪われた。

時代支配者出来事
戦国初期土岐頼芸(守護大名)守護大名として美濃を統治
道三の台頭斎藤道三(家臣)土岐頼芸を追放し、美濃を奪う

3.2.3 下剋上の影響

「油売りから大名へ」のサクセスストーリーが、戦国時代の象徴とされた。
織田信長の父・織田信秀と争い、織田家と美濃の対立が激化。
道三の息子・斎藤義龍(さいとう よしたつ)が父を討ち、美濃は一時混乱に陥る。

「下剋上の代名詞」とされるほどの大胆な成り上がり方をした人物だった。


3.3 松永久秀(まつなが ひさひで)— 将軍を殺した謀略家

3.3.1 どのように成り上がったのか?

三好長慶の家臣として、畿内(京都周辺)の支配を任される。
主君・三好長慶が死去すると、三好家の実権を奪う。
室町幕府13代将軍・足利義輝を暗殺し、幕府を事実上崩壊させる。

3.3.2 下剋上の相手

三好長慶(主君)— 松永久秀に裏切られ、三好家の実権を失う。
足利義輝(室町幕府13代将軍)— 久秀の陰謀により、暗殺される(永禄の変・1565年)。

3.3.3 下剋上の影響

将軍を暗殺するという、戦国時代でも極端な下剋上を実行した。
結果として、室町幕府は完全に機能しなくなり、「戦国大名の時代」へと移行。
後に織田信長に敗北し、日本初の「爆死(自害するときに爆薬を使う)」をしたと伝えられる。

日本史上初めて将軍を殺した戦国武将であり、最も過激な下剋上を成し遂げた人物。


3.4 織田信長(おだ のぶなが)— 室町幕府を滅ぼした天下人

3.4.1 どのように成り上がったのか?

尾張の小大名(織田家)出身。
今川義元を桶狭間の戦い(1560年)で討ち取る。
足利義昭を京都に迎えて将軍にするが、最終的に追放(1573年)。
室町幕府を滅ぼし、日本統一の基盤を築く。

3.4.2 下剋上の相手

今川義元(駿河の大名)— 織田信長に討たれ、駿河国を失う。
足利義昭(室町幕府15代将軍)— 信長に追放され、室町幕府が滅亡。

3.4.3 下剋上の影響

将軍を追放することで、戦国時代のルールを完全に変えた。
「武士のトップ(将軍)」さえも追い出せる時代を作った。
後に豊臣秀吉・徳川家康がこの流れを引き継ぐ。

信長は、下剋上の最終形態とも言える存在だった。


3.5 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)— 百姓から天下人へ

織田信長の家臣から身を立て、最終的に天下統一を果たす。
明智光秀・柴田勝家・織田信孝・織田信雄らを倒し、織田家の後継者となる。
関白に就任し、武士以外の出身者として初の天下人となる。

「下剋上の時代の最終到達点」とも言える人物。


3.6 まとめ(戦国時代の下剋上の影響)

下剋上によって、室町幕府の支配体制が崩壊した。
戦国大名の多くは、下剋上によって新しい支配者となった。
最終的には、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が下剋上を経て天下統一を果たした。

戦国時代は、「下剋上の時代」であり、実力が全てを決める時代だった。

4. 下剋上が日本社会に与えた影響

4.1 はじめに

「下剋上(げこくじょう)」とは、身分の低い者が、身分の高い者を倒して権力を奪い取ることを意味します。
戦国時代(15世紀後半~16世紀)には、数多くの下剋上が発生し、日本の社会構造や政治体制に大きな変化をもたらしました

本章では、下剋上が日本社会に与えた影響を、以下の4つの側面から詳しく解説します。

影響の種類具体的な変化
政治の変化室町幕府の崩壊、新たな戦国大名の台頭
社会構造の変化実力主義の時代へ、身分制度の崩壊
経済の発展城下町の形成、商人の台頭
文化・価値観の変化「実力こそが正義」という価値観の普及

4.2 政治の変化:室町幕府の崩壊と戦国大名の台頭

4.2.1 室町幕府の崩壊

✅ 下剋上が頻発した結果、室町幕府(1336年~1573年)の支配体制が崩壊した。
✅ 将軍の権力が弱まり、大名たちが独立して戦国時代に突入した。

具体例:足利義昭の追放(1573年)

  • 織田信長は、15代将軍・足利義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼした
  • これにより、日本の政治は、将軍による支配から「戦国大名同士の争い」に移行した。

下剋上が最終的に幕府を滅ぼし、日本を群雄割拠の時代へと導いた。


4.2.2 新たな戦国大名の台頭

✅ 下剋上によって、伝統的な「守護大名」に代わり、実力でのし上がった「戦国大名」が登場した。
✅ これにより、日本各地で領主が入れ替わり、新たな勢力図が形成された。

旧守護大名と新戦国大名の比較

時代支配者のタイプ特徴
室町時代守護大名家柄・血統重視今川氏・武田氏
戦国時代戦国大名実力重視織田信長・豊臣秀吉

戦国大名の多くは、下剋上によって台頭し、「強ければ生き残る」時代を生み出した。


4.3 社会構造の変化:実力主義の時代へ

4.3.1 身分制度の崩壊

✅ 下剋上の時代には、家柄ではなく、武力・知略・経済力を持つ者が上に立つ風潮が強まった。
✅ これにより、「身分の低い者でも天下を取れる」社会になった。

具体例:豊臣秀吉の台頭

  • 豊臣秀吉は、百姓の出身ながら、織田信長に仕えて出世し、最終的に天下統一を果たした。
  • これは、それまでの「名門出身でなければ大名になれない」という常識を覆す大事件だった。

戦国時代は、身分制度が崩れ、実力でのし上がることが可能な時代になった。


4.3.2 武士階級の変化

✅ 戦国時代には、家臣が主君を倒して成り上がるケースが多発したため、「忠誠」よりも「実力」が重視されるようになった
✅ これにより、家臣たちは主君の弱体化を感じると、すぐに裏切るようになった。

例:松永久秀の裏切り(1573年)

  • 松永久秀は、もともと三好家の家臣だったが、主君を裏切り、独立した。
  • さらに、足利義輝(13代将軍)を殺害し、京都の支配者になった。

戦国時代の武士は、「主君を裏切ってでも生き残る」ことが当たり前になった。


4.4 経済の発展:城下町の形成と商人の台頭

戦国大名は、経済力がなければ戦を続けることができなかったため、商人や職人を保護するようになった。
✅ その結果、「城下町(じょうかまち)」が発展し、経済が活性化した。

4.4.1 城下町の形成

城を中心に町を作り、商業や流通を活発にした。
これにより、各地で経済の発展が進んだ。

例:織田信長の楽市楽座(1570年代)

  • 市場の自由化を進め、商業の発展を促した。
  • 城下町を整備し、経済力を強化することで、軍事力の維持にもつなげた。

戦国大名は、商業を重視することで、経済基盤を強化した。


4.4.2 商人の台頭

✅ 下剋上は、武士の世界だけでなく、商人にも影響を与えた
商人が武士と結びつき、政治に影響を及ぼすケースもあった。

例:堺の豪商(町衆)の自治

  • 戦国時代、堺の商人たちは自治を行い、大名に対抗した。
  • 特に鉄砲貿易などで莫大な富を築き、戦国大名に影響を与えた。

戦国時代には、「経済力を持つ者が権力を握る」ケースが増えた。


4.5 文化・価値観の変化:「実力こそが正義」の時代

下剋上が頻発した結果、日本社会では「実力がすべて」という価値観が浸透した。
これにより、従来の「家柄」「伝統」よりも、「能力」が重視されるようになった。

4.5.1 宗教と戦国大名の関係

戦国大名は、仏教勢力を利用したり、逆に敵対したりすることが多かった。
例えば、織田信長は一向宗(浄土真宗)の本願寺を攻撃し、従来の仏教勢力を排除しようとした。

戦国時代は、従来の「道徳」や「伝統」が崩れ、新たな価値観が生まれた時代だった。


4.6 まとめ(下剋上が日本社会に与えた影響)

政治的に、室町幕府が崩壊し、戦国大名の時代が到来した。
社会的に、身分制度が崩壊し、実力主義が広まった。
経済的に、城下町が発展し、商人の影響力が増した。
文化的に、「実力こそが正義」という価値観が定着した。

下剋上は、戦国時代の日本を大きく変え、近代日本の社会構造の基盤を作った重要な現象だった。

5. まとめ

5.1 はじめに

「下剋上(げこくじょう)」とは、身分の低い者が、身分の高い者を倒して権力を奪い取ることを意味します。
この現象は特に戦国時代(15世紀後半~16世紀)に顕著であり、
多くの戦国大名が、主君を倒したり、旧来の支配者を追放することで領土を獲得しました。

本章では、これまでの内容を整理しながら、
下剋上の歴史的な意義とその影響、そして最終的な結末について詳しくまとめます。


5.2 下剋上の本質と特徴の整理

「家柄」ではなく、「実力」で権力を握る時代を生んだ。
戦国時代には、主君を倒して独立する家臣が多数現れた。
商人や僧侶の台頭も見られ、社会全体に影響を与えた。

要素変化
政治室町幕府が崩壊し、戦国大名の時代へ
社会身分制度が崩壊し、実力主義が浸透
経済城下町が発展し、商人の影響力が増大
文化「強い者が正義」という価値観が定着

下剋上は、日本の歴史を大きく変えた一大社会変動だった。


5.3 下剋上の歴史的影響

5.3.1 政治的影響:幕府の崩壊と戦国時代の到来

室町幕府は、家臣の裏切りが続き、ついに崩壊(1573年)
守護大名に代わり、「戦国大名」が各地を支配する時代に突入

時代支配の特徴代表的な下剋上の例
室町時代守護大名が支配斎藤道三が土岐氏を追放
戦国時代戦国大名が主君を倒す織田信長が足利義昭を追放
安土桃山時代天下統一の動き豊臣秀吉が天下を統一

下剋上は、室町幕府の終焉と、戦国時代の始まりを引き起こした。


5.3.2 社会的影響:実力主義の時代へ

戦国時代は、「能力のある者が生き残る」時代へと変化
百姓出身の豊臣秀吉が天下人となるなど、「身分の壁」がなくなった。

時代身分制度の特徴
鎌倉・室町時代家柄・血統が重要(源氏・藤原氏など)
戦国時代実力があれば大名になれる(織田信長・豊臣秀吉)
江戸時代武士階級が固定化(下剋上が禁止される)

戦国時代は、「下からのし上がること」が可能な時代だった。


5.3.3 経済的影響:城下町の発展と商人の台頭

戦国大名は、経済力を重視するようになり、城下町を整備。
自由経済を導入した織田信長の「楽市楽座」などが登場。

具体例:織田信長の経済政策(楽市楽座)

  • 市場の自由化を進め、商業の発展を促進。
  • 城下町を整備し、商人の活動を活発化。

下剋上による戦国時代の混乱の中で、日本の経済基盤が発展した。


5.4 下剋上の終焉:江戸幕府の成立

5.4.1 豊臣秀吉による「刀狩令」

1588年、豊臣秀吉は「刀狩令」を発布し、農民の武装を禁止。
これにより、百姓が武士になることができなくなり、下剋上が難しくなった。

5.4.2 徳川家康による江戸幕府の支配(1603年~)

1603年、徳川家康が江戸幕府を開き、封建制度を確立。
武士の身分が固定され、「家柄」が再び重視されるようになった。
これにより、「主君を倒して成り上がる」ことが不可能な時代となる。

江戸時代に入り、下剋上の時代は完全に終焉を迎えた。


5.5 まとめ(下剋上の歴史的意義)

要素下剋上の影響
政治室町幕府が崩壊し、戦国時代が到来
社会身分制度が崩壊し、実力主義が浸透
経済城下町が発展し、商人の影響力が増大
文化「実力こそが正義」という価値観が定着
最終的な結末江戸幕府が成立し、下剋上の時代は終焉

下剋上は、日本の歴史を大きく変えた一大社会変動だった。
しかし、徳川幕府の成立により、「主君を裏切る」ことが禁止される時代に変わった。


5.6 最終的な結論:下剋上は日本の近代化の土台を作った

下剋上は、日本を「家柄重視の社会」から「実力主義の社会」に変えた。
戦国時代を経て、城下町が発展し、商業や経済が成長した。
しかし、江戸時代になると、封建制度が確立し、下剋上の風潮は消滅した。

もし下剋上がなかったら?

  • 室町幕府の体制が続き、日本の近代化は遅れていた可能性がある。
  • 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代は訪れなかったかもしれない。

下剋上は、日本の歴史を動かした「革命的な社会変化」だった。
そして、それが終わることで、江戸時代の「安定した支配体制」へと移行した。


5.7 まとめのまとめ

  1. 下剋上は、戦国時代の象徴的な現象であり、政治・社会・経済に大きな影響を与えた。
  2. 戦国大名の多くは、下剋上によって台頭し、旧来の支配者を駆逐した。
  3. しかし、豊臣秀吉・徳川家康の時代になると、下剋上は抑えられ、封建社会が確立した。
  4. 下剋上が終焉したことで、日本は安定した「江戸時代」へと移行した。

下剋上は、戦国時代を作り、そして江戸時代を生んだ日本史の転換点だった。