ひろばし のぶあき
1527?-1584
享年58歳。
■龍造寺家の肥前平定戦にて活躍を見
せた。
1583年に肥後にて龍造寺政家と島津
義久との間で小競り合いが起き、結果
として領域策定による和議が成立して
いたが、1584年に入ると島原半島で起
きた反龍造寺家の旗を掲げた有馬氏
の救援に島津氏が援軍を送り、和議
を一方的に破棄してきた。
これに怒った龍造寺隆信はこれらの討
滅の意を決し、隆信は自ら5万8000
の大軍を率いて出陣した。
一方の島津軍は島津家久を総大将と
する3000の手勢だけであり、有馬氏
らの軍勢と合わせても1万数千に留
まった。
信了も龍造寺軍の先鋒となって、島原
半島へと進行していったが、島津軍の
総大将・島津家久は無名ながら戦術に
長け、兵力に劣る島津・有馬連合軍の
形勢を有利にすべく、沖田畷という
湿地帯を前にして防戦する構えを見
せた。
大軍に慢心した龍造寺軍は得意の力
攻めを敢行。
防戦一方の島津軍を一挙に叩く無謀な
突撃戦術を展開したが、これにより、島
津軍の術中にはまってしまう。
島津軍を叩くためには細い小道を進ま
なくては成らず、狭い小道に差し掛か
り、少数に小別れした龍造寺軍を島津
軍は強襲。
龍造寺軍は進行がままならず、犠牲者
が続出した。これに業を煮やした隆信
は、泥沼の湿地帯から侵攻するように
各部隊に命じた。
これにより、足を取られることとなった
龍造寺軍は、龍造寺軍が泥に足を取ら
れている間に島津軍のいい的にされ、
格好の標的にされた。
この混戦の中、龍造寺軍の後方にある
雑木林に潜ませていた島津軍の伏兵
が機会を掴み、龍造寺軍の後方より
強襲。
龍造寺軍は身動きがとれないまま敵の
挟み撃ちにさらされ、大混乱に陥った。
統率がとれない龍造寺軍本陣が島津
軍の猛攻を受け、龍造寺軍総大将・龍
造寺隆信があっさりと討ち取られてし
まうともはや、龍造寺軍は烏合の衆と
化した。
この混戦の中、進退がとれぬまま、信
了も奮戦の末に討死した。
広橋 信了
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