こうそかべ ちかやす
1543-1593
享年51歳。
名称:安芸守
居城:土佐香宗城→土佐安芸城
■長宗我部国親の二男として誕生。
長宗我部元親の実弟である。
■1558年、父・国親の外交戦略により、
親泰は香宗我部家の家督を継ぐ。
”土佐の熊”として恐れられた国親は、
貪欲なまでに侵略を重ね、同族出の
香宗我部家はこの圧力に耐えかねた
結果、香宗我部家の陰の実力者・
香宗我部親秀の英断により、親泰の
養子縁組という形が成立したのであ
った。
しかし、この結果に納得いかない香宗
我部家当主・香宗我部秀通はこの
養子縁組を強硬に反対。
最後には、香宗我部家の内紛に発展
することを恐れた親秀によって、秀通
は刺殺される形で事態は収拾する。
■このような経緯で香宗我部家へ養子と
して乗り込んだ親泰は、動揺する家臣
団の統率や香宗我部家の陰の実力者
・親秀への配慮など前途多難な家中
運営を行っていった。
■四国の英雄・長宗我部元親の実弟だけ
あって、親泰の才覚は長宗我部家臣
団の中でも、ずば抜けた才覚を見せ、
長宗我部家と長年にわたって死闘を
繰り広げてきた安芸城の安芸氏を攻
め滅ぼす抜群の軍功を飾っている。
この実弟・親泰の軍功を賞した元親は
陥落した安芸城を親泰に与えている。
■謀略上手の土佐土豪たちを次々と攻略
した元親は、祖父以来、念願の土佐
一国の統治に成功する。
この覇業は、英雄・元親のすぐれた軍
略のおかげであったが、少なからず、
元親の副将兼軍師的な役割を果たし
た親泰の功績にも拠る所が大きい。
■軍略を練り上げる元親に対し、その洗
練された軍略を実戦で成就させていっ
たのが親泰であった。
このしっかりとした役割分担の上に長
宗我部氏の四国制覇戦は展開していく
のであった。
親泰は長宗我部軍の主力部隊を率い
て各地を転戦。
特に阿波中富川の戦いにおいての活
躍は目覚しく、三好家が四国に誇った”
鬼十河”の異名を持つ屈強な敵軍部隊
を完璧なまでに撃破している。
■四国最大の精鋭部隊”鬼十河”の軍団
を再起できないまでに撃破した親泰の
武運はまさに留まるところを知らず。
ついには四国全土に長宗我部家の軍
旗を掲げるに至ったのである。
ほぼ四国統一を果たした元親は、時を
ほぼ同じくする中央政権の確立を成し
た羽柴秀吉と拮抗すべく、泰然とした
軍略軍備を施行した。
■羽柴軍の四国遠征部隊が四国大陸に
まもなく渡海するとの情報が流れる中
、長宗我部軍は、秀吉に拮抗すべく準
備を整えていた。
しかし、渡航直前に総大将の秀吉が病
に沈むとそれに代わって、秀吉の実弟
・羽柴秀長が総大将代理を務め、遠征
してきたとの一報が長宗我部軍陣営に
入る。
秀吉自体、どこの馬の骨ぞ!と皆が思
っている中で、その弟とは。
四国覇王の軍団をなめているのかと憤
激しつつも、これで勝率がアップしたと
内心ほくそえんだ四国勢は、羽柴軍を
迎え討った。
しかし、予想に反して、秀長の軍略は
的確。百戦錬磨の中央政権の武士団
の戦なれしていることに驚く暇もなく、
覇軍長宗我部氏の部隊は一敗地にま
みれて敗走した。
■主君・元親も渋々、秀吉軍の実力を認
めて和議に応じ、秀吉の懐柔戦術と恩
情により、土佐一国の安堵を許される
に至る。
その後、覇者同士の調和とでもいうの
か、元親は、豊臣政権内で秀吉お気に
入りの武将として政権内にてその地位
をのし上げて行くことと成る。
この点においては、中国の雄・毛利輝
元が堅物であったのに較べて、処世術
をわきまえていた勘のある元親の方が
一枚上手であったと見るべきであろう。
元親の柔軟な戦略家としての振る舞い
にはさしもの実弟・親泰とて、舌を巻い
たに違いない。
■そんな逸材極まりない兄・元親をまじか
に見ていた親泰ではあったが、秀吉の
命により、長宗我部家が九州征伐の先
発を任されるという誉れを受けた。
軍功一番とばかりに勇んで長宗我部軍
は九州に渡海した。
親泰も勇み足を抑えつつ、長宗我部軍
副大将兼、軍師として軍略を取り仕切
ったが、野戦の戦術においては天下一
ともうたわれた九州島津のつわものど
もの猛攻に遭遇。
四国勢は戸次川にて大混乱をきたす。
親泰も自慢の軍統制能力を発揮する
暇もなく、島津追撃隊の猛者たち攻撃
を受け、敗走した。
結果的に逃げ惑うだけに終ったこの戸
次川合戦では、長宗我部家を栄華に
導くであろう期待の星・長宗我部信親
を失うという大失態のまま幕を閉じたの
であった。
この戦いによって、信親を失った長宗
我部家は、その後、元親の狂乱と家督
争いの痛手を負う事になる。
■秀吉が天下を成した後、実弟・秀長、嫡
子・鶴松を失い、寂しさの余り狂気の沙
汰の末の朝鮮出兵という暴虐振りに走
ったことと同じくして、兄・元親は二男・
親和、三男・親忠を冷遇の末、幽閉。さ
っぱり風采の上がらない凡々の四男・
盛親を長宗我部家嫡子とする暴挙を家
中に強いている。
親泰は、この暴挙を押し止めるだけの
補佐をすることができなかった。
■秀吉の朝鮮出兵の際に親泰は、これに
従軍したが、無用な戦いに借り出され
ることに気落ちしたのか異国の人々を
殺戮することなく長門国にて病没した。
享年51歳。
長宗我部家の四国統一という栄光を見
た親泰であったが、長宗我部家嫡子・
信親を失い、狂乱する兄・元親を見て、
長宗我部家の行く末をさぞかし嘆いた
ことであろう。
香宗我部 親泰
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