南北朝騒乱とは?詳細な解説

南北朝騒乱(なんぼくちょうそうらん)は、14世紀の日本で発生した長期間の内乱であり、鎌倉幕府の滅亡後に皇統をめぐる対立が激化し、二つの朝廷(南朝と北朝)が対立した戦乱の時代を指します。日本史において極めて重要な時代の一つであり、室町幕府成立の基盤ともなりました。


1. 南北朝騒乱の背景

(1) 鎌倉幕府の滅亡

南北朝時代の発端は、鎌倉幕府の滅亡(1333年)にあります。鎌倉幕府の支配に不満を抱いていた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、討幕計画を進めました。

後醍醐天皇は 1324年に「正中の変(しょうちゅうのへん)」、1331年に「元弘の変(げんこうのへん)」を起こしましたが、いずれも幕府に察知され、失敗してしまいます。元弘の変で捕らえられた後醍醐天皇は、隠岐(おき)に流されました。

しかし、1333年、幕府の討幕に呼応して挙兵した新田義貞(にった よしさだ)足利尊氏(あしかが たかうじ)楠木正成(くすのき まさしげ)らの活躍により、鎌倉幕府は滅亡します。

(2) 建武の新政と足利尊氏の反発

幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政(けんむのしんせい)を開始しました。しかし、これは公家中心の政治であり、武士たちの期待を裏切るものでした。そのため、足利尊氏を中心とする武士たちの不満が高まり、ついに足利尊氏は反旗を翻します。

1336年、足利尊氏は湊川の戦いで楠木正成を破り、後醍醐天皇を京都から追放しました。そして、新たに光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立し、室町幕府を開きます。

しかし、後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県)に逃れ、自らを正統な天皇と主張しました。こうして、日本は南朝(後醍醐天皇の系統)と北朝(足利尊氏が擁立した天皇の系統)に分裂し、長い戦乱の時代に突入しました。


2. 南北朝時代の主な戦い

南北朝時代には多くの戦いが発生しました。その中でも特に重要な戦いをいくつか紹介します。

(1) 湊川の戦い(1336年)

後醍醐天皇に忠誠を誓っていた楠木正成が、足利尊氏と戦った戦いです。楠木正成は圧倒的な兵力差に苦しみながらも奮戦し、最後は自害しました。この戦いにより、後醍醐天皇は京都を追われることになりました。

(2) 四条畷の戦い(1348年)

南朝方の武将、楠木正行(くすのき まさつら)が北朝方の高師直(こうの もろなお)と戦い、壮絶な最期を遂げた戦いです。楠木正行は湊川で討死した父・正成の遺志を継ぎ、果敢に戦いましたが、数の力に敗れ、最期には「七生報国(しちしょうほうこく)」と叫びながら自害しました

(3) 観応の擾乱(1350〜1352年)

室町幕府内部でも争いがありました。その中でも特に大規模だったのが「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」です。これは、足利尊氏の弟・足利直義(あしかが ただよし)と尊氏の側近・高師直の間で勃発した内紛です。

最終的に直義は敗れ、幕府内の権力争いは尊氏が制しましたが、この争いにより室町幕府の権威は大きく揺らぎました。

(4) 近江坂本の戦い(1392年)

1392年、南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、足利義満(あしかが よしみつ)と和睦し、北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)に皇位を譲りました。これにより、南北朝の統一が果たされました。


3. 南北朝時代の影響

南北朝の争いは約60年間続き、日本全国に大きな影響を与えました。

(1) 武士の台頭

この戦乱を通じて、武士の地位が確立されました。室町幕府の支配体制は鎌倉幕府以上に武士の勢力を重視するようになり、地方の守護大名の力が強まるきっかけとなりました。

(2) 南朝の影響

南朝は最終的に北朝に吸収されましたが、後醍醐天皇を始めとする南朝の人々は「正統の天皇」として長く敬われました。明治時代には、南朝が「正統」として認められ、楠木正成などの南朝側の武将が英雄視されました。

(3) 室町幕府の確立

南北朝合一により、室町幕府の基盤が固まりました。足利義満はその後、「花の御所」を建設し、将軍権力を確立していきます。


まとめ

南北朝騒乱は、皇統の対立を発端とし、全国を巻き込む長期間の内戦となりました。戦いの中で多くの英雄や悲劇的な人物が登場し、日本の歴史に深い影響を残しました。

主な出来事:

  • 1333年 鎌倉幕府滅亡
  • 1336年 湊川の戦い
  • 1348年 四条畷の戦い
  • 1350〜1352年 観応の擾乱
  • 1392年 南北朝の統一

この時代の争いが後の戦国時代へと続く武士の社会を作り上げていきました。