wikipediaより参照:武蔵塚原試合図(月岡芳年画)

塚原卜伝(つかはら ぼくでん)は本当にすごい剣豪だったのか?

塚原卜伝(1489年?~1571年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した剣豪であり、日本剣術史において重要な人物の一人です。彼は「一之太刀」(ひとつのたち)と称される剣の極意を会得し、鹿島新当流(かしましんとうりゅう)の祖として知られています。

彼の実力がどれほどのものだったのかを、生涯・武勇伝・影響などを通じて詳しく解説します。


1. 塚原卜伝の生涯

wikipediaより参照:塚原卜伝像

(1) 若き日の修行

塚原卜伝は、常陸国(現在の茨城県)に生まれました。本名は塚原高幹(つかはら たかもと)とされ、鹿島神宮の神官の家系でした。幼少期から剣術を学び、鹿島神宮に伝わる鹿島古流を修行しました。

その後、さらなる剣の腕を磨くために「諸国武者修行」に出ます。日本全国を巡り、各地の剣士と戦いながら剣術を極めていきました。


(2) 伝説の「戦歴19戦無敗」

塚原卜伝には、「生涯で19回の真剣勝負を行い、一度も敗れなかった」という伝説があります。
彼の剣術は非常に優れており、「殺し合いの戦いを19回経験しながら、一度も負傷せず勝ち続けた」とされます。

その一方で、彼は戦いを好んだわけではなく、「活人剣(かつにんけん)」と呼ばれる人を生かす剣の境地に達していきます。


(3) 京都での武者修行と「一之太刀」

ある時、京都で有名な剣士と試合をした際、卜伝は「一之太刀」という境地を会得しました。
これは、「剣の技は多くを極めるのではなく、たった一つの極意を完全に理解すればよい」という考え方です。

これにより、彼の剣技はより研ぎ澄まされ、無駄のない最強の剣へと進化していきました。


2. 塚原卜伝の武勇伝

(1) 鹿島の神木の教え

塚原卜伝がまだ若いころ、ある日鹿島神宮の神木を切ろうとしました。その瞬間、刀を振り下ろした自分の姿が水面に映り、「神の剣とは人を斬るためではない」と悟ったとされています。この体験が、彼の「活人剣」の思想につながったといわれます。


(2) 将軍・足利義輝との対決

剣豪として名を馳せた塚原卜伝は、室町幕府13代将軍・**足利義輝(あしかが よしてる)**に剣術を指南しました。義輝は剣術に優れた将軍として知られ、後に三好家の軍勢に襲撃された際も剣を振るって奮戦しました。

卜伝は将軍との試合で刀を抜かず、「試合をせずとも、私はすでに勝っています」と語ったと言われています。これは、彼が「勝負は剣を交える前に決まっている」という心構えを持っていたことを示しています。


(3) 斬らずに勝つ「無刀の極意」

塚原卜伝は、戦いにおいて「刀を抜かずして勝つ」ことの重要性を説いていました。
ある時、旅の途中で山賊に囲まれましたが、彼は刀を抜かずに静かに立ち、相手を圧倒する気迫を見せました。結果、山賊たちは彼を恐れ、戦わずして逃げ去ったと伝えられています。


3. 塚原卜伝の影響

(1) 鹿島新当流の確立

彼の剣術は、「鹿島新当流(かしましんとうりゅう)」として確立され、後世に大きな影響を与えました。この流派は、後に「新陰流」や「北辰一刀流」など、日本の剣術の発展に繋がります。


(2) 剣豪の系譜

塚原卜伝の流れを汲む剣豪として、柳生宗矩(やぎゅう むねのり)や上泉信綱(かみいずみ のぶつな)などがいます。柳生宗矩は徳川家の剣術指南役となり、江戸時代に「柳生新陰流」として発展していきます。


4. まとめ:塚原卜伝は本当にすごい剣豪だったのか?

結論として、塚原卜伝は間違いなく「日本剣術史における最高峰の剣豪の一人」といえます。その理由は以下の点にあります。

「19戦無敗」の伝説 → 真剣勝負で負けなし
「一之太刀」の極意 → 無駄のない剣技を追求
「活人剣」の思想 → 人を生かす剣の境地
「鹿島新当流」の祖 → 日本剣術の基盤を築く
将軍・足利義輝への指南 → 剣の達人として幕府にも認められる

彼の剣は単なる戦いの技術ではなく、「剣を抜かずして勝つ」という哲学を持ち、後の剣術に大きな影響を与えました。そのため、塚原卜伝は日本史上でも最も優れた剣豪の一人であったといえるでしょう。