斎藤義龍(さいとう よしたつ、1527年~1561年)は、戦国時代の武将で、美濃国(現在の岐阜県)の戦国大名です。彼は**「美濃のマムシ」と呼ばれた斎藤道三の嫡男**として知られています。

しかし、父・斎藤道三と対立し、長良川の戦い(1556年)で討ち取るという衝撃的な事件を引き起こしました。その後、美濃の支配を確立しましたが、織田信長との戦いの中で病死し、若くして生涯を閉じました。本章では、斎藤義龍の生涯を詳しく解説します。


1. 斎藤義龍の出自と幼少期

1-1. 斎藤氏とは?

斎藤氏は、もともと美濃国守護・土岐氏の家臣であり、斎藤道三(さいとう どうさん)が土岐氏を追放し、美濃国の戦国大名となったことで台頭した家柄です。

家名出自特徴
斎藤氏美濃国の土岐氏の家臣戦国時代に道三が下克上を果たす

斎藤義龍は、道三の嫡男として1527年に生まれました。母は**深芳野(みよしの)**と伝えられています。


1-2. 生誕と「実父」問題

義龍は斎藤道三の嫡男として育てられましたが、彼の実の父親は土岐頼芸(美濃守護)だったのではないかという説があります。

この説は、義龍と道三の関係が悪化した原因の一つと考えられており、義龍自身が「私は道三の子ではない」と主張した記録もあります。

義龍は道三とは違い、体格が立派で、気性も異なるといわれた
道三は義龍を軽視し、次男・斎藤孫四郎や三男・斎藤喜平次を寵愛した
このため、義龍と道三の関係は次第に険悪になっていった

この親子関係の不和が、後の対立へとつながっていきます。


2. 父・斎藤道三との対立

2-1. 義龍と道三の不仲

斎藤道三は、義龍のことをあまり評価しておらず、次男・孫四郎や三男・喜平次を後継者にしようとしました。これに対し、義龍は不満を募らせていきました。

出来事義龍の対応
1548年斎藤道三、織田信長と同盟義龍は家臣団をまとめる
1555年道三、孫四郎と喜平次を後継者にしようとする義龍、反発を強める

義龍は、道三が自分を排除しようとしていると考え、ついにクーデターを起こします


2-2. 長良川の戦い(1556年)

1556年、義龍は家臣団をまとめ、父・道三に反旗を翻しました

戦い結果義龍の動き
長良川の戦い1556年義龍の勝利父・道三を討ち取る

(1) 義龍の戦術

美濃の有力家臣を味方につけ、道三を孤立させる
圧倒的な兵力(道三の10倍)で攻撃
道三を討ち取り、美濃の支配権を確立

この戦いにより、義龍は正式に美濃の戦国大名となりました


3. 戦国大名としての統治

3-1. 美濃国の統治

道三を討った後、義龍は美濃の国人衆(地元領主)をまとめ上げ、戦国大名としての体制を整えました

織田信長と敵対し、尾張(愛知県)への防御を強化
国内の不満分子を排除し、安定した統治を目指す
有力家臣の稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全を重用

義龍は戦国大名としての手腕を発揮し、道三の時代よりも美濃国の統治を安定させました


3-2. 織田信長との戦い

父・道三は織田信長と同盟を結んでいましたが、義龍は信長と敵対する道を選びました

出来事義龍の対応
1556年長良川の戦い道三を討ち取り、美濃を掌握
1558年織田信長と戦う桶狭間の戦い前に対立

義龍は信長と何度か戦いましたが、決定的な戦争にはなりませんでした。


4. 斎藤義龍の死

4-1. 突然の病死(1561年)

義龍は、織田信長との本格的な戦いを控えていた1561年に急死しました。享年35。

戦死ではなく、病死とされる
死因は不明だが、持病を抱えていた可能性が高い

義龍がもう少し長く生きていたら、信長との戦いはさらに激化し、美濃の歴史も変わっていたかもしれません


4-2. 跡を継いだ斎藤龍興

義龍の死後、息子の斎藤龍興(さいとう たつおき)が家督を継ぎました。しかし、龍興はまだ若く、美濃の統治に失敗します。

家臣の反乱(西美濃三人衆の裏切り)
織田信長の侵攻を受け、1567年に斎藤氏は滅亡

もし義龍が生きていれば、美濃は織田信長に滅ぼされずに済んだ可能性もあります。


5. 斎藤義龍の評価

戦国時代の戦国大名として、美濃国を統治した
父・道三を討ったが、その後の統治は比較的安定していた
信長と戦う準備をしていたが、若くして病死

斎藤義龍は、父・道三を討ったことで悪いイメージを持たれがちですが、実際には優れた戦国大名でした。もし彼がもう少し長く生きていたら、織田信長との戦いはもっと激しいものになっていたでしょう。