清水 宗治
しみず むねはる
1537-1582
享年46歳。
■通称:才太郎、長左衛門
居城:備中清水城→備中高松城
■備中清水城主となっていた宗治であっ
たが、後に備中高松城主・石川久智の娘
婿となり、高松城主となった。
備中国人衆に対抗するため、毛利氏傘
下となり、毛利氏の中国地方平定戦に
参加した。
■1582年、2万の織田軍を率いた羽柴秀
吉は、毛利方から織田方へと寝返った
宇喜多勢1万とともに高松城を包囲。
城兵5500を率いるのは、高松城主・清
水宗治であった。
このとき、宗治は山陽地方で武名を
ならし、毛利軍の中でも屈指の勇将と
して敵味方に知られていた。
有能な人物をこよなく愛する秀吉は、
名将・宗治を惜しんで、力攻めすること
なく水攻めという奇策を用いた。
降伏した折には、秀吉は宗治を自分の
直臣に取り立ててやろうと考えていた
らしい。
秀吉は付近の村人に呼びかけ、土俵(
つちだわら)を米で買い取り、例年雨季
に洪水を頻発する高松城を水浸しにし
ようと堤防を築いた。
高松城の周囲をぐるりと取り囲むので
はなく、地元の村人から情報を集め、
排水溝の役割を果たす部分だけに堤
防を築き、水が引かないように工夫
した。
これにより、雨季がほどなく到来すると
高松城はみるみるうちに水没し、天守
閣など高台部分だけが水に浮いている
ような光景と化した。
水攻めにされたものの宗治は頑固に
抵抗して、一切降伏しようとはしな
かった。
毛利軍も山陽の要所が敵に奪取され
ては戦略上不利になること考えて、早
速4万の大軍を率いて出陣。
小早川隆景、吉川元春らが指揮する毛
利軍は、高松城を遠巻きに布陣して、
織田軍の出方をうかがった。
一方、秀吉が率いる織田軍は高松城
の裏にある石井山に布陣し、織田、毛
利両軍は水没する高松城を挟む形で
にらみ合った。
長期戦を見込んだ秀吉は陣形を幾重
にも分けて、配置し、毛利軍の猛攻に
耐えられるように守備を整えた。
両軍は雨季のために土地が低湿地帯
と化した戦場に布陣しており、行軍する
ことがおぼつかなくなっていた。
このようなこう着状態が続き、秀吉も補
給路の確保など諸々の考えから主君・
信長じきじきに出張ってくれるよう援軍
要請の使者を立てた。
このまま、織田信長本隊の到着を見て
、一挙に毛利主力部隊を壊滅させる雌
雄戦を行おうと秀吉は考えていたら
しい。
■4万を超える毛利主力隊をもってしても
、これ以上の援軍は見込めないため、
もし織田信長の本隊が備中高松に到
着すると毛利軍にとっては死地と化し
てしまう不安感が陣中に漂っていた。
そのため、毛利軍陣営では密かに和議
を結ぶ方法を探っていた。
■この緊迫した状況の中、本能寺の変で
一気に打開の道が開かれたのである。
本能寺の変を知った秀吉は、すぐさま
講和の方法を探り、毛利側も講和に動
いていることを知ると、すぐさま講和の
使者を出した。
毛利側も秀吉軍からの講和の使者に
好機を得たと感じ、すぐさま講和の話
が進んだ。
秀吉と毛利側の使者・安国寺恵瓊との
間に講和が成立し、高松城兵を助命す
る代わりに、城主・清水宗治の自刃で
決着がついた。
秀吉は勇将・宗治を何とか自分の臣下
にできないかと考えていたが、好機を
得ず。
弔い合戦へと向かうべく世にいう”中国
大返し”で帰還することとなった。
1582年、6月4日の夜、船で城内を出た
宗治は、酒を飲みかわし、舞を謡った
後、自刃して果てた。
享年46歳。
毛利家にとっては、惜しい人材を失っ
たこととなる。
辞世の句
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」