かたくら かげつな
1557-1615
享年59歳。
名称:小十郎、備中、傑山常英
居城:陸奥大森城→陸奥亘理城
■米沢八幡の神主・片倉景重の子。
母は、政宗の乳母であったという。
片倉氏は、加藤判官景廉を祖とし、
その末裔が信州片倉村に住んだ
ことから片倉姓を名乗ったといわ
れる。
その後、大崎氏に従って奥州に入
り、片倉景時の代に伊達晴宗に
仕えた。これ以降、片倉家は伊達家
で重臣として活躍していくこととなる。
■景綱は、はじめ伊達輝宗の小姓として
仕え、その後、1575年に9歳になった
伊達家嫡子・政宗の近侍を務めた。
この時、疱瘡(ほうそう)の毒で右目
を失明した政宗は、その醜さを嫌い、
側近たちに突き潰せと政宗が命じた
が周囲の者は恐れて、成す者がいな
かった。が、景綱は小刀を持って、これ
を潰したという。
これ以来、政宗から絶大な信頼を得た
景綱は、政宗の重臣として活躍して
いくこととなる。
■1585年、家督をついで間もない政宗は
、奥州諸侯を一喝すべく、小手森城の
大内定綱を攻めた。
景綱もこの合戦に参軍し、小瀬川付近
で大内軍と戦っている。
■1586年、景綱は、二本松城の畠山氏攻
めで、逃げる畠山軍を追撃し、政宗よ
り二本松城の城番を命じられ、二本松
城に入った。
その後、すぐに伊達成実と城代を交代
し、景綱は信夫郡の大森城主を勤め
た。
政宗の軍略において、景綱は重要な駒
として働いていたことをうかがわせる。
■1588年、大内定綱の猪苗代侵攻に応
戦すべく守屋伊賀とともに景綱は、安
達、安積の地に遣わされ、本宮におい
て会津・須賀川の両勢力と戦い、安積
郡の窪田で佐竹・蘆名の連合軍と大激
戦を演じた。
■1589年、伊達氏の宿敵・蘆名氏と決着
をつけるべく、政宗は伊達軍の総力を
猪苗代に結集。
景綱はこの時、伊達軍の二番隊を務め
、奥州の覇者を決めるこの大決戦に臨
んだ。
激しい戦場の中で不覚にも景綱は旗を
敵方に奪われ裂かれるという不名誉を
受けた。が、そこは奥州屈指の智勇者
の景綱である。
意趣返しとして単騎、蘆名軍の陣営に
突っ込み陣螺を奪うという戦功を挙げ
、伊達軍の将兵の士気を上げている。
■会津攻略を成した伊達軍は、その後の
論功行賞で景綱に会津領の内、かな
川、三つはし、塩川、へっふ、浜崎の
五ヶ所が与えられている。
■秀吉の関東小田原征伐が開始される
と、豊臣軍20万の大軍の知らせが伊
達家に届くと景綱は、無謀な抵抗は
無益と主君・政宗を説き、政宗に秀
吉への帰参を英断させている。
■1591年、旧葛西・大崎領への移封が
決まった伊達家は、政宗が居城を岩
出山に移すと同じくして、景綱も亘理
の地に移り、亘理城主となっている。
移転地での領土開拓に主君・政宗と
ともに景綱は大いに尽力し、伊達家
繁栄の基盤を作った。
■文禄の役では、朝鮮半島へ渡り、数
々の軍功を立てた景綱に対して、秀
吉は大いにその智勇を感嘆し、軍船
・小鷹丸を与えるなど格別な褒賞を
授けた。
景綱のようなすぐれた名将をほしが
った秀吉は、景綱に恩義を与えるべ
く、奥州三春の地5万石を授けようと
したが、主君・政宗への忠義を重んじ
た景綱はこれを固辞している。
■1602年、会津攻めなどこれまでの軍
功を高く評価された景綱は、主君・
政宗より南部国境の要衝・刈田郡
の地を賜り、白石城主として1万30
00石の大名格となった。
■徳川家康の天下となると、家康もま
た、景綱の才覚に惚れ込み、江戸
に邸を与えようとしたがこの時も、
景綱は固く辞退している。
■政宗のすぐれた腹心として活躍し、
数々の戦いでその智勇を発揮した
景綱は、秀吉・家康という天下人か
らその才覚を愛された奥州一の忠
義者であった。
奥州屈指の名将として、伊達家を
磐石たらしめた景綱は、1615年、
没した。
享年59歳。
景綱が没した時、景綱の側近6人
も殉死するなど部下からも絶大な
人徳を得ていた。
片倉 景綱
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