おがさわら ながむね

1492-1542 享年51歳。

別名:豊松丸、又二郎、民部

官位:従四位下、信濃守、大膳大夫、修理大夫

信濃国にある林城を本拠とする府中小笠原家にして、信濃守護である小笠原貞朝の次男として生まれる。

母は海野幸高の娘。

兄・長高は高天神小笠原家を開いた。

1504年永正元年11月に元服を果たす。

1512年永正9年、父より小笠原流弓馬礼法の師範を継承する。

1515年永正12年、父・貞朝が没したことで家督を継ぐ。

1528年享禄元年、将軍・足利義晴の命を受け、上洛を果たす。

智勇に優れた人物であったとされる。

1533年天文2年7月、高遠頼継、知久氏の軍勢を伊那谷にて打ち破る。

1534年天文3年、対立する伊那(松尾)小笠原氏の当主・小笠原貞忠を打ち破り、これを甲斐国へ追放処分とした。これにより分裂した小笠原氏の統一に成功する。

さらに次男の信定を鈴岡城に入城させ、鈴岡小笠原氏を開かせ、さらにそののちには、松尾小笠原氏を継がせ、小笠原氏一族の統一を盤石のものとした。

1539年天文8年には、敵対していた諏訪頼重と和睦を図り、戦国時代における小笠原氏は最盛期を迎える。

長棟には、久しく実子に恵まれなかったため、弟の長利を養子に迎えていた。しかし、その後、長男・長時が誕生したため、養子の長利とやがて不和となる。

長利は身の危険を感じ、小笠原家を離れ、 安曇郡に移り、小笠原家とは他律関係にあった村上氏の配下であった香坂氏を頼る。さらに小笠原姓を改め、大日方(おおひなた)氏を称した。

長棟は、1541年天文10年、隠居して出家した。嫡男の長時に家督を譲る。

翌年、1542年天文11年、長棟は病没した。

その後、長時は、武田晴信の侵攻を受け、攻防の末、1550年武田に敗れ領国を捨て、敗走した。

参考:Wikipedia 小笠原 長棟