■赤松氏
赤松氏は、村上源氏の一党で、鎌倉幕府初期のころから、播磨国佐用郡の地頭をやっていた。
鎌倉期には、宇野氏を名乗っていたが、その末裔は、赤松氏を名乗った。
南北朝時代になると、、赤松則村(円心)が活躍し、播磨国、備前国、美作国の守護を兼ねた。
6代将軍・足利義教の頃の赤松当主・満祐は「三尺入道」などと容姿を面白おかしく揶揄されていた。くじ引き将軍などと呼ばれた義教は、将軍の権威を存分に活かそうと、有力大名を片っ端から排除する凶行を重ねていた。
義教は、お気に入りだった赤松貞村に播磨国、美作国を与えるという噂が立った。
満祐は動揺し、先手必勝とばかりに謀略を巡らす。
満祐は、西洞院二条にあった自邸に将軍・義教以下、諸大名を招待した。
「鴨の子が池を泳ぐ姿いと可愛らしいゆえに一度、ご覧頂きたい」と申し出て、義教らを油断させ、難なく将軍の謀殺に成功する。
幕府は大混乱となるのを尻目に満祐は、播磨へ帰国し、足利直冬(ただふゆ)(足利尊氏の猶子で直義の養子となる)の孫・足利義尊(よしたか)を担ぎ出し、全国に檄を飛ばした。
しかし、この反乱に呼応する者はなく、幕府の追討軍が播磨に迫った。
1441年、嘉吉の乱は、細川持常と山名持豊(宗全)ら幕府軍が、赤松氏を攻め立て、赤松満祐が、居城・城山城(きのやまじょう)で滅亡した。
その後、、播磨は山名氏が統治したが、山名氏に敵対する細川勝元が勢力抑制のため、赤松氏の復興を後押しした。赤松氏復興の大義名分が立ったのは、南朝の宮中から神璽の奪還を成したことである。嘉吉の乱で取り潰された赤松氏の家臣たちが吉野の山奥にあった南朝に臣従すると偽り、小倉宮の孫・自天王、忠義王お兄弟に取り入り、彼らを謀殺。神璽の奪還に成功する。(1458年、長禄の変)
長禄の変で、神璽を奪還した功績により、赤松氏は、播磨、備前、美作の旧領を回復した。
赤松政則は置塩城(おきしおじょう)を本拠とし、応仁の乱の際には、東軍に属して活躍した。
赤松一族の赤松義村が赤松本家を継いだが、実質的主導権は、細川勝元の娘で赤松政則の妻で尼僧となっていた洞松院(どうしょういん)が国政を差配した。
赤松義村は、備前守護代の浦上氏との抗争に敗れて惨殺された。
これにより、赤松氏は守護としての権勢を失い、一族の小寺氏や別所氏ら小勢力と同列になってしまった。播磨諸侯は、毛利氏と織田氏の勢力の間で、どちらかに誼を通じて、戦乱の生き延びをかけた。
赤松氏は、赤松義祐が播磨入りした羽柴秀吉の庇護のもと、置塩城1万石を維持した。
名学者・藤原惺窩を世に輩出した一族の赤松広通(斎村氏)は、但馬国竹田城を戴いたが、両家とも関ケ原合戦で西軍に属して、戦後に自害した。
赤松一族で出世頭となったのが、有馬氏で摂津国有馬郡にあって、久留米21万石の大名となった。