
戦国時代において、合戦で敵の大将を討ち取った場合、その後の処理は状況や戦の目的、討ち取られた大将の地位によって異なりました。ここでは、具体的な実例を交えながら、討ち取られた大将の首の扱いや戦後処理について詳しく解説します。
1. 敵将の首級の扱い

戦国時代の合戦では、敵の大将を討ち取った場合、その首(首級)を持ち帰ることが重要でした。これは戦功を証明するためであり、討ち取った武将が主君から恩賞を受けるための証拠でもありました。以下のような手順が一般的でした。
(1) 首実検
討ち取った大将の首は、戦場で一度簡単に確認された後、主君のもとへ運ばれ、正式な「首実検(くびじっけん)」が行われました。首実検では、以下の点が確認されました。
- 本当に敵の大将かどうか
- 討ち取った武将の功績
- 敵方の身分や家柄
- 敵の家紋や装備品
首実検は、主君が直接行うこともありましたし、重臣が代理で行うこともありました。
(2) 首級の処理
首実検の後、討ち取られた大将の首は、さまざまな方法で処理されました。
- 晒し首(さらしくび)
- 城下や街道沿いに首を晒すことで、敵方や民衆に対する威圧・見せしめの意味を持ちました。
- 例:織田信長が浅井久政・浅井長政親子の首を京の三条河原に晒した。
- 塩漬けにして送る
- 敵方に対して首を送り、和議を迫ることがありました。
- 例:長篠の戦い(1575年)で武田勝頼の家臣たちの首を織田信長が塩漬けにして武田方へ送った。
- 供養・弔い
- 討ち取った敵将が高名な武将であった場合、供養を行うこともありました。
- 例:関ヶ原の戦い(1600年)で討ち取られた石田三成の首は、京都・六条河原で晒された後、家臣や僧侶によって供養された。
2. 具体的な戦例
(1) 長篠の戦い(1575年)
織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼の戦い。武田軍の主力が壊滅し、多くの武将が討ち取られた。
- 討ち取られた主な武将:
- 山県昌景
- 内藤昌豊
- 馬場信春
- 真田昌輝
- 首級の処理:
- 討ち取られた武田方の武将の首は戦場で確認された後、塩漬けにされて武田勝頼のもとへ送られた。
- これは「戦の終結を示す」とともに、「敵を威圧する」ための行動だった。
(2) 賤ヶ岳の戦い(1583年)
羽柴秀吉と柴田勝家の戦い。柴田軍の名将・佐久間盛政が討ち取られる。
- 首級の処理:
- 佐久間盛政は捕らえられ、秀吉のもとへ送られた。
- 秀吉は彼を処刑し、盛政の首を柴田勝家の居城である北ノ庄城に送りつけた。
- これにより柴田勝家の士気は大きく下がり、北ノ庄城は落城した。
(3) 本能寺の変(1582年)
明智光秀が織田信長を討った事件。
- 信長の首級:
- 本能寺に火が放たれたため、信長の首は発見されなかったとされる。
- しかし、明智光秀が密かに持ち去った可能性もあると考えられている。
- その後の処理:
- 明智光秀は、信長の首を晒すことなく戦況が悪化。
- 山崎の戦いで秀吉に敗れた後、彼自身も逃亡中に討たれ、その首は京都で晒された。
3. 討ち取った武将への恩賞

敵の大将を討ち取った武将には、多くの恩賞が与えられました。
- 知行(領地)の加増
- 感状(戦功を称える書状)の授与
- 褒美(刀、鎧、馬など)
例:
- 島左近は関ヶ原の戦いで活躍したが、大将である石田三成が敗れたため恩賞を受けることはなかった。
- 可児才蔵は賤ヶ岳の戦いで活躍し、「首を十ほど取った」として羽柴秀吉から褒美を受けた。

4. 結論
戦国時代において、敵の大将を討ち取った後の処理は、単なる勝利の証明だけではなく、敵への威圧や戦後処理の交渉材料としても重要な意味を持っていました。首級の扱いには、敵将の身分や戦の状況によってさまざまな違いがありましたが、共通していたのは「首実検を行い、恩賞や報復のために利用する」という点でした。
また、討ち取られた大将の首をどのように扱うかが、その後の戦局や敵の士気に大きく影響を与えることもありました。特に、長篠の戦いや賤ヶ岳の戦いのように、大量の敵将の首級を処理する場合は、見せしめとして晒したり、敵方に送りつけたりすることが一般的でした。
このように、戦国時代の戦いでは、単に敵を討つだけでなく、その後の処理が戦略的に重要だったのです。









