wikipediaより参照:北条氏政 図像 (小田原城所蔵)

北条氏政(ほうじょう うじまさ、1538年~1590年)は、戦国時代の関東地方を支配した後北条氏の第4代当主です。

  • 父は名将・北条氏康(第3代当主)
  • 関東最大の領土を築いたが、豊臣秀吉に敗れて滅亡

彼は戦国大名として有能な面もありながら、最終的に「時勢を読めなかった凡将」と評価されることが多い人物です。
果たして彼は本当に「凡将」だったのか?それとも、豊臣秀吉という時代の波に飲み込まれた「悲劇の大名」だったのか?

本稿では、北条氏政の生涯・戦歴・政治・性格・評価を詳しく解説します。


1. 北条氏政の基本情報

項目内容
生誕1538年(天文7年)
父親北条氏康(後北条氏第3代当主)
母親瑞渓院(今川氏の姫)
役職後北条氏第4代当主
領地相模・武蔵・上野・下野・上総・安房・常陸の一部(最大版図)
主な戦歴三増峠の戦い(1569年)、第二次国府台合戦(1574年)、小田原征伐(1590年)
評価領土拡大に成功するも、政治・外交判断ミスで滅亡
最期1590年(天正18年)、小田原城開城後に切腹(享年53歳)

北条氏政の経歴まとめ(年表)

出来事
1538年北条氏康の嫡男として生まれる
1559年(21歳)父・北条氏康から家督を譲られ、第4代当主となる(実権は氏康が握る)
1569年(31歳)三増峠の戦いで武田信玄と戦う(小田原城を守り抜く)
1571年(33歳)父・氏康が死去し、正式に後北条氏の当主となる
1574年(36歳)第二次国府台合戦で千葉氏・里見氏を破り、下総・上総を制圧
1578年(40歳)上杉謙信の死(御館の乱)に乗じ、北関東(上野・下野)へ進出
1582年(44歳)織田信長が本能寺の変で死亡(織田との外交機会を失う)
1585年(47歳)豊臣秀吉が関白となるが、北条氏は従属せず独立を維持
1589年(51歳)沼田領問題(名胡桃城事件)で上杉景勝と対立し、豊臣政権と敵対
1590年(52歳)豊臣秀吉が小田原征伐を開始(20万の大軍に包囲され、120日間籠城)
1590年8月小田原城開城、北条氏政は弟・氏照とともに切腹(享年53歳)

北条氏政は、関東の覇者として成功するも、最終的に豊臣秀吉の天下統一の波に飲み込まれた戦国大名でした。

wikipediaより参照:北条氏政 図像(早雲寺蔵、土佐光起筆)1670年頃の作

2. 父・北条氏康の後継者としての氏政

▶ 幼少期と家督相続

北条氏政は、名将・北条氏康の嫡男として生まれました。

1559年(21歳)に父・氏康から家督を譲られ、後北条氏の第4代当主となります。
とはいえ、実際の統治は父・氏康が続けており、氏政が本格的に政務を執るのは氏康が死去する1571年以降でした。


3. 北条氏政の戦歴:領土拡大に成功するも…

▶ 武田信玄との戦い(1569年・三増峠の戦い)

1569年、武田信玄が北条領(相模)へ侵攻し、三増峠の戦いが勃発。

  • 氏政は北条軍を率いて信玄と対峙
  • 野戦では敗北するも、小田原城の防衛に成功
  • その後、北条・武田間で和睦が成立

この戦いで氏政の戦略的判断は悪くなかったものの、武田信玄の軍事力には敵わず、積極的な反攻はできなかった


▶ 関東制覇へ(1570年代)

1571年に父・氏康が死去し、氏政は後北条氏の実質的な支配者となる。

  • 1574年、第二次国府台合戦で千葉氏・里見氏に勝利し、下総・上総を制圧
  • 1578年、上杉謙信が死去(御館の乱勃発) → その混乱に乗じて上野・下野を掌握
  • 関東全域をほぼ支配し、後北条氏の最大版図を実現

この時点では、氏政は決して無能ではなく、領土拡大に成功していた。


4. 北条氏政の外交的失策と豊臣秀吉との対決

▶ 織田信長との関係構築に失敗

  • 1570年代後半、織田信長が勢力を拡大すると、北条氏は織田と距離を置く方針を取る
  • 1582年の本能寺の変で信長が死去するまで、北条氏政は織田家との同盟を結ばず孤立

これは大きなミスであり、結果的に北条氏が豊臣政権と対立する道を作ることになった。


▶ 豊臣秀吉の天下統一と北条氏政の決断

1585年、豊臣秀吉が関白となり、日本統一を進める。

  • 1589年、秀吉は全国の大名に「惣無事令(全国停戦命令)」を発布
  • しかし、氏政はこの命令を無視し、同年、上杉景勝の領地・沼田を奪取(名胡桃城事件)
  • これが口実となり、秀吉は北条討伐を決定

ここで氏政が秀吉と従属していれば、後北条氏は存続できた可能性が高い。
しかし、氏政は独立の道を選び、これが**「北条家滅亡の決定的要因」**となる。


5. 小田原征伐(1590年)と北条氏政の最期

▶ 1590年、小田原征伐開始

秀吉は20万の大軍を率いて関東へ侵攻。

  • 北条軍は約8万の兵力で抗戦するも、小田原城に籠城
  • 豊臣軍は周囲の城を次々と攻略し、北条方の城が落ちていく
  • 120日間の籠城戦の末、氏政はついに降伏

▶ 切腹と北条氏の滅亡

1590年8月1日、北条氏政は弟・北条氏照とともに切腹し、享年53歳。

  • 後北条氏はここに滅亡
  • ただし、氏政の子・北条氏直は助命され、高野山に追放

6. 北条氏政の評価:凡将か、悲運の武将か?

✅ 氏政の功績

関東最大の領土を築き、北条家の全盛期を実現
上杉謙信や武田信玄の死後、関東の覇権を確立
戦国大名としての軍事・内政能力は決して低くなかった

❌ 氏政の失敗

惣無事令を無視し、秀吉に従わなかったのが致命的
織田信長との外交関係を築けず、孤立した
籠城戦を選び、戦略的に不利な選択をした

🔵 結論:氏政は「時勢を読めなかった名将」

  • 武田・上杉が滅びた後、関東の覇者として成功
  • しかし、豊臣政権の力を過小評価し、外交的に大失敗
  • 戦国時代なら「名将」、しかし秀吉の時代には「凡将」だった

もし氏政が秀吉に早く降伏していれば、北条氏は徳川幕府のもとで生き残れた可能性がある。
彼は「時代の流れを読めずに滅びた戦国大名」だったと言えるだろう。