1. 三増峠の戦いとは?

三増峠(みませとうげ)の戦いは、永禄12年(1569年)に相模国(現在の神奈川県)の三増峠で行われた戦いです。
この戦いは、武田信玄が駿河国を攻略し、その勢いで北条氏の本拠・小田原城を攻撃した後の撤退戦として起こりました。
武田軍は撤退中に北条軍の襲撃を受けたものの、戦術的に優れた対応を見せ、北条軍を撃退しました。


2. 戦いの背景

2.1 甲相駿三国同盟の崩壊

元々、武田氏・北条氏・今川氏は甲相駿三国同盟を結んでいましたが、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことで情勢が大きく変わりました。
今川氏が弱体化すると、武田信玄は駿河国(静岡県)への侵攻を開始しました。

出来事
1560年桶狭間の戦い(今川義元討死)
1568年武田信玄が駿河侵攻、今川氏は滅亡寸前
1569年武田信玄、小田原城を攻撃(三増峠の戦いの前哨戦)

武田信玄の駿河侵攻により、北条氏康は「駿河の支配権を失う」と危機感を抱きました。
これにより、甲相駿三国同盟は崩壊し、武田氏と北条氏は敵対することになりました。

2.2 武田信玄の小田原城攻撃

永禄12年(1569年)10月、武田信玄は2万の大軍を率いて、北条氏の本拠地である小田原城を包囲攻撃しました。
しかし、小田原城は堅牢な防御構造を持ち、攻撃は失敗に終わります。

武田信玄は小田原攻略を断念し、軍を撤退させました。
しかし、撤退する途中で北条氏康が迎撃部隊を派遣し、三増峠での戦いが発生しました。


3. 三増峠の戦いの経過

3.1 両軍の戦力

陣営指揮官兵力特徴
武田軍武田信玄・山県昌景・高坂昌信約2万退却戦を強みとする戦術
北条軍北条氏照・北条氏邦約2万防衛戦に強く、待ち伏せを狙う

3.2 戦闘の流れ

① 北条軍の待ち伏せ

北条氏康は、小田原城を退却する武田軍を迎撃するため、北条氏照・北条氏邦に命じ、三増峠で待ち伏せ作戦を実行しました。
三増峠は山間部で道が狭く、奇襲戦に適した地形でした。

北条軍は伏兵を配置し、狭い峠道で武田軍を挟撃する作戦を立てました。

② 武田軍の迎撃戦術

武田信玄はこの北条軍の待ち伏せを察知し、以下のような戦術を採用しました。

  1. 先陣の山県昌景が敵を正面から攻撃
  2. 高坂昌信が側面から北条軍を包囲
  3. 主力の武田本隊が北条軍を中央突破

この作戦により、北条軍の伏兵は逆に包囲され、大混乱に陥りました。

③ 武田軍の勝利

戦闘は激しい白兵戦となりましたが、武田軍の戦術的な機動力が北条軍を上回りました。
結果的に、北条軍は5000人以上の戦死者を出して敗走しました。

武田信玄は、北条軍を撃退した後、秩父方面を経由して本国へと無事帰還しました。


4. 三増峠の戦いの影響

4.1 武田信玄の評価向上

この戦いは、武田信玄の戦略的撤退能力の高さを証明しました。
また、北条軍を撃破したことで、武田軍の士気は大いに高まりました。

4.2 北条氏の威信低下

北条氏康は、主力部隊をもってしても武田軍を止めることができず、結果的に北条氏の威信は低下しました。

4.3 甲相同盟(武田・北条の和解)

戦いの結果、北条氏は武田氏と和解する道を探るようになりました。
最終的に、1571年に武田勝頼と北条氏政の間で婚姻を結び、再び甲相同盟が成立しました。


5. 三増峠の戦いの歴史的意義

ポイント影響
武田軍の強さが証明された武田信玄の戦術能力が示された
北条氏の軍事的衰退小田原防衛には成功したが、戦闘には敗北
甲相同盟の再締結一度敵対したが、後に再び同盟を結ぶ

6. まとめ

三増峠の戦いは、武田信玄の撤退戦術の成功例として知られ、戦国時代の戦略の重要性を示す戦いの一つです。

  • 戦闘では武田軍が勝利したものの、小田原城の攻略は失敗。
  • 北条軍は敗北したが、小田原城を守り切ることには成功。
  • 最終的に甲相同盟が復活し、北条氏と武田氏の関係は改善されることとなった。

この戦いは、戦国時代の大名間の外交と戦略の駆け引きを象徴する重要な出来事の一つです。