目次

1. 六角義賢の生い立ちと家系

六角義賢(ろっかく よしかた、1521年~1598年)は、戦国時代の近江国(現在の滋賀県)の戦国大名であり、室町幕府の守護大名・六角家の当主でした。
彼は父・六角定頼の跡を継ぎ、戦国大名として近江国を統治しましたが、織田信長の台頭によって滅亡へと追い込まれた武将です。
本章では、六角義賢の生い立ち、家族関係、幼少期の教育、そして六角家の歴史的背景について詳しく解説します。


1-1. 六角家とは?

1-1-1. 近江守護としての六角家

六角家は、近江源氏(佐々木氏)の名門であり、室町幕府の時代には近江国の守護大名として権勢を誇っていました。
室町時代の六角家は、幕府の有力な守護大名として活躍しましたが、戦国時代に入ると国人領主(地元の武士)との争いが激化し、戦国大名化を余儀なくされました。

項目内容
家名六角氏(近江守護大名)
本拠地近江国(現在の滋賀県)
祖先佐々木氏(源氏の名門)
家風室町幕府の守護大名としての伝統を重視
特徴近江国の支配を巡り、国人衆(地元武士団)と対立

六角家の勢力は、近江国内の国人領主との抗争によって不安定でしたが、戦国時代初期には父・六角定頼の時代に最盛期を迎えました。


1-1-2. 六角定頼と六角家の最盛期

六角義賢の父である六角定頼(ろっかく さだより)は、六角家を戦国大名として強化し、畿内(京都周辺)にも影響を与えるほどの勢力を築きました。
定頼は、幕府の将軍と連携しながら、近江国の支配を強化し、織田信秀(織田信長の父)や三好長慶とも戦いました。

項目内容
六角定頼の統治近江国を守護大名として統治
影響力幕府の将軍と連携し、畿内に影響を与える
軍事政策国人領主を制圧し、戦国大名化を進める

定頼の時代、六角家は最も安定しており、近江国内の統治も比較的安定していました。
義賢は、その父のもとで育ち、戦国大名としての教育を受けました。


1-2. 六角義賢の誕生と幼少期

1-2-1. 幼少期の生活

六角義賢は、1521年に六角定頼の長男として誕生しました。
幼名は**弥三郎(やさぶろう)**と呼ばれ、父・定頼のもとで武将としての教育を受けました。

項目内容
生年1521年
幼名弥三郎(やさぶろう)
六角定頼
学んだこと武芸、戦略、統治術、外交

義賢の幼少期は、父・定頼の時代に六角家が最盛期を迎えていたため、比較的安定した環境で育ちました。
また、義賢は文武両道の教育を受け、特に政治的な駆け引きや戦略を学びました。


1-2-2. 幕府との関係

六角家は、室町幕府の守護大名として足利将軍家と深い関係を持っていました。
そのため、義賢も将軍家と交流を持ち、畿内の政治情勢にも関心を寄せるようになりました。

項目内容
将軍家との関係室町幕府の守護大名として協力関係を持つ
政治的影響畿内(京都周辺)の勢力争いに関与

しかし、戦国時代が進むにつれ、幕府の権威が低下し、六角家も戦国大名として独自の道を歩むことになりました。


1-3. 六角義賢の家督相続

1-3-1. 家督相続の背景

1549年、義賢は父・六角定頼の死により、六角家の家督を継ぎました。
このとき、六角家は近江国の戦国大名として確固たる地位を築いていましたが、国人領主との対立が続いており、統治は決して安定していませんでした。

項目内容
家督相続1549年、六角家当主となる
拠点観音寺城(近江国)
統治の課題国人領主との対立、幕府の権威低下

義賢は、父の遺志を継ぎ、近江国の統治を強化しようとしましたが、戦国時代の荒波の中で多くの困難に直面しました。


1-3-2. 六角義賢の統治の課題

義賢が当主になった時点で、六角家は表向きは強大な勢力を持っていましたが、実際には多くの問題を抱えていました。
特に、近江国内の国人領主たちとの対立が深刻であり、家臣団の内部抗争も激化していました。

課題内容
国人衆との対立地元武士たちが六角家の支配に反発
幕府の影響力低下室町幕府が弱体化し、六角家の権威も低下
家臣団の分裂「観音寺騒動」など、家臣の反乱が相次ぐ

義賢は、こうした課題に直面しながら、戦国大名としての地位を守ろうと奮闘しました。


1-4. まとめ

六角義賢は、近江国の戦国大名・六角定頼の長男として生まれ、幼少期から武将としての教育を受けました。
1549年に家督を継ぎましたが、近江国内の国人領主との対立や、幕府の衰退による権威の低下、家臣団の分裂など、多くの問題に直面しました。

項目内容
生年1521年
六角定頼
家督相続1549年(28歳)
統治の課題国人衆との対立、幕府の衰退、家臣団の分裂

次の章では、六角義賢の統治と軍事活動について詳しく解説します。

2. 六角義賢の統治と軍事活動

六角義賢(ろっかく よしかた、1521年~1598年)は、戦国時代の近江国(現在の滋賀県)を治めた戦国大名であり、六角家の当主でした。
彼は1549年に父・六角定頼の後を継ぎ、近江国の統治を進めましたが、戦国の世の荒波に飲まれ、家臣団の内紛や織田信長との戦いに翻弄されました。
本章では、六角義賢の政治・軍事活動、家臣団との対立、外交戦略、そして統治の成果と失敗について詳しく解説します。


2-1. 近江国の統治と課題

2-1-1. 家督相続と統治体制

1549年、六角義賢は父・六角定頼の死により、六角家の当主となりました。
父・定頼は戦国大名として六角家の基盤を築き、幕府や他国の戦国大名とも渡り合う名将でした。
しかし、義賢が家督を継いだ時点で、近江国内は不安定な状態にありました。

項目内容
家督相続1549年(28歳)に当主となる
拠点観音寺城(近江国)
統治の特徴父の政策を継承し、戦国大名として領国支配を強化
課題国内の国人(地元武士)との対立、幕府の権威低下

義賢は、父の遺志を継ぎながらも、近江国内の統治に苦しむことになります。


2-1-2. 近江国内の課題

六角義賢の統治時代、近江国内には3つの大きな課題がありました。

課題内容
①国人衆との対立近江国内の地元武士(国人)が六角家の支配に反発し、独立の動きを見せる
②幕府の権威低下室町幕府の影響力が低下し、六角家の支配体制が揺らぐ
③家臣団の内紛家臣たちの権力争いが激化し、六角家内部で反乱が発生

特に、国人衆(地元武士)の反発と家臣団の分裂は、義賢の統治に大きな影響を与えました。


2-2. 観音寺騒動と家臣団の分裂

2-2-1. 「観音寺騒動」とは?

1558年、六角家の内部で深刻な家臣団の対立が発生し、「観音寺騒動」と呼ばれる大事件が起こりました。
この騒動は、義賢の側近と、家臣団の有力者たちが対立し、内紛が勃発した事件です。

項目内容
発生年1558年
騒動の原因義賢の側近と家臣団の有力者が対立
主要な反乱勢力六角家の重臣・後藤賢豊(ごとう かたとよ)ら
結果義賢が反乱を鎮圧するも、家中の結束が崩れる

この騒動によって、六角家の家臣団の団結が崩れ、義賢の統治力が低下する結果となりました。


2-2-2. 反乱の影響

「観音寺騒動」の影響で、六角家は以下のような深刻な問題を抱えることになりました。

影響内容
①家臣団の結束崩壊家臣たちの不信感が増し、六角家の統治が不安定になる
②近江国内の混乱国人衆が六角家の弱体化を見て反乱を起こす
③織田信長への影響近江が不安定になり、後に織田信長が侵攻するきっかけとなる

この騒動により、六角義賢は家臣団の支持を完全には取り戻せず、後の織田信長との戦いに影響を与えることになります。


2-3. 六角義賢の軍事活動

2-3-1. 近江国防衛と戦略

六角義賢は、戦国大名として近江国を守るため、様々な軍事戦略を実施しました。

戦略内容
城郭の整備観音寺城を中心に、各地に防衛拠点を築く
国人衆の制圧反抗する地元武士を討伐し、領国支配を強化
周辺勢力との同盟畿内の戦国大名と同盟を結び、織田信長に対抗

しかし、これらの戦略も、家臣団の内紛や信長の台頭によって十分な成果を上げることができませんでした。


2-3-2. 織田信長との戦い

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて京都へ上洛しました。
この際、義賢は信長に従わず、近江国で対抗しました。

項目内容
織田信長の上洛1568年
六角義賢の対応信長に敵対し、近江国で抵抗
拠点観音寺城

しかし、織田信長の軍勢は強大で、義賢は観音寺城を捨てて逃亡しました。
この敗北により、六角家は戦国大名としての地位を失い、義賢は流浪の身となりました。


2-4. 六角義賢の統治の評価

2-4-1. 統治の成果

義賢の統治の中で、一定の成果もありました。

項目内容
城郭整備観音寺城を中心に、防御力を強化
経済政策近江国内の商業発展を促進
幕府との関係維持足利義昭を支持し、室町幕府の影響力を維持しようとした

しかし、家臣団の分裂や国人衆との対立が続いたことで、六角家の統治は次第に困難になりました。


2-4-2. 統治の失敗

義賢の統治の失敗要因として、以下の点が挙げられます。

失敗要因内容
家臣団の分裂「観音寺騒動」により、家臣団の結束が崩れる
国人衆の反乱近江国内の武士たちが独立の動きを見せる
織田信長への敗北1568年、信長に敗れ、六角家が滅亡

義賢は、戦国の流れに適応できず、最終的に信長に敗れて歴史から消えることになりました。


2-5. まとめ

六角義賢は、近江国の戦国大名として領国支配を強化しようとしましたが、家臣団の分裂や織田信長の台頭によって滅亡の道をたどりました。

次の章では、六角義賢と織田信長との対立、そして六角家の滅亡について詳しく解説します。

3. 六角義賢と織田信長の対立、六角家の滅亡

六角義賢(ろっかく よしかた、1521年~1598年)は、戦国時代の近江国(現在の滋賀県)を治めた戦国大名であり、室町幕府の守護大名としての権威を保持しつつ、戦国大名として領国支配を強化しました。
しかし、織田信長が台頭する中で彼と対立し、戦国の流れに適応できなかった六角家は滅亡してしまいます。

本章では、六角義賢と織田信長の対立の経緯、信長の上洛戦、観音寺城の戦い、六角家の滅亡とその後について詳しく解説します。


3-1. 織田信長の台頭と六角家の立場

3-1-1. 織田信長の勢力拡大

1560年、織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を破り、東海地方で勢力を拡大しました。
その後、信長は美濃国(現在の岐阜県)を平定し、次なる目標として**京都への上洛(じょうらく、将軍を奉じて京へ進軍すること)**を計画しました。

項目内容
1560年桶狭間の戦いで今川義元を破る
1567年美濃国を平定し、「岐阜」と改称
1568年足利義昭を奉じて上洛を開始

織田信長は、室町幕府の将軍候補である**足利義昭(あしかが よしあき)**を擁立し、幕府の権威を利用して京都への進軍を正当化しました。


3-1-2. 六角義賢の対応

六角家は、近江国の支配を強める一方で、畿内(京都周辺)に影響力を持つ戦国大名として政治的な駆け引きを続けていました。
義賢は、織田信長が足利義昭を奉じて上洛しようとする動きを察知し、信長の勢力拡大を脅威と考えました。

項目内容
六角家の立場室町幕府の守護大名としての立場を維持しようとする
織田信長の動向足利義昭を奉じて京都へ進軍
六角義賢の対応信長に従わず、対抗姿勢を示す

義賢は、近江国が信長の通り道になることを恐れ、信長軍を迎え撃つ準備を開始しました。


3-2. 織田信長の上洛戦と六角家の抵抗

3-2-1. 信長の上洛戦

1568年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始しました。
信長軍は、六角家が支配する近江国を通過しなければならなかったため、六角義賢は信長の進軍を阻止しようとしました。

項目内容
発生年1568年
戦いの目的信長が足利義昭を奉じて京都へ進軍
六角家の対応近江国で信長軍の進軍を阻止しようとする
主要な戦場観音寺城(六角家の本拠地)

しかし、信長の軍勢は強大であり、六角家は劣勢に立たされました。


3-2-2. 観音寺城の戦い

六角義賢は、近江国の観音寺城(かんのんじじょう)に籠城し、織田信長の軍勢と戦いました。
しかし、織田軍の圧倒的な軍勢と速攻戦術の前に、六角軍は崩れました。

項目内容
戦いの名称観音寺城の戦い
発生年1568年
戦いの結果信長の勝利、六角家の敗北
六角義賢の行動観音寺城を捨てて逃亡

六角義賢とその子・六角義治(よしはる)は、観音寺城を捨てて逃亡し、事実上、六角家の戦国大名としての地位は失われました。


3-3. 六角家の滅亡と義賢のその後

3-3-1. 六角家の抵抗

観音寺城を失った後も、六角義賢と義治は山間部に逃れ、ゲリラ戦を展開しました。
しかし、信長の勢力拡大の前に、六角家は次第に影響力を失っていきました。

項目内容
六角家の状況戦国大名としての立場を失う
義賢の行動山間部に逃れ、信長に抵抗
抵抗戦の結果織田軍の圧倒的な軍勢の前に衰退

最終的に、六角義賢の抵抗も限界を迎え、彼は戦国大名としての活動を終えました。


3-3-2. 義賢の晩年

義賢は、近江国を追われた後も信長に対する抵抗を続けましたが、戦国時代の変化に適応できず、歴史の表舞台から姿を消しました。
豊臣秀吉の時代には、六角氏は奉公衆(武士団の一部)として再編されましたが、戦国大名としての六角家は完全に消滅しました。

項目内容
晩年の活動近江国での再起を図るが失敗
死没1598年(77歳)
六角家の運命近江の戦国大名としては滅亡

3-4. まとめ

六角義賢は、近江国の戦国大名として領国支配を強化しましたが、織田信長の台頭に適応できず、結果的に六角家は滅亡しました。
彼の政治や軍事活動には一定の成果がありましたが、家臣団の内紛や統治の不安定さが六角家の衰退を加速させました。

項目内容
織田信長との対立信長の上洛を阻止しようとするが失敗
観音寺城の戦い1568年、信長に敗北し、六角家滅亡
義賢の晩年近江国で抵抗を続けるが、影響力を失う
六角家の結末戦国大名としては消滅し、幕臣として存続

六角義賢は、戦国大名としての適応力を欠き、織田信長という「新時代の武将」に敗れた旧勢力の象徴とも言える存在となりました。

次の章では、六角義賢の評価と後世への影響について詳しく解説します。

4. 六角義賢の評価と後世への影響

六角義賢(ろっかく よしかた、1521年~1598年)は、戦国時代の近江国(現在の滋賀県)の戦国大名であり、室町幕府の守護大名としての権威を維持しつつ、戦国大名としての生き残りを図りました。
しかし、織田信長の台頭とともにその地位を失い、戦国の流れに適応できずに没落しました。

本章では、六角義賢の評価、彼の統治と軍事活動に対する歴史的評価、後世の武将や幕府への影響、そして創作作品での扱いについて詳しく解説します。


4-1. 六角義賢の評価

4-1-1. 統治者としての評価

六角義賢は、近江国の戦国大名として、父・六角定頼が築いた六角家の勢力を維持しようとしましたが、十分な成果を上げることはできませんでした。
特に、国内の国人領主(地元武士)との対立、家臣団の内紛、そして織田信長の侵攻に対応できなかった点が、彼の統治の限界を示しています。

評価項目内容
統治の成功観音寺城を拠点とした支配体制を維持
統治の失敗国人衆との対立、家臣団の分裂、信長の侵攻への対応の遅れ
総合評価統治者としての能力は平均的だが、戦国の流れに適応できなかった

義賢は、戦国時代の変化に対応する柔軟性を欠いており、結果的に**「旧体制の守護大名の限界を示した武将」と評価されることが多い**です。


4-1-2. 軍事指揮官としての評価

義賢は、六角家の軍事力を維持しようとしましたが、織田信長の革新的な戦術には対抗できませんでした。
彼の戦術は、守備型の戦いが中心であり、攻勢に出ることが少なかったため、戦国時代の動きの速い戦闘には向いていませんでした。

評価項目内容
軍事の成功近江国内の防衛体制の維持
軍事の失敗信長の速攻戦術に対応できず、観音寺城を放棄
総合評価守勢に回ることが多く、戦略的な柔軟性に欠けた

特に、観音寺城の戦い(1568年)での敗北が決定的となり、六角家の滅亡を招きました。


4-2. 織田信長との比較

義賢の統治と軍事に関する評価は、しばしば織田信長と比較されます。
信長は、従来の戦国大名とは異なる革新的な統治と軍事戦略を採用し、新時代を切り開いた武将でした。

項目六角義賢織田信長
統治室町幕府の守護大名としての伝統を重視戦国大名として新たな支配体制を築く
軍事守備型戦術、伝統的な戦法火縄銃や鉄砲隊を駆使した新戦術
戦略幕府の権威を背景にした統治幕府を無視し、自ら天下統一を目指す

六角義賢は、守護大名としての権威に依存していたため、信長のような革新的な発想がなく、戦国時代の流れについていけなかったと言えます。


4-3. 六角家の滅亡と幕府への影響

4-3-1. 近江国の変化

六角義賢の敗北により、近江国は完全に織田信長の支配下に入りました。
その後、近江国は織田家の家臣である柴田勝家や明智光秀の支配を経て、豊臣秀吉の時代には石田三成の領地となりました。

時期近江国の支配者
~1568年六角家
1568年~織田信長
1582年~明智光秀
1585年~豊臣秀吉(石田三成が支配)

六角家が滅亡したことで、近江国は戦国大名としての影響力を失い、戦国時代の重要な争奪地となりました。


4-3-2. 室町幕府への影響

六角義賢は、室町幕府の守護大名としての伝統を重んじましたが、彼の敗北は室町幕府の衰退を象徴する出来事の一つとなりました。

項目内容
六角家の滅亡室町幕府の守護大名としての権威が崩壊
織田信長の上洛幕府の政治体制が変化し、戦国時代の終焉が近づく
影響1573年、織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府滅亡

六角家が消滅したことで、室町幕府の守護大名制度は完全に崩壊し、戦国大名の時代へと移行しました。


4-4. 後世への影響

4-4-1. 六角家の末裔

六角家は戦国大名としては滅亡しましたが、その末裔は江戸時代にも続きました。
江戸幕府の下で幕臣(将軍直属の武士)として仕えた者もおり、六角家は形を変えて存続しました。

項目内容
戦国大名としての六角家1568年に滅亡
江戸時代の六角家幕臣として存続
現在六角氏の子孫は一部に残る

戦国時代における「守護大名の衰退」として、六角家は歴史的に重要な存在です。


4-4-2. 創作作品での扱い

六角義賢は、戦国時代をテーマにした小説やゲームにも登場しますが、戦国の覇者として描かれることは少なく、むしろ旧勢力の象徴として扱われることが多いです。

作品名メディア内容
『信長の野望』シリーズゲーム織田信長の敵対勢力として登場
『国盗り物語』小説織田信長のライバルの一人として描かれる
大河ドラマ『麒麟がくる』ドラマ室町幕府の没落を象徴する存在として登場

特に『信長の野望』では、統率や戦闘能力は平均的だが、政治能力が高めに設定されることが多いです。


4-5. まとめ

六角義賢は、戦国時代の流れについていけなかった旧勢力の代表的な存在として評価されることが多い武将です。

項目内容
統治守護大名としての支配体制を維持しようとするが失敗
軍事守勢に回ることが多く、信長の戦術に対応できず
影響近江国が織田信長の支配下に入り、戦国時代の転換点に

次の章では、六角義賢の家臣団と彼を支えた人物について詳しく解説します。

5. 六角義賢の家臣団と支えた人物たち

六角義賢(ろっかく よしかた、1521年~1598年)は、戦国時代の近江国(現在の滋賀県)の戦国大名であり、室町幕府の守護大名としての立場を維持しながら、戦国大名として領国支配を強化しました。
しかし、彼の統治は家臣団の内紛や国人領主(地元武士)との対立に悩まされ、織田信長の侵攻により六角家は滅亡しました。

本章では、六角義賢の家臣団の構成、彼を支えた主要な武将たち、家臣団の内紛、そして六角家の崩壊に至る過程について詳しく解説します。


5-1. 六角家の家臣団の構成

六角家は、近江国の守護大名としての伝統を持ちつつ、戦国大名化した勢力でした。
そのため、六角家の家臣団には守護大名時代からの家臣と、**戦国大名としての国人領主(地元武士)**が混在しており、内部の統制が難しくなっていました。

階級役割代表的な家臣
重臣(筆頭家臣)政治・軍事の最高幹部後藤賢豊(ごとう かたとよ)、平井定武(ひらい さだたけ)
中級家臣軍団の指揮官進藤貞治(しんどう さだはる)、蒲生賢秀(がもう かたひで)
国人領主(地侍)地元の武士団蒲生氏(がもうし)、馬淵氏(まぶちし)、高島氏(たかしまし)

六角家は、戦国大名として統治を進めようとしましたが、家臣団の内部抗争が頻発し、組織の統制に苦しみました。


5-2. 六角義賢を支えた主要な家臣

5-2-1. 後藤賢豊(ごとう かたとよ)

後藤賢豊は、六角家の重臣であり、六角義賢の政治・軍事の補佐役として活躍しました。
彼は、戦国大名としての六角家の強化を目指し、領国統治に尽力しました。

項目内容
役職六角家の重臣
貢献内政の整備、軍事戦略の立案
最期1558年、「観音寺騒動」で義賢と対立し、討たれる

しかし、後藤賢豊は、義賢との対立を深め、最終的に反乱を起こして討たれました。
この事件が、六角家の家臣団の結束を崩すきっかけとなりました。


5-2-2. 蒲生賢秀(がもう かたひで)

蒲生賢秀は、近江国の有力国人領主であり、六角家の家臣として仕えましたが、後に織田信長に臣従しました。
彼の息子が、有名な戦国武将・**蒲生氏郷(がもう うじさと)**です。

項目内容
役職六角家の中級家臣(国人領主)
貢献軍事指揮官として活動
その後1568年、織田信長に降伏し、六角家を離脱

蒲生賢秀は、六角家が織田信長に敗れた後、六角家を見限り、信長の家臣となりました。
このように、六角家の家臣の多くが信長に寝返ったことで、六角家の弱体化が進みました。


5-2-3. 平井定武(ひらい さだたけ)

平井定武は、六角家の重臣として軍事指揮を担当した武将であり、六角義賢を最後まで支えました。

項目内容
役職六角家の重臣
貢献織田信長との戦いで指揮を執る
その後近江国を追われ、六角義賢とともに抵抗を続ける

彼は、六角家が滅亡した後も、義賢とともにゲリラ戦を展開し、織田軍に抵抗しました。


5-3. 六角家臣団の内紛 – 観音寺騒動

5-3-1. 観音寺騒動とは?

1558年、六角家の家臣団の間で**「観音寺騒動」**と呼ばれる大規模な内紛が発生しました。
この騒動では、六角義賢の統治に反発した家臣たちが反乱を起こし、義賢がこれを鎮圧しました。

項目内容
発生年1558年
首謀者後藤賢豊(六角家の重臣)
原因義賢の統治に対する不満、家臣団の権力争い
結果義賢が反乱を鎮圧するも、家中の結束が崩れる

この騒動によって、六角家の結束が弱まり、織田信長の侵攻に対抗できなくなる要因となりました。


5-4. 六角家の崩壊

5-4-1. 織田信長の侵攻

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際、六角義賢は信長と対立しました。
しかし、観音寺城の戦いで敗北し、六角家は滅亡しました。

項目内容
戦い観音寺城の戦い(1568年)
六角家の敗北信長軍に押され、義賢は城を捨てて逃亡
その後義賢はゲリラ戦を続けるも、六角家は戦国大名として滅亡

家臣団の内紛や織田信長への対応の遅れが、六角家の崩壊を加速させました。


5-5. まとめ

六角義賢の家臣団は、守護大名時代の家臣と戦国大名化を進める家臣が混在し、内紛が絶えませんでした。
特に、観音寺騒動(1558年)の発生によって家臣団の結束が崩れ、織田信長の侵攻に対抗する力を失いました。
結果的に、六角家は戦国大名としての体制を維持できず、1568年に滅亡しました。

項目内容
主要な家臣後藤賢豊、蒲生賢秀、平井定武
家臣団の問題内部抗争(観音寺騒動)、国人領主との対立
六角家の滅亡1568年、織田信長に敗れ、近江国を追われる

次の章では、六角義賢の晩年とその最期について詳しく解説します。

6. 六角義賢の晩年と最期

六角義賢(ろっかく よしかた、1521年~1598年)は、戦国時代の近江国(現在の滋賀県)の戦国大名でしたが、1568年に織田信長に敗れて領国を失いました。
しかし、彼はすぐには滅びず、その後も信長に対して抵抗を続けました。
本章では、六角義賢の近江国喪失後の動向、織田信長に対する抵抗活動、豊臣政権下での立場、そして彼の最期と死後の影響について詳しく解説します。


6-1. 近江国を失った後の六角義賢

6-1-1. 観音寺城の戦い(1568年)での敗北

六角義賢は、織田信長の上洛戦(1568年)で観音寺城の戦いに敗れ、六角家の本拠地である観音寺城を放棄しました。
この敗北により、戦国大名としての六角家は事実上滅亡しました。

項目内容
戦い観音寺城の戦い(1568年)
結果織田信長の勝利、六角家の滅亡
義賢の行動近江国を脱出し、山中へ逃亡

しかし、義賢はすぐには信長に降伏せず、近江国内で抵抗を続ける道を選びました。


6-1-2. 山中でのゲリラ戦

観音寺城を失った義賢とその子・六角義治(よしはる)は、近江の山岳地帯(甲賀地方)に逃れ、ゲリラ戦を開始しました。
甲賀地方は忍者(甲賀衆)の拠点として知られており、六角家と甲賀忍者は古くから関係を持っていました。

項目内容
拠点甲賀地方(現在の滋賀県甲賀市周辺)
戦術ゲリラ戦(夜襲、伏兵戦など)
支援勢力甲賀衆(忍者)、六角家旧臣

このゲリラ戦により、六角義賢は織田信長にとって完全に排除することが難しい「反乱勢力」となりました。


6-2. 織田信長との長期抗争

6-2-1. 信長包囲網への参加

六角義賢は、信長に対抗するため、1570年の**「信長包囲網」**に加わりました。
この包囲網には、朝倉義景(越前)、浅井長政(北近江)、武田信玄(甲斐)、本願寺勢力(石山本願寺)などが参加していました。

項目内容
1570年
六角義賢の立場反織田勢力として抵抗
協力勢力浅井長政、朝倉義景、本願寺勢力

しかし、1573年に織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡したことで、信長包囲網も崩壊しました。
これにより、六角義賢の立場はさらに厳しくなりました。


6-2-2. 甲賀忍者との関係

義賢は、近江の山岳地帯に潜伏する間、甲賀忍者(甲賀衆)の支援を受けていました。
甲賀衆は、ゲリラ戦や諜報活動を得意とする武士集団であり、六角家の旧臣でもあったため、信長との戦いを支援しました。

項目内容
甲賀忍者の役割情報収集、奇襲攻撃、信長軍の撹乱
戦術夜襲、伏兵戦、奇襲戦
結果信長の勢力を一時的に撹乱するも、戦局を変えられず

しかし、信長は近江国の支配を強化し、六角家の残存勢力は次第に衰退していきました。


6-3. 豊臣政権下での六角義賢

6-3-1. 織田信長の死後の動向

1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀によって討たれました。
信長の死後、豊臣秀吉が台頭し、六角義賢は秀吉の勢力に従う道を選びました。

項目内容
本能寺の変1582年、信長が死亡
義賢の行動豊臣秀吉に従う
六角家の立場もはや戦国大名としての力はなく、幕臣の一部となる

この時点で、六角義賢は完全に戦国大名としての立場を失いました。


6-3-2. 豊臣政権下の生活

豊臣政権下で、六角義賢は目立った活動を行わず、静かに生涯を過ごしたとされています。
一説には、近江国で僧侶となり、隠遁生活を送ったとも言われています。

項目内容
晩年の生活近江で隠遁生活を送る
政治的活動豊臣政権に従うが、目立った活動なし
最期1598年に死去(享年77)

1598年、豊臣秀吉が死去したのと同じ年に、六角義賢も77歳で生涯を閉じました。


6-4. 死後の影響

6-4-1. 六角家のその後

六角家は、戦国大名としては滅亡しましたが、江戸時代には幕臣として存続しました。
義賢の子孫たちは、江戸幕府の旗本(将軍直属の武士)として仕え、幕府の一員として生き延びました。

項目内容
戦国大名としての六角家1568年に滅亡
江戸時代の六角家幕臣として存続
現在六角氏の子孫は一部に残る

六角家は、戦国時代には消えましたが、その血脈は江戸時代を通じて生き続けました。


6-5. まとめ

六角義賢は、1568年に織田信長に敗れた後も、近江の山中でゲリラ戦を続けましたが、時代の流れには逆らえず、戦国大名としての力を失いました。
豊臣秀吉の時代になると、戦国の覇権争いから離れ、静かに生涯を終えました。

項目内容
織田信長への抵抗近江の山岳地帯でゲリラ戦を展開
豊臣政権下の立場幕臣として生き延びるが、目立った活動なし
死去1598年(享年77)

六角義賢は、旧時代の戦国大名としての限界を象徴する人物であり、戦国時代の流れに適応できなかったことで滅亡しました。