目次
1. 黒田長政の生い立ちと若き日々 – 武将としての成長
**黒田長政(くろだ ながまさ、1568年~1623年)**は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、黒田如水(黒田孝高)の嫡男です。
彼は、父の知略を受け継ぎながらも、剛勇な武将としての側面が強く、戦場での活躍も多かった人物です。
特に、若い頃から豊臣秀吉の家臣として戦いに参加し、武将としての才能を磨きました。
本章では、黒田長政の出自、幼少期の教育、若き日の活躍について詳しく解説します。
1-1. 黒田長政の出自
1-1-1. 黒田家の背景
黒田家は、もともと播磨国(現在の兵庫県)に根を張る小豪族でした。
長政の父である黒田如水(黒田孝高)は、戦国時代屈指の軍師であり、織田信長・豊臣秀吉に仕えたことで黒田家の地位を大きく向上させました。
項目 | 内容 |
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父 | 黒田如水(黒田孝高) |
母 | 明石氏の娘(詳細不明) |
出身地 | 播磨国(現在の兵庫県) |
家柄 | 播磨の小豪族 |
黒田如水は、後に「知略の天才」として名を馳せることになりますが、長政はそんな父の影響を強く受けながら成長していきました。
1-1-2. 幼少期と家督継承
黒田長政は、1568年(永禄11年)、播磨国で生まれました。
幼名は**松寿丸(しょうじゅまる)**といい、幼少期から父・如水によって英才教育を受けました。
項目 | 内容 |
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生誕年 | 1568年(永禄11年) |
幼名 | 松寿丸(しょうじゅまる) |
父の教育 | 兵法、戦術、政治を学ぶ |
彼の幼少期は比較的安定していましたが、1578年(長政が10歳の時)、父・如水が荒木村重の謀反に巻き込まれ、捕虜となる事件が発生しました。
この時、長政は織田信長の庇護を受けて育ちました。
項目 | 内容 |
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1578年(10歳) | 父・如水が荒木村重に幽閉される |
1579年(11歳) | 信長のもとで保護される |
このように、彼の幼少期は父の運命と密接に関わっており、若くして「生き抜く知恵」を学ぶことになりました。
1-2. 幼少期の教育と成長
1-2-1. 父・如水からの戦略教育
黒田長政は、幼少期から兵法・戦術・政治に関する教育を受けました。
父・如水は知略の達人であり、長政にも「戦略的思考」を教え込んだと考えられます。
教育内容 | 詳細 |
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兵法・戦術 | 軍隊の動かし方、戦略の基本 |
築城術 | 城の構造と防御策の学習 |
外交・交渉術 | 他国との同盟交渉の方法 |
この教育が、後に長政が武将として活躍する際の「戦略眼」として活かされることになります。
1-2-2. 武芸の鍛錬
黒田長政は、剣術や馬術にも長けた武将として成長しました。
特に、彼は「剛勇の武将」としても知られ、戦場での実戦経験を積むことを重視していました。
項目 | 内容 |
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剣術 | 実戦向きの戦闘技術を習得 |
馬術 | 騎馬戦にも長けていた |
戦場での経験 | 若い頃から戦に参加 |
このように、黒田長政は「知略」と「武勇」を兼ね備えた武将として成長していきました。
1-3. 豊臣秀吉への仕官
1-3-1. 織田信長から羽柴秀吉へ
黒田如水・長政親子は、当初織田信長に仕えていましたが、1582年の本能寺の変で信長が討たれると、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕えることになりました。
年 | 出来事 |
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1582年(14歳) | 本能寺の変で信長が死去 |
1583年(15歳) | 羽柴秀吉に仕える |
1587年(19歳) | 九州征伐で活躍 |
長政はこの時点でまだ若かったものの、戦場に出る機会が増えていきました。
1-3-2. 九州征伐での活躍
1587年、豊臣秀吉が九州の島津氏を討伐する「九州征伐」が始まりました。
この戦いで、長政は前線で戦い、戦功を挙げました。
特に、島津氏との戦いでは勇猛果敢な戦いぶりを見せ、秀吉からも評価されるようになりました。
項目 | 内容 |
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九州征伐の年 | 1587年 |
敵対勢力 | 島津氏 |
戦功 | 豊前国6万石を得る |
この功績により、黒田長政は大名としての地位を確立し、父・如水の後を継ぐ形で黒田家を発展させていくことになります。
1-4. まとめ
黒田長政は、幼少期から父・如水の影響を受け、知略と武勇を兼ね備えた武将として成長しました。
特に、剣術や戦術に長けた一方で、父から学んだ戦略眼も併せ持つ存在として育ちました。
豊臣秀吉のもとで戦功を挙げ、九州征伐で活躍したことにより、大名としての地位を確立していきました。
項目 | 内容 |
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生年 | 1568年(永禄11年) |
幼名 | 松寿丸(しょうじゅまる) |
父の影響 | 戦略・外交を学ぶ |
剣術・戦術 | 実戦的な武将として成長 |
九州征伐の功績 | 豊前6万石を得る |
この後、黒田長政は豊臣政権のもとでさらなる活躍を遂げ、やがて関ヶ原の戦いで東軍の主力として歴史に名を刻むことになります。
次の章では、豊臣政権下での黒田長政の活躍について詳しく解説します。
2. 豊臣政権下での黒田長政の活躍 – 戦場での実績と成長
**黒田長政(くろだ ながまさ、1568年~1623年)**は、豊臣政権下で武将としての実力を発揮し、戦場での実績を重ねながら大名としての地位を確立していきました。
彼は、九州征伐(1587年)、小田原征伐(1590年)、文禄・慶長の役(1592年・1597年)など、豊臣秀吉の主要な戦いに参加し、功績を挙げました。
また、戦だけでなく、築城や統治の面でも才能を発揮し、豊前国の統治基盤を整えることにも尽力しました。
本章では、黒田長政の豊臣政権下での活躍を詳しく解説します。
2-1. 九州征伐での活躍
2-1-1. 豊臣秀吉の九州征伐
1587年、豊臣秀吉は九州の**島津氏討伐(九州征伐)**を開始しました。
島津氏は九州の覇権を狙い、豊後(大分県)の大友氏を攻めるなど勢力を拡大していましたが、秀吉はこれを阻止するために大軍を派遣しました。
黒田長政は父・黒田如水(くろだ じょすい)とともに九州征伐に参戦し、最前線で活躍しました。
年 | 出来事 |
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1587年 | 豊臣秀吉が九州征伐を開始 |
1587年4月 | 黒田長政、豊前・筑前方面で島津軍と交戦 |
1587年6月 | 島津義久が降伏し、九州征伐が終結 |
2-1-2. 豊前国6万石を獲得
黒田長政はこの戦いでの功績が認められ、豊前国(現在の福岡県東部)6万石を与えられました。
また、黒田家の本拠地として中津城(なかつじょう)を築城し、ここを拠点に統治を進めました。
項目 | 内容 |
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領地 | 豊前国6万石 |
築城 | 中津城(なかつじょう) |
統治の役割 | 豊前国の安定化を図る |
この時期から、黒田長政は単なる戦闘要員ではなく、大名としての統治能力を磨いていくことになりました。
2-2. 小田原征伐での活躍
2-2-1. 豊臣秀吉の天下統一戦
1590年、豊臣秀吉は関東の北条氏を討伐する「小田原征伐」を開始しました。
黒田長政はこの戦いに九州の諸大名とともに従軍し、北条氏の拠点・小田原城の包囲戦に参加しました。
年 | 出来事 |
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1590年(天正18年) | 小田原征伐が開始 |
黒田長政の役割 | 小田原城包囲戦に参加 |
結果 | 北条氏滅亡、豊臣秀吉が天下統一 |
この戦いの結果、豊臣秀吉は天下統一を達成し、黒田長政の地位もさらに向上しました。
2-3. 文禄・慶長の役(朝鮮出兵)
2-3-1. 朝鮮出兵の開始
1592年、豊臣秀吉は中国大陸進出の第一歩として、朝鮮半島への侵攻を開始しました。
この戦いは**「文禄・慶長の役」**と呼ばれ、黒田長政も前線で活躍しました。
年 | 出来事 |
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1592年(文禄元年) | 文禄の役(第一次朝鮮出兵) |
1597年(慶長2年) | 慶長の役(第二次朝鮮出兵) |
黒田長政は、朝鮮半島の攻略部隊の指揮を執り、各地で激戦を繰り広げました。
2-3-2. 名護屋城での戦略会議
朝鮮出兵の際、黒田長政は豊臣秀吉が築いた**名護屋城(現在の佐賀県唐津市)**に駐留し、戦略会議にも参加しました。
また、現地の武将との協力関係を築きながら、戦線を維持しました。
項目 | 内容 |
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駐留地 | 名護屋城(佐賀県) |
主な戦闘地域 | 朝鮮半島南部 |
役割 | 現地部隊の指揮、戦略策定 |
この戦争では、日本軍は初期の戦いでは優勢でしたが、次第に補給線が伸び、朝鮮・明軍の反撃によって戦況が悪化しました。
1598年に豊臣秀吉が死去すると、日本軍は撤退を開始し、黒田長政も帰国しました。
2-4. 豊前国の統治と統治者としての成長
2-4-1. 領国経営の開始
朝鮮出兵の後、黒田長政は豊前国の統治に本格的に取り組むようになりました。
特に、農業の振興や城の整備に力を入れ、地域の安定化を進めました。
項目 | 内容 |
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統治地域 | 豊前国6万石 |
統治政策 | 土地開発、農業振興、城の改修 |
本拠地 | 中津城(福岡県中津市) |
この時期の長政は、戦場での活躍だけでなく、大名としての政治的手腕も発揮するようになっていきました。
2-4-2. 父・如水との関係
この頃、長政はまだ父・黒田如水の影響を強く受けていました。
如水は、長政の政治判断や軍事行動についても助言を与え、**「戦国の世を生き抜くための知恵」**を伝えていました。
項目 | 内容 |
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父・如水の助言 | 戦略、外交、統治の指導 |
長政の変化 | 武将から政治家としての成長 |
このように、長政は父の知略を学びつつ、自らの武勇を活かして黒田家を強化していきました。
2-5. まとめ
黒田長政は、豊臣政権下で戦場の最前線に立ち、多くの戦いで功績を挙げました。
また、戦場での経験を活かして、豊前国の統治にも力を入れ、大名としての基盤を築いていきました。
項目 | 内容 |
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九州征伐(1587年) | 島津氏討伐で活躍し、豊前6万石を獲得 |
小田原征伐(1590年) | 北条氏討伐に従軍 |
文禄・慶長の役(1592年・1597年) | 朝鮮出兵で前線を指揮 |
統治者としての成長 | 豊前国の経営に尽力 |
この後、豊臣秀吉の死後、長政は関ヶ原の戦いで重要な役割を果たし、黒田家の命運を大きく変えることになります。
次の章では、関ヶ原の戦いと黒田長政の決断について詳しく解説します。
3. 関ヶ原の戦いと黒田長政の決断
**黒田長政(くろだ ながまさ、1568年~1623年)**は、豊臣政権下で活躍した後、関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康側(東軍)に属し、勝利に大きく貢献しました。
彼は、東軍の中でも中心的な武将として行動し、西軍の重要武将・小早川秀秋を寝返らせる工作を行ったことで知られています。
この戦いでの功績により、長政は豊前国6万石から一気に52万石へと加増され、福岡藩の藩主となることになりました。
本章では、黒田長政が関ヶ原の戦いでどのように動き、どのような影響を残したのかを詳しく解説します。
3-1. 豊臣秀吉の死と黒田長政の決断
3-1-1. 豊臣政権の崩壊
1598年、豊臣秀吉が死去すると、日本国内の勢力は徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)に分かれて対立しました。
秀吉の遺児・豊臣秀頼(とよとみ ひでより)はまだ幼く、豊臣政権の実権を握る者がいなかったため、家康と三成の対立が激化していきました。
このような状況の中、黒田長政はどちらの陣営につくかを決断しなければなりませんでした。
項目 | 内容 |
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1598年 | 豊臣秀吉が死去 |
1600年 | 関ヶ原の戦いが勃発 |
対立する勢力 | 東軍(徳川家康) vs. 西軍(石田三成) |
3-1-2. 東軍(徳川家康側)につく決断
黒田長政は、最初は中立の立場をとっていましたが、父・**黒田如水(黒田孝高)**の助言もあり、いち早く徳川家康側(東軍)につく決断をしました。
項目 | 内容 |
---|---|
黒田如水の助言 | 「豊臣政権は崩壊する。家康につけ」 |
長政の決断 | 東軍(徳川家康側)につく |
影響 | 西軍に属した福岡近隣の大名と対立 |
長政は、東軍に与することで黒田家の存続を図ると同時に、戦後の加増を狙う戦略的な動きを見せました。
3-2. 関ヶ原の戦いでの黒田長政の役割
3-2-1. 東軍の先鋒としての活躍
1600年9月15日、関ヶ原の戦いが勃発しました。
黒田長政は、東軍の主力として戦場に投入され、西軍の大谷吉継らと激戦を繰り広げました。
項目 | 内容 |
---|---|
関ヶ原本戦の開始 | 1600年9月15日 |
黒田長政の位置 | 東軍先鋒(主力部隊) |
対戦相手 | 西軍・大谷吉継ら |
この戦いで長政は、積極的に敵陣へ攻め込み、西軍の士気を低下させる役割を果たしました。
3-2-2. 小早川秀秋の寝返り工作
関ヶ原の戦いにおいて、**黒田長政が果たした最大の役割は「小早川秀秋の寝返り工作」**でした。
項目 | 内容 |
---|---|
寝返りを促した相手 | 小早川秀秋 |
工作の方法 | 密使を送り、裏切りを決断させる |
戦局への影響 | 西軍の崩壊を決定づける |
小早川秀秋は最初、西軍に属していましたが、黒田長政の工作によって**「徳川家康側に寝返る決断」**をしました。
この裏切りにより、西軍の陣形が崩壊し、東軍の勝利が決定的となりました。
3-2-3. 西軍を追撃し、戦局を決定づける
小早川秀秋の寝返りの後、黒田長政は西軍の残存勢力を追撃し、戦の決着をつけました。
彼の軍は、大谷吉継の部隊を撃破し、さらに西軍の武将たちを各地で討ち取りました。
項目 | 内容 |
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撃破した敵将 | 大谷吉継、島津義弘(撤退)、宇喜多秀家(敗走) |
戦闘後の追撃 | 西軍の武将たちを各地で討ち取る |
この戦いでの活躍により、黒田長政は東軍の中でも特に重要な戦功を挙げた武将の一人となりました。
3-3. 戦後の褒賞と福岡藩の成立
3-3-1. 豊前国6万石から福岡藩52万石へ
関ヶ原の戦いの勝利後、黒田長政は徳川家康から大幅な領地加増を受けました。
彼は、従来の豊前国6万石から52万石へと大幅に加増され、福岡藩の藩主となりました。
項目 | 内容 |
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旧領地 | 豊前国6万石 |
新領地 | 福岡藩52万石 |
城 | 福岡城(1601年築城開始) |
福岡藩は、九州で最大級の石高を誇る大藩となり、黒田家は幕末まで福岡藩主として存続しました。
3-3-2. 福岡城の築城
黒田長政は、新しい領地を統治するために、1601年から福岡城の築城を開始しました。
この城は、戦国時代の名城として知られ、九州の防衛拠点として重要な役割を果たしました。
項目 | 内容 |
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築城開始 | 1601年 |
完成 | 1607年 |
城の特徴 | 巨大な石垣、堅固な防御施設 |
この福岡城が、後の福岡市の起源となりました。
3-4. まとめ
関ヶ原の戦いでの黒田長政の活躍は、東軍の勝利を決定づけた重要な要因となりました。
特に、小早川秀秋の寝返り工作や、西軍の追撃戦での活躍は、彼の軍事的才能を示すものでした。
戦後、黒田長政は豊前国6万石から福岡藩52万石の大名に昇格し、福岡城を築いて藩の基盤を築きました。
項目 | 内容 |
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関ヶ原の戦いの役割 | 小早川秀秋の寝返り工作、先鋒としての活躍 |
戦後の褒賞 | 豊前6万石 → 福岡52万石へ加増 |
福岡藩の成立 | 1601年に福岡城築城開始 |
次の章では、黒田長政が福岡藩をどのように統治し、どのような政策を実施したのかについて詳しく解説します。
4. 福岡藩の統治と黒田長政の藩政改革
**黒田長政(くろだ ながまさ、1568年~1623年)**は、関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康側(東軍)として戦功を挙げた結果、豊前国6万石から福岡藩52万石へと加増され、大大名としての地位を確立しました。
しかし、広大な領地を安定的に統治するためには、新たな施策や藩の基盤整備が必要でした。
黒田長政は、福岡城の築城、家臣団の整備、経済発展の促進、幕府との関係構築などに力を注ぎ、福岡藩の礎を築きました。
本章では、黒田長政が福岡藩の統治にどのように取り組んだのかを詳しく解説します。
4-1. 福岡藩成立と統治体制の整備
4-1-1. 福岡藩の成立
関ヶ原の戦いの後、黒田長政は豊前6万石から福岡52万石へと大幅に加増され、九州北部の大大名となりました。
新たな領地を統治するために、まず統治の中心となる城を築くことが必要でした。
項目 | 内容 |
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旧領地 | 豊前国6万石(中津城) |
新領地 | 福岡藩52万石(筑前国・豊前国の一部) |
拠点の移動 | 中津城 → 福岡城 |
長政は、従来の本拠地であった中津城(現在の大分県中津市)から、筑前国の福崎(現在の福岡市)に拠点を移し、福岡城の築城を開始しました。
4-1-2. 福岡城の築城
1601年、黒田長政は本格的に福岡城の築城を開始しました。
この城は、九州の中でも最大級の城郭を持ち、堅固な要塞として設計されました。
項目 | 内容 |
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築城開始 | 1601年 |
完成 | 1607年 |
築城の目的 | 九州統治の拠点、防衛拠点 |
特徴 | 巨大な石垣、広大な城郭、那珂川を利用した天然の要害 |
長政は、この城の完成とともに福崎の地名を「福岡」に改めました。
これは、**黒田家の祖先が出身した備前国(現在の岡山県)の「福岡」**にちなんだものであり、現在の福岡市の由来となっています。
4-1-3. 家臣団の配置と藩政の整備
広大な領地を効率よく統治するため、黒田長政は家臣団を再編し、重要な城や拠点に配置しました。
黒田家の譜代家臣(長年仕えてきた重臣)を要所に配置し、藩の安定を図りました。
配置された家臣 | 役割 |
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栗山利安(くりやま としやす) | 福岡城の城代、藩政の中枢を担う |
井上之房(いのうえ ゆきふさ) | 外交・財政担当 |
母里友信(もり とものぶ) | 軍事・治安維持 |
長政は、家臣たちに「福岡藩の支配体制を強化し、藩の繁栄を目指すこと」を命じ、組織的な統治を進めました。
4-2. 経済発展の施策
4-2-1. 商業の振興
黒田長政は、藩の経済基盤を強化するために商業の振興に力を入れました。
特に、福岡城下町と博多の発展に注力し、商人の活動を支援しました。
項目 | 内容 |
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福岡城下町の開発 | 武家屋敷・町人街の整備 |
博多の復興 | 商業都市としての再生 |
特産品の奨励 | 陶磁器(小石原焼)、塩、酒造業の発展 |
博多は戦国時代の戦乱で荒廃していましたが、長政の政策により急速に復興し、九州有数の商業都市として成長しました。
4-2-2. 農業改革と治水事業
福岡藩の財政を支えるためには、農業の発展も不可欠でした。
長政は以下のような農業改革を実施しました。
改革の内容 | 詳細 |
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新田開発 | 耕作地を増やし、米の生産量を増加 |
治水工事 | 河川の氾濫を防ぎ、農業生産を安定化 |
検地(けんち) | 正確な土地測量を行い、年貢徴収を公平化 |
このような政策によって、福岡藩は安定した財政基盤を確立することができました。
4-3. 幕府との関係構築
4-3-1. 徳川家との関係強化
黒田長政は、関ヶ原の戦いで徳川家康に貢献したこともあり、徳川幕府との関係を深めることを重視しました。
彼は幕府の政治にも関与し、江戸幕府の有力大名としての地位を確立しました。
項目 | 内容 |
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幕府への忠誠 | 徳川家康の側近として活動 |
大坂の陣への参戦 | 1614年・1615年、大坂の陣で豊臣家と戦う |
江戸屋敷の整備 | 幕府との連携を強化 |
特に、1614年~1615年の「大坂の陣」では、豊臣方と戦い、幕府の勝利に貢献しました。
このことで、黒田家はさらに幕府内での影響力を強めることになりました。
4-4. 晩年と福岡藩の確立
4-4-1. 黒田長政の晩年
黒田長政は、藩政の整備が一段落した後、政務を家臣に任せるようになりました。
そして、1623年(元和9年)、長政は病に倒れ、江戸で死去しました。
項目 | 内容 |
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死去の年 | 1623年(元和9年) |
死因 | 病死(詳細不明) |
享年 | 56歳 |
彼の死後、息子の黒田忠之(くろだ ただゆき)が福岡藩の藩主となり、黒田家は幕末まで福岡藩主として存続しました。
4-5. まとめ
黒田長政は、関ヶ原の戦いでの功績により福岡藩52万石の藩主となり、城下町の整備や経済発展に尽力しました。
また、幕府との関係を強化し、黒田家の安定した基盤を築いたことで、幕末まで続く福岡藩の礎を作り上げました。
項目 | 内容 |
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福岡城の築城 | 九州の拠点を確立 |
経済政策 | 商業と農業の発展 |
幕府との関係 | 徳川家康に忠誠を誓い、江戸幕府の有力大名に |
次の章では、黒田長政の最期と、彼の死後の黒田家について詳しく解説します。
5. 黒田長政の晩年と死後の影響 – 福岡藩の礎を築いた武将
黒田長政(くろだ ながまさ、1568年~1623年)は、関ヶ原の戦いでの戦功により福岡藩52万石の藩主となり、福岡藩の統治体制を確立しました。
長政は、藩政の安定化や経済発展に尽力し、幕府との関係を強化しましたが、晩年は病に苦しみ、56歳で江戸で病没しました。
彼の死後、黒田家は幕末まで福岡藩を統治する大名家として存続しました。
本章では、黒田長政の晩年の政治、最期の言葉、死後の黒田家の状況、そして後世への影響について詳しく解説します。
5-1. 晩年の黒田長政
5-1-1. 福岡藩の安定と統治の集大成
黒田長政は、福岡藩主として20年以上にわたって藩政を指導し、統治体制を整えました。
しかし、1620年代に入ると健康が悪化し、政治の実務を家臣に任せることが増えていきました。
項目 | 内容 |
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藩主としての在任期間 | 1600年(関ヶ原後)~1623年 |
晩年の活動 | 家臣に政務を任せ、幕府との関係維持に努める |
健康状態 | 1620年頃から体調が悪化 |
長政は、幕府との関係を良好に保ちつつ、福岡藩の基盤を強固にするための施策を家臣に託しました。
5-1-2. 幕府との関係維持
黒田長政は、関ヶ原の戦いで徳川家康に従ったことから、江戸幕府において譜代大名並みの厚遇を受けていました。
また、二代将軍・徳川秀忠、三代将軍・徳川家光にも信頼され、江戸幕府の有力外様大名としての地位を確立しました。
項目 | 内容 |
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幕府との関係 | 幕府の有力外様大名として影響力を持つ |
江戸の黒田屋敷 | 江戸城近くに藩邸を設置 |
幕府からの評価 | 徳川秀忠・家光ともに信頼を受ける |
長政は、江戸の黒田藩邸に滞在することが増え、幕府の政治に関与しながら福岡藩の安定を図りました。
5-2. 黒田長政の最期
5-2-1. 病に倒れる
1623年(元和9年)、黒田長政は江戸で病に倒れました。
この時、長政は家督を嫡男・黒田忠之(くろだ ただゆき)に譲る決断をしました。
項目 | 内容 |
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病気の発症 | 1623年(元和9年) |
病床での決断 | 家督を黒田忠之に譲る |
最期の地 | 江戸(江戸藩邸) |
5-2-2. 最期の言葉
黒田長政は、死の直前に家臣たちに向かって以下のような言葉を残したと伝えられています。
「黒田家の存続を第一に考えよ。家康公の恩義を忘れるな。」
これは、幕府との関係を維持し、黒田家が安泰であることを最優先するようにという遺言でした。
長政は、自らの死後も黒田家が幕府と良好な関係を保ち、福岡藩を安定させることを願っていました。
項目 | 内容 |
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最期の言葉 | 「黒田家の存続を第一に考えよ。」 |
家臣への遺訓 | 幕府との関係を大切にせよ |
目的 | 福岡藩の安定維持 |
5-2-3. 死去と葬儀
1623年(元和9年)、黒田長政は江戸で死去しました。享年56歳でした。
遺体は福岡に運ばれ、福岡市の崇福寺(そうふくじ)に葬られました。
項目 | 内容 |
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死去の年 | 1623年(元和9年) |
享年 | 56歳 |
墓所 | 崇福寺(福岡市) |
崇福寺には現在も黒田長政の墓があり、福岡藩の歴代藩主とともに祀られています。
5-3. 黒田家のその後
5-3-1. 黒田忠之の藩政
黒田長政の死後、嫡男の黒田忠之(くろだ ただゆき)が福岡藩の二代目藩主となりました。
しかし、忠之の治世では家臣団の対立が激化し、藩内での混乱が続くことになりました。
項目 | 内容 |
---|---|
二代藩主 | 黒田忠之 |
藩内の状況 | 家臣団の対立が発生 |
幕府との関係 | 黒田家は引き続き幕府の有力外様大名として存続 |
長政が生前に築いた福岡藩の統治体制は揺らぐことがありましたが、黒田家は幕末まで存続しました。
5-3-2. 黒田家の幕末までの存続
黒田家は、長政の功績によって幕末まで福岡藩52万石の大名家として存続しました。
幕末には、黒田長溥(くろだ ながひろ)らが藩政改革を行い、明治維新を迎えることになります。
時代 | 黒田家の状況 |
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江戸時代初期 | 福岡藩52万石として安定 |
幕末(19世紀) | 黒田長溥が藩政改革を実施 |
明治維新(1868年) | 黒田家は華族となり存続 |
黒田長政が築いた福岡藩の基盤は、幕末・明治維新へと受け継がれました。
5-4. まとめ
黒田長政は、福岡藩の基盤を確立し、徳川幕府との関係を強固にしました。
彼の遺した統治政策や城下町の整備は、福岡藩の発展に大きく貢献し、黒田家は幕末まで大名家として存続しました。
項目 | 内容 |
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晩年の活動 | 福岡藩の安定化、幕府との関係維持 |
死去 | 1623年(元和9年)、江戸で病死 |
最期の言葉 | 「黒田家の存続を第一に考えよ。」 |
死後の影響 | 福岡藩の基盤を築き、黒田家は幕末まで存続 |
黒田長政は、戦国武将としてだけでなく、大名としても偉大な功績を残し、福岡藩の礎を築いた人物として歴史に名を刻んでいます。