武田 信廉
たけだ のぶかど
1528?-1582

享年55?歳

 

名称:孫六、信綱、信連、刑部少輔、
逍遥軒
居城:信濃高遠城→甲斐大島城

■武田信虎の三男。
兄・信玄、信繁と同母弟で、母は
大井氏。

■若年から絵画に興じ、武人として
の才覚にはかけていたといわ
れる。

■文人としての才覚にすぐれても、
合戦にあっては騎馬80騎と勝
沼衆を率いる侍大将として親族
衆に列した。

信玄本陣の近侍を務めた為、
軍功にはあまり縁が無かった。

■兄・信繁が川中島の激戦で果て
ると代わって親族衆筆頭に就き
、信玄補佐を務める。

兄・信玄と酷似した顔立ちから
信玄の影武者も務めていた。

■親族筆頭を務めつつも、文人と
しての精進にも務め、絵画を長
谷川等伯に学び、戦国屈指の
武人画家となる。
父・信虎、母大井夫人の肖像画
は現在、国の重要文化財になる
など画力も相当のものだった
ことを窺い知ることができる。

信廉は絵画の世界だけに留ま
らず、歌道を冷泉為知、法泉寺
湖月、漢詩を快川紹喜、惟高、
佐久彦、彫刻を康清に学ぶとい
う多彩な方面に芸才を発揮した。

■戦国武将屈指の文人として才覚
を現した信廉も1582年、武田家
滅亡に接し、居城大島城を撤退。
農家に潜むが織田軍に捕らえら
れ、府中立石で斬首される。

武力だけの武田家にあって、芸
術の志向を表した信廉は、武田
家の栄華を文武両道にした点で
大きな功労者と言える。