山県 昌景
やまがた まさかげ
1515?-1575

 享年61?歳。

名称:飯富源四郎、三郎兵衛


居城:駿河江尻城

■飯富虎昌の実弟。
信玄の近習から使番を経て、
侍大将に昇進している。

■忠義に厚く、信玄の側近として
活躍するが、1565年兄・虎昌
が武田義信の謀反事件に連座
したため、飯富姓を捨て、山県
三郎兵衛昌景と名乗る。

山県姓に改名したのは、武田
信虎の重臣・山県河内守虎清
の名跡を継ぐためであったと
いう。

■兄・虎昌が創立した武田の赤備
えの組織を継承し、赤備え山県
隊はその後、大いに活躍してゆ
くことになる。

武田軍としては遅咲きの部隊
ではあったが、その後の精強
な活躍ぶりで武田軍団の最強
部隊として諸大名に恐れら
れた。

■1573年の三方ヶ原の戦いでは、
特に目覚しい活躍を見せ、徳
川本隊に切り込むと、瞬く間に
本陣を切り崩し、家康を命から
がら逃避させた。
武田騎馬隊の猛勇ぶりを家康
は「さても恐ろしきは山県」と述
懐したほど。
この経験から家康は武田家滅
亡後、山県隊の兵士を集め井
伊直政につけ、井伊の赤備え
としてそっくり昌景の軍組織を
真似したほどである。

■1575年、無敵を誇った山県隊
も、新主君・勝頼の無謀な戦
で崩壊することとなる。
遠江長篠まで遠征してきた武
田軍を織田・徳川連合の大軍
が待ち構えるという事態となり
、織田陣営の異様な構えに驚
いた昌景は、正面攻撃を回避
することを提言する。

しかし、主君・勝頼はこの昌景
の提言を臆病者呼ばわりし、
それに憤怒した昌景は、勝頼
に別盃し、諸将に総員討死を
覚悟することを命じて織田陣
営に突進。
馬防柵に行く手を阻まれつつ
も、ひるまず突撃を敢行。
武田の大将と見られ、織田軍
鉄砲隊の集中砲火を浴びた
昌景は、壮絶な爆死をして果
てた。