りゅうぞうじ いえなり
1519?-1597?
享年79?歳


名称:右衛門大夫、豊前守、越前守


■村中龍造寺家の一門。
  父は龍造寺胤久である。
  水ヶ江龍造寺家の当主であった隆信
  が龍造寺宗家である村中龍造寺家の
  当主をも勤め、龍造寺家を掌握すると
  家就はこれに従った。

  家就は、龍造寺一門をことごとく斬り捨
  て、龍造寺家を崩壊寸前まで追い込ん
  だ少弐氏に対して深い怨恨を持ち、少
  弐氏打倒を主張した。

  隆信もその進言に従い、家就を主軸と
  する少弐氏征討戦を展開。

  1558年、家就はついに少弐家当主・少
  弐時尚を追い詰めた。家就は少弐家
  中最大の勢力を誇る少弐家家臣の江
  上武種(えがみたけたね)の篭る勢福寺
  城を攻めた。

  家就の智勇を結集した軍略の前に武
  種も屈服し、時尚を追放することで和
  議を結んだ。

  時尚は実弟で千葉家を継いでいた千
  葉胤頼を頼って、晴気城に逃げ込
  んだ。
  少弐氏殲滅に執念を燃やす家就は、
  時尚をかばう千葉氏をも攻め、家就の
  猛攻を受け、千葉胤頼はあえなく戦死
  した。

  時尚は少弐氏の譜代の家臣である江
  上氏を再び頼ったが、江上氏は潔くな
  い少弐氏を見限り、かえって龍造寺氏
  の意向を汲んで、時尚に自刃を勧
  めた。

  1559年、進退窮まり、行き場が尽きた
  時尚は、家就の恐ろしまでの執念に恐
  れおののきながら、ついに自刃して果
  てた。

  ここに九州屈指の名族・少弐氏は滅亡
  した。
  一時は九州のほとんどを統治した少弐
  氏の至極の栄華は、龍造寺家就によっ
  て一族の恨みを晴らそうとする執念の
  前に断絶したのである。

■隆信戦死後、北上侵略を続ける島津軍
  を防ぐため、家就は老体を押して、肥
  後北部へ出陣。

  主君・政家が島津氏に降伏するまでの
  間、肥後における龍造寺氏の領土保
  全に貢献した。