あざい まんぷくまる
1570?-1573
享年4?歳。
名称:万福丸とも称す。
■北近江の雄・浅井長政と覇王・織田信
長の妹・お市の方との間にできた浅井
家嫡男。
■近江一の勇将と称えられた父・長政は、
天下取りに一番近い大名の一人だ
った。
父・長政は六角氏の傘下を脱し、独立
を決意すると、外交同盟を進め、近江
の北方に位置する越前の朝倉氏と
同盟。
ついで、尾張・美濃と勢力を拡大させ
つつあった織田信長と政略結婚を
成す。
このとき、長政の元へ嫁いできたのが
信長の妹で絶世の美女と謳われたお
市の方である。
浅井家へ嫁いだお市の方は、その後、
小谷の方と呼ばれるようになる。
武門の倣いで婚姻した長政と小谷の方
であったが、周囲の心配をよそに、仲
のよい夫婦となり、一同を安心させて
いる。
■このまま、織田信長が尾張・美濃を手中
として、とどまっていたならば、長政の
天下取りも夢ではなかっただろう。
しかし、事態は長政に好転しなかった。
それは、長政よりも一枚も二枚も上手
であった長政の義兄・織田信長の才気
に起因する。
織田信長は尾張・美濃と手中に収める
と凄まじい統治力と財源収集力を活か
して、大部隊を組織。
瞬く間に伊勢に侵攻し、北伊勢を領有
してしまう。こうなると畿内付近で一大
勢力を張っているのは、織田氏以外に
は、四国方面と西畿内を手中にする三
好氏しかいない。
その三好氏も筆頭重臣の松永久秀の
謀略で思うような組織運営がなされて
いない。
内輪もめのある三好氏と打って変わっ
て、織田氏は信長を絶対元帥とする超
組織力を発揮。
尾張・美濃・北伊勢の万全な統治を成
し、そこから上がってくる巨利の軍資金
を得た信長は、一挙に足利義昭を奉じ
て、上洛戦を展開する。
浅井氏はこれめでたき事と賞して、織
田軍に参軍し、浅井氏の宿敵・六角氏
と対立。
見事、長年の恨みを晴らして、六角氏
を敗走せしめた。
ついで、西近江の朽木氏をも屈服させ
た浅井氏は、念願の近江の支配者と
なる。
だが、それもぬか喜びでしかなかった。
高転びに転ぶと思われた織田氏による
畿内統治は、意外にも安定。
三好氏のような目立った失態もなく、順
調な運営を見せる。
こうなってくると焦るのが浅井氏であ
った。
長政の有能振りによって、急成長した
浅井氏には、まだまだ伸びる可能性が
ある。
しかるに現状は、それを許さない状態
となっていた。
近江を領する浅井氏は、山城・大和・
伊賀・伊勢・美濃・尾張と広大な領土を
領した織田氏に包囲される形となって
いた。
これでは、浅井氏には同盟者以外で近
江に隣接する国はないこととなり、領土
拡大戦はできない。
同盟者の織田・朝倉氏のいずれかの
領土を侵食しない限り、領土拡大は到
底望めないのである。
この不安材料が浅井氏に山積していた
時期に、時運悪く織田信長が上洛要請
を蹴った朝倉氏討伐戦を展開すると
いう。
困惑したのは、長政で織田につくか、
朝倉につくかで家中は乱れに乱れた。
おおもめの軍議も、いつしか文弱老獪
な長政の父・久政の冷静な分析と天下
取りの野望に影響を受ける形となり、
長政自身ももはや織田氏と見切りをつ
けて、天下制覇の覇王の道を進む決
意を成す。
金ケ崎にて、挟撃し、一挙殲滅を計画
した長政であったが、見事に失敗。
織田軍に大打撃を与えることなく逃し
てしまった。
こうなると織田氏との全面戦争は避け
られない。
各方共に死力を尽くした総力戦を展開
したが、信長の組織力には歯が立たず
、近江武勇の諸将は次々と討死した。
こうした戦況の中、満福丸(万福丸とも
いう)は誕生した。勇戦を続けていた浅
井氏に対して、織田氏は豊富な軍資金
を駆使しても未だに苦境が続いて
いた。
それは、信長包囲網と呼ばれる巧みな
包囲作戦が効力を発揮していたからで
あった。
信長は浅井・朝倉氏だけに苦しめられ
ていたわけではなく、この他にも伊賀
に潜む六角氏や三好三人衆の拮抗
、摂津の本願寺の反抗などに遭遇し、
これに呼応した織田領内の一向門徒
の反乱に散々苦しめられた。
こうした中で、長政は信長を徐々に締
め上げていき、ついには、織田領を各
地で分断して、侵食していこうという算
段であった。
しかし、この計略も信長の巧みな戦略
の切替によって、肩透かしされる。
一斉に各地で反信長の旗を掲げる信
長包囲網の陣営戦術に対して、信長は
同時に押さえ込むのではなく、的を絞
って、一つ一つしらみつぶしに各個撃
破する作戦に転化した。
この戦略の転化によって、事態は信長
優勢へと転がりを見せる。
一時は一進一退の形勢を見せていた
織田VS織田包囲網の両陣営も信長の
覇王振りが輝きだすとこれを防ぐ手立
てを失う。
こうして、勇軍として天下にその勇名を
とどろかせた浅井軍も織田軍に撃滅さ
せられ、滅びていった。
小谷の方や長政の子女たちが篭って
いた小谷城が陥落すると小谷の方たち
は、城を脱出し、信長の元へ身柄を
保護された。
小谷の方と長政の息女に関しては、助
命がなされたが、残念ながら、武門の
倣いとして後顧の憂いを絶つために
長政の嫡男・満福丸は斬首という憂き
目を見る。
幼少ではあったが、浅井氏の武勇はな
はだしく、尋常ならざる反抗に長年、苦
しんできた信長はその脅威を以後、
断ち切る意味で満福丸の処断を決した
のであった。
もしも、満福丸がそのまま存命し続け
れば、いずれは織田家の脅威と成り得
るほどの名将になると長政の活躍ぶり
から容易に察しがついたためである。
満福丸の悲運によって、勇武の武門・
浅井家の血脈は、絶たれたかに見えた
が、天は浅井家を見放してはいなか
った。
満福丸の姉たち三人が、それぞれ栄華
を誇る武家に嫁ぎ、大いに歴史の表舞
台で活躍したのである。
天下を取った徳川氏の血脈ともなった
浅井氏は、形を変え、武威による天下
取りではなく、血脈をもって天下取りを
成し遂げたのである。
浅井 満福丸
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