しろいし むねざね
1553-1599
享年47歳。
名称:老後丸、右衛門大輔、若狭守
居城:陸奥白石城→陸奥宮森城→
陸奥塩松城
■伊達輝宗の家臣・白石宗利の子。
白石氏は、藤原鎌足の後裔・刈田
経元を祖とする奥州の名門。
源義家に従い白石城に拠り、刈田
、伊具の両郡を領した。
文治の役に伊達家初代目当主・伊
達朝宗に従って、白石氏を称した。
その後、宗実の祖父・白石実綱の
代に伊達家14代目当主・伊達稙宗
の麾下となり、家格は一族から一家
に昇格し、伊達家の重臣となった。
■むろん、宗実も伊達家17代目当主・
伊達政宗に仕え、伊達家重臣として
戦国の世に活躍した。
■1584年、宗実は伊達輝宗・政宗父子に
従い、相馬氏との戦いに従軍。
宇多郡新地、駒ヶ峯城攻めで宗実は
殿軍を勤め、相馬軍の執拗な追撃部
隊と激戦を重ね、見事これを斥けて
いる。
■1585年、伊達家当主となったばかりの
政宗に謀叛を起こした大内定綱を
小手森城に攻めた宗実は、小瀬川
を挟んで大内軍と戦い、これを打ち破
る抜群の軍功を立てた。
■1586年、二本松城の畠山氏と激しい
抗争を繰り広げていた伊達氏に対し、
相馬義胤から和睦勧告の提示がある
と宗実はこれを主君・政宗に取り次ぎ、
和睦成立に貢献した。
同年、政宗は宗実とその白石一族に
対して、長年の功労を賞して、大内
定綱の旧領・安達郡塩松三十三郷を
与えた。
宗実は白石から宮森城に居城を移し、
寺坂山城、大内能登ら諸豪族を配下に
編入し、白石精鋭部隊を組織した。
■1588年、宗実は相馬氏と軍事同盟を
結んだ百目木の石川彈正を小手森城
に襲撃して、これを討ち取る活躍を見
せた。
■1589年、宗実は会津の雄・蘆名氏との
奥羽の覇者を巡る最後の決戦となる
磐梯山麓での摺上原合戦に参軍。
白石精鋭部隊を率いた宗実は伊達軍
の四番手を命じられ、激戦の戦場で
奮闘した。
■秀吉の朝鮮出兵の際、主君・政宗ととも
に朝鮮半島へ渡海し、軍功を立てた。
1599年、帰国した宗実は、伏見の地
に滞在していたが、その地で病没
した。
享年47歳。
白石 宗実
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