しが ちかつぐ
1566-1660?
享年95?歳


名称:太郎、親善、少左衛門尉、湖左衛門尉、ドン・パウロ
居城:豊後岡城


■大友一族の庶流である北志賀家の出。

  代々、志賀家は大友氏の加判衆を
  勤めており、祖父・親守、父・鑑隆も
  加判衆に就いている。

  しかし、親次は大友家の加判衆を勤め
  ていない。それは、親次の代の大友家
  が衰退してきていたためである。

■親次は、キリスト教の熱心な信者となり
  、ドン・パウロと名乗った。
  1585年、島津軍がいよいよ大友氏の
  本国である豊後国に侵攻してくると
  親次は神の下、聖戦をこなし、度々
  島津軍を撃退する武勇を見せた。

  1587年、秀吉の九州平定が成ると、
  島津軍を度々、撃退した親次は、秀吉
  より感状を受け取り、その武勇を賞賛
  されている。

■朝鮮の役では、主君・大友義統とともに
  渡海し、勇敢に戦ったが、親次は戦況
  を見誤り、撤退命令を下すよう主君・
  義統に進言。

  しかし、この撤退の最中に隊列が乱れ
  結局、無様な撤退劇を演じてしまう。
  この失態を怒った秀吉により大友家
  は改易処分となる。

  その後、親次の消息は不明となるが、
  大友氏改易の主因を作ったことを
  恥じて、自刃したとも、1600年の関ヶ原
  動乱で大友軍に属し、黒田軍との戦い
  で討死したとも伝えられる。

  一方で、関ヶ原の戦い後も、存命で

  全国の名だたる諸侯に仕官したとされる。

  仕官した大名は、福島正則、小早川秀秋、

  秀秋死後に再び福島正則、毛利輝元と

  伝わる。