たかはし かねたね
1528?-1579
享年52?歳。


名称:左衛門大夫、左衛門尉、三河守
居城:筑前宝満城→豊前小倉城


■大友一族として活躍した。
  しかし、主君・宗麟の傍若無人な
  悪政に耐え切れず、謀叛を起こす。

  鑑種が謀叛を起こした主な理由とされ
  るのは、鑑種の身内である一万田鑑相
  の妻を宗麟が奪ったことにある。
  美貌で評判だった一万田鑑相の妻を
  奪うため、宗麟は鑑相を謀殺してし
  まう。

  さらに、鑑種を総大将として周防・長門
  へ大友軍を派兵する寸前になって、
  急きょ鑑種を解任してしまう。
  これら宗麟の一連の粗暴に不満を募ら
  せた鑑種は、1567年6月、ついに謀叛
  を起こした。

■しかし、大軍を擁した鎮圧軍に敗退し、
  鑑種はなんの戦果も得られず降伏
  する。
  鑑種が大友一族であったことから助命
  され、領土没収と謹慎処分扱いとな
  った。
  大友一族の高橋家が断絶することを
  恐れた家臣の願い出により、宗麟は、
  吉弘鑑理の二男・鎮理を高橋家の名
  跡を継がせた。後の高橋紹雲である。

■その後、鑑種は1578年、耳川の戦いで
  大友氏が島津氏に大敗すると、落ち目
  となった大友氏を見限り、1579年再び
  謀叛を起こし、豊前田川郡の香春岳城
  を奪取して、大友家家臣の杉重良を
  討った。

  旧領を回復しようと試みた鑑種であっ
  たが病を発し、回復する事無く没した。