ひさたけ ちかのぶ
?-1579


名称:親定、内蔵助
居城:高岡群佐川城


■久武昌源の長男。
  長宗我部元親が最も頼りにした
  長宗我部家家臣団一の切れ者。
  元親の土佐一国平定戦で欠く
  ことのできない活躍を見せた、
  智勇兼備の武将である。

■1577年、南伊予の軍代となり、
  宇和郡、喜多郡の諸豪族と
  熾烈を極める戦いに勝利し、元親
  の四国制覇の第一歩を記した。

■1579年、親信は、伊予全土の
  統一を目指して、宇和郡岡本城
  攻めを敢行した。
  しかし、四国の隠れた名将・土居
  清良の謀略にあい、銃弾を浴びて
  戦死した。
  親信戦死の知らせを受けた元親は
  二度と親信のような将は得られないと
  いい、号泣したという。

  親信は生前から有能で知られた実弟
  の親直をよく思わず、事の末路を視野
  にいれない無謀家であると避難し、
  自分にもしものことがあれば、絶対に
  親直を重用しないようにと主君・元親
  をはじめ、周囲の将に遺言していた。

  親直を重用しては主家・長宗我部家
  に災いを及ぼすに相違ないとの予見
  をしていた親信であったが、見事その
  予見は的中するのであった。

  親直の有能を惜しんだ元親は親信
  の遺言を無視して、親信の跡目を
  引き継がせて、重用した。
  その結果、親直は有能さを遺憾なく
  発揮して、元親の四国制覇に大いに
  貢献した。また、武勇だけでなく政務
  でも活躍し、秀吉からお褒めの言葉を
  いただくなど軍政両面で活躍。

  しかし、関ヶ原合戦後に主君・盛親に
  対して、盛親の実兄・津野親忠が謀叛
  の気配有り、として暗殺を進言。
  この親直の要らぬ進言に従った盛親
  は、兄・親忠を惨殺し、徳川家康の怒
  りをかうこととなる。

  その結果、長宗我部家は取り潰しの
  憂き目を見るのであった。
  親信の予見は、見事に的中し、長宗我
  部家は取り潰しという最悪の災い事を
  親直から賜ってしまったのであった。
  この事は、親信がいかにすぐれた眼力
  を持つ有能な武将であったかを知る
  重要な話といえる。