大野 治長
おおの はるなが
1575?-1615
享年41?歳。
名称:修理亮、従五位下
■大野佐渡守の子。
母は淀殿の乳母・大蔵卿局。
豊臣秀吉の馬廻として豊臣家に仕
える。
のち豊臣秀頼に仕え、淀殿お気に入り
の側近となり、豊臣政権で重きを成
した。
■1591年(天正19年)10月、秀吉の美濃・
尾張・三河遊猟に随行。
1594年(文禄3年)春、京都伏見城の
築城工事で奉行の一人として従事
した。
この頃、治長は1万石を拝領している。
■1599年(慶長4年)1月、秀頼に伺候。
同年10月、浅野長政とともに徳川家康
の暗殺容疑をかけられ、下野結城に追
放処分となる。
1600年、関ヶ原合戦前に釈放され、
家康の奥州会津征伐に参軍した。
その後、治長は大坂城へ戻り、秀頼の
側近として仕えた。
■1614年(慶長15年)、片桐且元の叛意
疑惑が生じ且元が大坂城を退去すると
治長は、豊臣家の中心人物として諸事
にあたった。
大坂の冬・夏の陣でも指導的な役割を
果たしたが真田幸村ら武官らの提言を
無視し、愚策な戦略を指揮するなど豊
臣家にとっては、不運を呼び込む人物
となってしまう。
1615年(元和元年)、大坂夏の陣で主
君・秀頼に従い殉死する。
文官としては有能である一方、茶道を
古田織部に学び、奥義を極めるなど風
流人でもあった。