後藤 基次
ごとう もとつぐ
1560-1615
享年56歳。

名称:又兵衛(またべえ)、隠岐守
居城:筑前小隅城

■播磨の大名・別所氏の家臣・後藤
左衛門基国(もとくに)の子と伝え
られ、播磨国土着の武士の系譜を
引くと考えられる。
1580年、播磨三木城主・別所長治は
、織田氏の秀吉の降伏勧告を無視し
、徹底抗戦を実施。
秀吉軍の前に城は落城し、別所家は
滅亡した。別所家滅亡より、かなり前
から別所家不利と悟った父・基国は、
別所家を見限り、播磨姫路城の小寺
政職(こでらまさもと)に仕えている。

その後、父・基国が病没したため、
基次は、小寺政職の娘婿・小寺孝高
(のちの黒田孝高)に仕えた。
年齢をほぼ、同じくする孝高の子・
長政とともに青年時代を過ごした。

その後、基次の伯父にあたる藤岡九
兵衛が黒田孝高に反逆すると基次は
これに連座して、黒田家を追放される。

一時期、基次は仙石秀久(せんごくひ
でひさ)のもとに身を寄せた。
その後、まもなくして、基次は黒田孝高
の子・長政に呼び戻され、黒田家家臣
・栗山利安(くりやまとしやす)の与力と
して100石を拝領した。
以後、黒田家中随一を誇る勇将として
基次は、各地を転戦。

九州平定戦、朝鮮の役、関ヶ原の戦い
と歴戦し、その武名を天下にとどろか
せた。

■1587年(天正15年)、主君・黒田孝高が
豊臣氏による九州征伐軍の軍奉行(
いくさぶぎょう)に就くと、基次は黒田
長政とともに九州各地を転戦し、大い
に武名を鳴らした。
その活躍ぶりで基次は、”黒田家中に
又兵衛あり”と諸将に高評を博した。

■九州征伐が完了すると、秀吉は九州
仕置きにて、軍功抜群の黒田孝高に
豊前国6郡を与え、12万石の中堅大
名とした。
いち軍師から、豊臣家中堅大名へと
転身飛躍した黒田家ではあったが、
九州土着の武士たちは、新参者の
黒田家を嫌い、反抗的な態度を示し
てきた。

反黒田氏勢力の中心人物となった
のが宇都宮鎮房(うつのみやしげふ
さ)である。宇都宮氏は鎌倉幕府創設
以来、九州統治のため、関東より下っ
てきた名門の出である。
九州名門にして、険阻な要害・城井谷
(きいだに)を本拠としており、土着
基盤が強かった。

九州征伐の際には、宇都宮鎮房は、
秀吉に従ったが、戦後、城井谷の所領
を召し上げられ、伊予の今治(いまば
り)に移れという朱印状が下されると
彼はその命令書を秀吉に返上すると
いう大胆な行動に出た。

領土の大小を問題にしているわけでは
なく、純粋に先祖伝来の伝統ある所領
を打ち捨てるわけにはいかなかった
のである。
ところが、すでに秀吉の領地分配の
命令を受けていた黒田孝高は、豊前
国に入国し、城井谷の領土は黒田の
領土だといって、明け渡しを要求して
きた。

鎮房は、断固明け渡し要求を拒否し、
徹底抗戦の構えを見せた。
九州各地で起きた国人一揆が豊前国
にも勃発してしまった。
この国人一揆鎮圧に失敗して、その
責任を取って、腹をかっさばいた武将
がいる。佐々成政である。
孝高は、成政の二の舞を踏むまいと
城井谷を二重三重に取り囲んで、猛攻
を仕掛けたが、天然の要塞の上に
しぶとい九州武士相手とあって、悪戦
苦闘した。
この国人一揆鎮圧戦に基次も参軍し
て力戦したが、黒田軍は二度に渡って
大敗を喫した。

そこで孝高・長政父子は一計を案じて
、1588年(天正16年)4月20日、突如
として和解を鎮房に申し出、彼を中津
城に招いた。
勇将・鎮房は、律儀に一本気を通して
、孝高・長政の招きに応じ、登城した。
そこで開かれた宴会の席で鎮房は、
不意を突かれて、暗殺されてしまう。

国人一揆の盟主があっさりと討たれて
しまい豊前の国人一揆は消沈すること
となった。
しかし、基次には不服が残った。
敵ながら見事な陣頭指揮で武勇を
現した鎮房を基次は、見事な武者振り
と感嘆していた。
その好敵手を卑劣な手段で討ち果た
す孝高・長政父子の行動に同調でき
ない想いを持ったのである。
この胸のつっかかりが後年になって、
基次が黒田家を見限り、退去する遠
因の一つとなった。

■国人一揆鎮圧戦で、抜群の働きを見
せた基次は、一挙に黒田家の家老
へと大身を遂げた。
長政が基次の武勇を頼りとしていた
ことをうかがわせる人選である。

中堅大名として九州統治に奔走して
いた黒田家に休む暇のない戦火の
火種が降ってきた。
秀吉の無謀極まりない朝鮮出兵が
勃発したのである。
父・黒田孝高より家督を譲られてい
た黒田長政は、秀吉の命令によって、
第一次出兵軍の三番隊指揮官の
職務を預かった。

主君・長政に従い渡海した基次は、
”黒田の三傑”と謳われた母里太兵衛
友信(もりたへいとものぶ)、黒田三
左衛門一成(くろださんざえもんかず
しげ)とともに大いに戦場で活躍した。
彼ら三人は、一日交代で黒田軍の先
陣を勤め、抜群の軍功を現した。

■豪将・加藤清正が明との国境に近い
晋州城(しんしゅうじょう)を攻めた時、
黒田隊が援軍に赴いた。
その時、先駆けの武功を挙げた基次
の働きに清正もたいそう驚き、手ずか
らの感状を与えて、基次の武勇を賞賛
している。

■そんな朝鮮出兵戦の日々を送る基次
は、ある日、同僚の母里友信が所蔵
する名槍(めいそう)・”日本号”をもら
い受ける。
基次に負けじ劣らずの武勇を鳴らした
友信は、主君・長政の命令を受け、
秀吉への使者の役を勤めたことが
あった。
その時、秀吉は酒豪で知られる友信
に酒の大杯を出し、見事、この大杯を
飲み干したならば、何でも所望を聞こ
うという。
友信はそれならばと秀吉が、朝鮮国王
から贈られた宝剣を槍に作り直した
”日本号”を所望した。
よかろうと秀吉の承諾を取り付けた
友信は酒豪自慢を意気込んで、見事
大杯を飲み干し、”日本号”を手中と
した。

武辺者だけあって、友信はたいそう、
名槍・”日本号”を大切にしていた。
朝鮮の役で秀吉の命令で虎退治が
敢行されると、友信も借り出されて、
虎退治を行っていたが、手負いにした
虎に最後のトドメを討ち損じた。
手負いにされ、意気が荒くなっている
虎が友信を食い殺そうと友信を組み
伏したが、その時、基次が助太刀に
入る。
その場で、基次は友信の所蔵する
日本号を譲ってくれたら助けてやる
という。手負いの虎に喰い殺された
とあっては、面目なしとして、友信は
いちもにもなく、了解してしまう。
こうして、手負いの虎を討ち果たした
基次は、”日本号”を手にしたという。
その後、”日本号”は基次の手からも
離れて、黒田家の秘蔵となった。

■第二次朝鮮出兵が勃発すると、今度も
主君・長政は三番隊指揮官を務めた。
基次も渡海し、合戦に日々、明け暮
れた。

1597年(慶長2年)、蔚山(うるさん)の
近くで合戦が行われた際、基次は、
黒田隊の物見を命じられ、戦場視察
に出かけた。
そこで、基次は川を渡る時、日本軍の
馬のくつわが流れてくるのを見つけ、
すでに友軍が出陣していることを
察知。
長政に出陣を促した。
おかげで、黒田隊は大事な合戦に遅
参せずに済んだという。

また、ある合戦では、黒田隊が先陣を
勤めた際に、山間に敵軍と遭遇した。
この時、後方の友軍が敗退している
と基次は察知し、全軍撤退を長政に
進言した。
長政はなにゆえ、友軍が打ち負けて
いるとわかのか?と訊ねると、基次は
味方の鬨の声が段々小さくなっている
という。勝っていれば味方の鬨の声は
、段々大きくなるはずだという。
はたして、黒田隊が撤退してみると
友軍は敵の猛攻を浴びて、退いてい
るではないか。危うく敵軍の真っ只中
に孤立するところであった。
この黒田隊の窮地を救った基次の
戦場洞察眼の鋭さを主君・長政は大
いに頼ったという。

また、ある時は、黒田軍が敵地深く
進行した際に、いきなり敵軍が出現
してきた。
目の前に敵軍が出てきて、黒田隊の
将兵は大いに慌て、一時撤退を!と
主張するものも出た。
しかし、基次はそれを制し、敵軍が
逃げていっていると述べ、追撃部隊
を向かわせるよう進言する。
なぜそのようなことがわかるのか?
と諸将に問われると基次は、敵の姿
がまだ見えず、武者埃(むしゃぼこり)
しか見えないことを挙げ、その土煙が
徐々に薄くなっていることを指摘した。
近づいてくる敵軍の土煙は、徐々に
濃くなってくるものだから、これは、
敵軍も我が軍の存在に驚いて、急きょ
撤退を開始している証拠だという。
調べてみると基次の述べる通りで、
敵軍は陣所を引き払い、撤退して
いた。

これら基次の名探偵振りとも言える
観察力と洞察力の鋭さはまさに、
”眼光紙背に徹す(がんこうしはいに
てっす)”が如く見事なものであった。
単なる武勇者とは違って、軍勢の動き
を察知するすぐれた能力を持ったまさ
に隠れた名将であった。

■朝鮮の役で武名をさらに高めた基次
は、帰国後、息もつかせぬ大合戦に遭
遇する。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが
勃発すると基次は、主君・長政に従い
関ヶ原主戦場に向かう。
豊臣家恩顧の諸将が一同に会して、
東西両軍に分かれて、戦うという豊臣
家分断の一段決戦であった。

東軍総大将は、徳川家康である。
豊臣恩顧の諸将をあまり信用していな
かった家康は、唯一黒田長政だけは
信に耐え得る存在と見ていた。
長政は父・孝高に似ず、忠義心が
厚い。
東軍の主力格であった黒田隊は、合戦
で敗北が許されない重要な立場に
あった。
それだけに名将の誉れが高まっていた
基次の活躍には期待が集まった。
いざ、一大決戦の幕が開けると、黒田
隊は、西軍本営の石田三成の部隊に
突っ込んだ。
しかし、基次同様に名将との誉れが
高い島左近がこれを迎撃。
巧みな部隊さばきで、黒田隊ら東軍
諸隊を押し戻す力戦を見せた。
西軍の島隊がひるんだ東軍に突っ込
んでくるとこれを見た基次は、黒田隊を
右横に連なる山並みに潜ませ、鉄砲隊
で島隊の横合いを一斉射撃した。
この基次の機転の利いた攻撃に島隊
は勢いをなくし、ついには島左近まで
をも重傷となる鉄砲傷を負い、西軍
の出鼻をくじく戦果を挙げた。

■関ヶ原の戦いが東軍勝利に終ると、
黒田家は、石田隊本営潰しの軍功と
東軍の勝因となる小早川秀秋の東軍
寝返りに貢献したとして、豊前12万石
からなんと、一挙に筑前一国を拝領し
、52万石の大大名となった。

この黒田家の大躍進によって、基次も
筑前嘉麻郡小隅城1万6000石を拝領
した。
しかし、基次の心は満たされなかった。
謀略を駆使する不穏な動きが多い黒
田家を武士の鑑として仰ぐ気持ちが持
てなかった。
また、長政との折り合いもあまりよくな
かった。青年の頃より長政とともに同じ
釜の飯を喰った仲ではあったが、基次
の声望が高まるにつれて、長政との
関係は次第に冷めたものとなって
いった。
一つには、基次の天性とも言うべき、
軍略の才を諸将が高く評価していた
からだった。
天才軍略家との声望が高まる基次に
長政はだんだん嫉妬するようになって
いた。
父・孝高も天才軍師で天下随一の軍才
と謳われ、若い長政を大いにさいなま
した威圧的存在であった。
その父・孝高が隠居したと思ったら、
今度は青春時代を同じく過ごした部下
の基次に再び言い知れぬ威圧感を与
えられ、さいなむようになっていた。

当主である自分の実力よりも勝る基次
をもてはやす世間に対し、被害妄想を
抱くようになっていた長政は、徐々に
基次との折り合いを悪くした。
武骨者で角が立つ基次は、戦場では
メッポウ無比な頼りがいのある人物と
映ったが、治世の時代には、ちょっとし
た台風の目であった。
52万石の大身を果たした長政が名将
と世間に名高い基次を高々、1万6000
石というスズメの涙程度の禄しか与え
ないということも手伝って、諸大名から
”うちへ来ないか”との勧誘が基次の
もとへ殺到した。

基次も諸大名が自分の能力を褒めち
ぎって、勧誘するものだから、次第に
鼻高々となる。
自分の禄が我が才能に不似合いと
思うようになっていた。儒教の浸透が
まだないこの時期では、主従関係が
それほど密着したものではない。
実力次第で、その才能を高く買う者へ
乗り換え仕えるのは、正道であった。
基次もそこに夢を描くようになる。

主君・長政も基次の才をもっと高く評価
すべきなのにそれでは、自分が基次
サマサマで大身したと諸将に思われる
ので、わが身の誇りが許さない。
基次がどこぞの大名と親睦を深めてい
るなどとうわさが聞こえてくると長政は
歯がゆくてしょうがない。
仕舞いには、基次自身をわが身の前
に呼び出して、黒田家股肱の臣が軽は
ずみに他の大名と親交するは、重みが
ないと基次の行動を非難し、挙句には
黒田家を裏切らないとする誓紙を基次
に書かせるという横暴に出た。

これには基次も閉口した。
諸大名との親睦をイチイチ干渉してくる
長政が小者に見え、落胆した。
小心者の下で働く気はないと基次は、
決め込んで、出奔しようとする。
基次の動きを察知した長政は、先手を
打って、基次を無理矢理、隠居させて
その子息に家督を継がせようという強
制に出ようとする。
ますます憤慨する基次は、もはや”黒
田家に未練なし”と称して、1606年(慶
長11年)、我が子とともに出奔してしま
った。

この”基次出奔す!”の報告には、長
政の大憤激が飛ぶ。
基次が池田輝政のもとに身を寄せたと
聞くと長政は、”基次放逐の要請”を池
田家へ盛んに送る。
基次を同僚の池田輝政なんぞに与え
てたまるものか!と憤慨する長政は、
基次に対する報復は尋常でない執拗
なものであった。

”愛憎半ばする”想いが長政の心内を
満たしていた。
身寄りのない、いち浪人同然の基次を
引き立て、一角の大将格に抜擢した
のは、基次の才覚ばかりに起因する
ものではない。
長政の愛情も手伝って、基次を立身
出世させてやったという自負が長政
にはあった。
それだけにその恩人を裏切る基次に
それまで愛情を与えてきた分、憎さも
一塩であった。

躍起になって放逐!放逐!と怒鳴っ
てくる長政の執拗さにこれでは池田家
が迷惑に成るとして、基次は1611年
(慶長16年)、池田家の客分から退き、
大坂へと向かった。
あれだけ、諸大名がこぞって、基次を
欲しいと勧誘してきたのに、いざ基次
が出奔してみると、誰も迎え入れてく
れない。
どうやら長政がやたらメッポウ、諸大名
に書状にて、基次受け入れを拒否する
よう圧力をかけていたようだ。

基次は大坂の地で乞食同然の没落を
してしまう。そんな苦境に立たされた
基次に対して、長政は刺客を放つ。
基次を捕らえて、強制的に本国・筑前
へ護送し、出奔の罪で投獄しようという
のである。
大坂で捕らえられた基次は、強制送還
されそうになる。だが、”大坂の町に住
む者は我が民である”といって、豊臣
秀頼が基次の救済に乗り出してきた。
黒田家の主君格である豊臣家の仲裁
には従わざるを得ず、黒田家は手を
引いた。
こうして、豊臣家の恩義によって、窮地
を脱した基次は、豊臣家へのご奉公を
心に刻むようになる。

■1614年、大坂冬の陣が起こると、豊臣
秀頼に招かれ、大坂城に入る。
この時、基次の旧臣9人もはせ参じた
という。

■大坂冬の陣では、真田幸村らとともに
先制攻撃を主張したが淀殿や大野治
長らに受け入れてもらえず、徹底篭城
戦が布かれた。
戦闘が始まると木村重成とともに手勢
3000を率いて奮戦。
大坂夏の陣では、真田幸村、毛利勝永
とともに一計を立て、徳川方の大和方
面軍を迎え撃ったが濃霧のため、真田
隊、毛利隊が遅参。
基次はやむを得ず手勢2800を率いて
徳川軍の水野勝成隊、伊達政宗隊、松
平忠明隊ら2万8000もの大軍と激突。
奮戦する甲斐もなく、華々しく戦場に
散った。
享年56歳。

九州征伐、国人一揆鎮圧戦、朝鮮の役
、関ヶ原の戦いと歴戦を経て、天才的
な軍略の才を現した基次は、実力とも
に天下屈指の名将だった。
しかし、主君に半分恵まれ、半分恵ま
れなかった。
基次の悲運は、君臣の折り合いの悪さ
が招いた悲劇であった。武骨に生きる
基次は、卑怯な謀略を恥じと思って
いた。
しかし、天下泰平を実現するには、武
勇一片だけで方がつくものではない。
時には、苦々しい卑怯な謀略を駆使し
なくては、統一はおぼつかない。
黒田家が筑前52万石の大身を果たせ
たのも単なる武勇の家柄でなかったが
ためである。

智略を活かした戦争全体を見定めた
戦略を立てたことで、素早く紛争をなく
し、泰平の世を迎えることに貢献できた
のである。
この黒田家の活躍を家康は正当に評
価して、外様大名の黒田家を大身させ
たのである。
言わば、黒田家の恐ろしいまでの卑怯
な策謀は、天下泰平実現へ向けた、非
常手段であった。
その臨時の正当化を基次は認めなか
った。己の武勇の力を信じ、天才的な
軍略をもって、正々堂々天下平定戦を
成し遂げると考えたのだ。
基次は黒田家中においては、光の部
分であった。
策謀を駆使する影の部分が当主・孝高
・長政父子であった。
君臣の光と影が逆行していた。
家臣が正々堂々で、主君が裏の立役
者的、綿密な計画立案を行ったので
ある。
この黒田家独特の君臣間のギャップが
長政と基次の悲劇を生んだ。

長政は、優秀な人材を失い、基次は誉
れ高い名将でありながら、悲運な最後
を遂げざるを得なかった。
武骨一片に生きる基次らしい、戦場で
の最後は、彼にふさわしい死に場所だ
ったとも思える。
武骨者が誰でも夢見る義に報いる戦い
に腕を振るうことができたことが基次に
とって唯一の幸いであったろう。

最後の最後まで頑固一徹を貫き、義戦
で豊臣家へ恩義を報いた基次を長政
とて誇らしく思ったことだろう。
その武士の鑑とも言うべき、基次の血
統を惜しんだ長政は、後に基次の孫に
あたる又市(またいち)という者を召し
抱えている。
黒田家の御家芸となったドロドロとした
謀略の家筋を清廉潔白な基次の家筋
によって、抹消したかったのかも知れ
ない。
ある種、長政は基次を憎みながら、心
のどこかで、基次への立派な清廉な武
者振りに憧れを抱いていたのかもしれ
ない。