厳島の戦い(いつくしまのたたかい)とは?

厳島の戦い(1555年10月1日)は、戦国時代において毛利元就(もうりもとなり)大内氏の家臣である陶晴賢(すえはるかた)を打ち破った戦いであり、中国地方の覇権を決定づけた合戦です。
広島湾に浮かぶ
厳島(現在の厳島神社がある宮島)を舞台に、毛利軍が圧倒的不利な状況から奇襲作戦を成功させ、わずか4000の兵で約2万の大軍を撃破した、日本戦国史上屈指の奇襲戦として知られています。

この戦いの勝利により、毛利氏は中国地方の最強勢力となり、後の豊臣秀吉の天下統一にもつながる勢力基盤を築くことになります。


1. 厳島の戦いの背景

1)戦国時代の中国地方の勢力図

  • 大内氏(周防・長門・豊前・豊後など九州北部~中国地方を支配)
  • 尼子氏(出雲を中心とする山陰地方の大名)
  • 毛利氏(もともとは小さな国人領主、安芸国を拠点)

15世紀後半から、大内氏と尼子氏が中国地方の覇権を争う中、毛利氏は大内氏の家臣として勢力を拡大していました。

2)陶晴賢の大内氏乗っ取り

  • 大内義隆(おおうちよしたか)は、大内氏の当主でしたが、政治的な失敗や家臣の反感を買い、1551年、家臣の陶晴賢がクーデターを起こし、大内義隆を自害に追い込みます(「大寧寺の変」)。
  • 陶晴賢は、実質的に大内氏の支配者となりましたが、大内氏を支えていた守護大名の正統性を持たなかったため、多くの家臣や周辺勢力から反発を受けました。
  • 陶晴賢の居城は、周防国福川にあった富田若山城。

3)毛利元就の台頭

  • 毛利元就は、当初は陶晴賢に従っていましたが、大内氏の正統な血筋を持つ者を担ぎ出し、陶晴賢に対抗
  • さらに、毛利元就は大内氏の宿敵・尼子氏と一時的に手を組むことで、陶晴賢を孤立させる戦略を展開しました。
  • 毛利元就の居城は、安芸国にある吉田郡山城。

4)陶晴賢の反撃

  • 毛利元就の裏切りに怒った陶晴賢は、約2万の大軍を率いて、毛利氏の本拠地である安芸国へ侵攻
  • 毛利軍は4000の兵しか持たず、圧倒的不利な状況でしたが、元就は決して正面から戦わず、戦場を厳島へ誘導する巧妙な作戦を考えました。

2. 厳島の戦いの経過(1555年10月1日)

1)陶晴賢の厳島上陸

  • 陶晴賢は、大軍を率いて厳島にある「宮尾城(みやおじょう)」を包囲し、そこに立てこもる毛利軍を攻撃しようとしました。
  • しかし、これは毛利元就の罠であり、敵を狭い島に誘い込む作戦でした。

2)毛利元就の奇襲作戦

  • 1555年9月30日夜、毛利元就は暴風雨の夜を利用して、わずか4000の兵を船で厳島に上陸させました。
  • 奇襲部隊は未明に陶晴賢の本陣を急襲し、大内軍は大混乱に陥る

3)毛利水軍による海上封鎖

  • 陶晴賢の軍勢は海を渡って撤退しようとしましたが、毛利水軍が海を封鎖し、敵の撤退を阻止。
  • 陶晴賢は孤立無援となり、追い詰められて自害しました。

4)陶軍の壊滅

  • 陶晴賢の死後、大内軍は総崩れとなり、ほとんどの兵が討たれるか、海に落ちて溺死しました。
  • 毛利軍の圧勝となり、元就はこの勝利をもって中国地方の覇権を確立しました。

3. 厳島の戦いの意義と影響

1)毛利氏の中国地方支配

  • この戦いで毛利氏は一躍、中国地方最強の勢力へと成長
  • 陶晴賢の死後、大内氏は完全に衰退し、毛利氏がその領地を吸収しました。

2)毛利元就の「三本の矢」の教え

  • 毛利元就は、この勝利を通じて、一族や家臣団の結束の大切さを説き、「三本の矢の教え」(3本の矢を束ねることで強くなるという戦国時代の教訓)が有名になりました。

3)戦国時代の戦術の変化

  • 少数の兵力で大軍を倒す奇襲戦の模範例となり、後の戦国武将たちに大きな影響を与えました。
  • 特に「狭い地形に敵を誘い込み、補給を断ち、大軍を殲滅する」という手法は、織田信長や豊臣秀吉などの戦術にも影響を与えたと考えられます。

4)豊臣秀吉の台頭への布石

  • 毛利元就の子孫・毛利輝元は、のちに豊臣秀吉の中国地方制圧に協力し、毛利家は豊臣政権の主要大名となりました。

4. 厳島の戦いの戦略的成功要因

厳島の戦いは、単なる合戦ではなく、毛利元就の計画的な戦略と戦術が結実した勝利でした。その成功の要因をまとめると以下のようになります。

  1. 戦場を選んだこと:広い平地ではなく、島という補給の難しい場所に敵を誘い込んだ
  2. 奇襲のタイミング:暴風雨の夜に兵を上陸させ、敵が油断している未明に奇襲をかけた
  3. 海上封鎖の成功毛利水軍の力を活かし、敵の撤退ルートを完全に断った
  4. 敵の分断:兵力差を埋めるために、敵の主力を分断し、各個撃破を狙った。

5. まとめ

厳島の戦いは、毛利元就の知略が極限まで発揮された奇襲戦の名勝負であり、中国地方の歴史を変えた戦いだった。
この勝利によって毛利氏は一躍大勢力となり、後の豊臣政権や江戸幕府においても重要な大名家として生き残ることができました。
戦国時代の戦術としても、少数精鋭で大軍を打ち破る戦い方の模範となり、日本の戦史においても屈指の名戦として語り継がれています。