戦国時代、甲斐国(現在の山梨県)の武田氏と信濃国(現在の長野県)の小笠原氏は、信濃の支配をめぐって激しく対立しました。武田氏は信濃侵攻を進める中で、小笠原氏と何度も戦い、最終的に小笠原氏を信濃から駆逐しました。一方で、小笠原氏はその後も反抗を続け、織田信長の支援を受けながら武田氏と戦いました。その後、徳川家康の支援を得て、譜代の家臣として、活躍するに至りました。
目次
武田氏と小笠原氏の基本情報
項目 | 武田氏(甲斐国) | 小笠原氏(信濃国) |
---|---|---|
本拠地 | 甲府(躑躅ヶ崎館) | 松本(林城) |
主要人物 | 武田信虎、武田信玄、武田勝頼 | 小笠原長時、小笠原貞慶、小笠原秀政 |
勢力範囲 | 甲斐国 → 信濃・駿河・遠江など | 信濃国(特に松本周辺) |
同盟関係 | 今川氏、北条氏、上杉氏(時期による) | 村上氏、諏訪氏、織田氏、徳川氏 |
主要な戦い | 塩尻峠の戦い(1548年) | 塩尻峠の戦い(1548年)、天正壬午の乱(1582年) |
武田氏と小笠原氏の対立の経緯
① 信濃統一をめぐる争い(1542年~1550年代)
背景:
- 武田信虎(信玄の父)は、甲斐国内の統治を進めつつ、隣国の信濃への進出を試みた。
- 信濃国は、多くの国衆(地元豪族)が割拠する状態であり、戦国大名による統一は進んでいなかった。
- こうした中で、小笠原氏は信濃守護として影響力を持っていたが、周辺の村上氏や高梨氏などと対立しており、勢力は安定していなかった。
武田信玄の信濃侵攻(1542年~1548年)
- 1541年、武田信虎が追放され、武田信玄が家督を継ぐと、本格的な信濃侵攻を開始。
- 信濃北部の村上義清や南信濃の諏訪氏を攻め、着実に勢力を拡大した。
- 小笠原長時は、村上義清らと連携し、武田軍の侵攻を防ごうとした。
塩尻峠の戦い(1548年)— 小笠原氏の大敗
経緯:
- 1548年、小笠原長時は、武田軍の信濃侵攻を阻止するため、塩尻峠(長野県松本市周辺)で武田軍と激突。
- 小笠原軍は村上義清の援軍を得て1万の兵力を集めたが、武田信玄の戦術(騎馬隊の活用)により敗北。
- 小笠原氏の本拠地・林城(松本城)が落城し、小笠原長時は越後(上杉謙信の元)へ逃亡。
戦い | 結果 |
---|---|
塩尻峠の戦い(1548年) | 小笠原軍の敗北、小笠原氏の信濃撤退 |
② 小笠原氏の再起と織田・徳川との連携(1570年代~1582年)
小笠原氏の亡命と再起
- 小笠原長時は上杉謙信のもとへ逃れたが、やがて京へ移動し、織田信長に仕える。
- その後、長時の子小笠原貞慶(さだよし)が登場し、織田氏や徳川氏と連携して信濃奪還を目指す。
武田氏の滅亡と小笠原氏の復活(1582年)
- 1582年、織田・徳川連合軍が武田勝頼を討ち、武田氏は滅亡(天目山の戦い)。
- 小笠原貞慶は、織田軍の支援を受けて信濃に戻り、旧領を回復。
- しかし、同年の本能寺の変(織田信長の死)により情勢が混乱し、上杉氏や北条氏との争いが続く。
年 | 出来事 |
---|---|
1570年代 | 小笠原貞慶が織田信長・徳川家康と同盟 |
1582年 | 武田氏滅亡 → 小笠原氏が旧領回復 |
1582年 | 本能寺の変により再び混乱 |
③ 江戸時代以降の小笠原氏と武田氏の末裔
- 小笠原貞慶は、豊臣秀吉の時代に徳川家康の家臣として生き延び、江戸時代には松本藩の藩主となった。
- 一方、武田氏の遺臣たちは徳川家康に仕え、一部は「武田信吉」(家康の子)が武田の名跡を継ぐ形で存続したが、若くして、信吉が病没したため、武田氏の名跡は絶えた。
- 小笠原氏は松本藩主を経て、後に小倉藩(福岡県)へ移封される。九州の小幕府と呼ばれるほど、江戸幕府での地位を獲得するまでになる。
氏族 | 戦国時代後の動向 |
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小笠原氏 | 松本藩 → 小倉藩(江戸時代も存続) |
武田氏 | 一部は徳川家康に仕え、武田信吉が名跡を継ぐ |
まとめ
武田氏と小笠原氏の関係
- 武田信玄が信濃侵攻を進める中で、小笠原氏と激しく対立。
- 1548年の塩尻峠の戦いで小笠原氏は大敗し、領地を失う。
- 小笠原氏は織田信長・徳川家康の支援を受け、1582年に信濃を奪還。
- 江戸時代には、小笠原氏は松本藩主、武田氏は徳川家臣として存続。
戦国時代を通じて、武田氏と小笠原氏は「侵攻と抵抗」を繰り返した関係でした。特に塩尻峠の戦いは、信濃の支配権をめぐる大きな転換点となり、その後の戦国時代の勢力図を大きく変えました。


















