毛利 隆元
もうり たかもと
1523-1563
享年41歳。


名称:少輔太郎、備中守、大膳大夫、
従四位下


居城:安芸吉田郡山城

■1523年、毛利元就の長男として
誕生。

■1537年、14歳の時、大内家へ人
質に出され、同年大内家の本拠地・
山口にて元服を果たし、隆元と名
乗る。
大内家当主・大内義隆から『隆』の
一字をもらっている。

■1546年、元就より毛利家の家督を
受け継ぎ、元就の後見の下、毛利
家当主を勤めていく。

■常に元就の智略に従い、あまり活
躍の場がなかった隆元は、甚六
総領と見られていた。
毛利家が安芸・周防・長門の三国
を領有した時点で元就は、隠居を
決意すると自分を見捨てるのかと
隆元は文句の書状を元就に宛て
ている。
隆元として見れば、元就の雄略を
支え続ける一武将に過ぎず、元就
が抜けた毛利家ではまだまだ不安
材料がひしめいていると考えてい
たのである。

■元就の智略には到底及ばない隆
元も、財政手腕はすぐれていたら
しく、隆元の長男・輝元が毛利家家
督を継ぐと、収入が一気に二千貫
も減少した。元就、元春、隆景ら
毛利家家臣一同原因を究明しよう
としたが皆目見当がつかず、改め
て亡き隆元のすぐれた財務才覚を
惜しんだという。

■毛利家の最大の不安材料であった
尼子家も毛利軍の総力戦により、
瀕死の状態となる中、九州の雄・
大友氏が軍を中国地方に進めてく
るという知らせが元就らに入る。
尼子の包囲をそのままに、隆元ら
が九州へ軍を動かし、大友氏との
講和を成立させ、後顧の憂いを断
つことにした。

外交手腕を発揮してその成果を手
土産に尼子軍を包囲する元就の下
へ戻るべく、帰路に着いた隆元は途
中、尼子家の牙城である白鹿城攻
撃に向かう。
しかし、突如体調が悪化し、急死
してしまう。享年41歳。

一説に親毛利派の和智誠春が祝
いの席を設け、隆元帰還を祝った
席上で尼子の刺客の手にかかり
謀殺されたという。
後に隆元の護衛として同席してい
た赤川元保がその責任をとって
切腹させられている。
いずれにせよ、元就は信任してい
た隆元を失ったことでひどく狼狽し
、絶望にくれたという。
隆元亡き毛利家は天下の覇権を
争う逸材を欠く事と成り、以後天
下に覇を唱えることを控えるに至
った。