毛利 元就
もうり もとなり
1497-1571
享年75歳。

名称:松寿丸、少輔次郎、治部少輔、
右馬頭、陸奥守、従四位上


居城:安芸吉田郡山城

■1497年3月24日、毛利弘元の次男
として誕生。

■1506年、父・弘元が39歳で病没。
兄・毛利興元が家督を継ぐが、
その兄も酒害のため24歳という
若さで没した。

■兄・興元の子・幸松丸が2歳で家督
を継ぐが8歳で夭逝したため、元就
が毛利家の家督を継いだ。

■元就は大内家と尼子家の2大勢力
の狭間で巧みな外交戦術で侵略
を回避した。

■1517年、有田城合戦で初陣を果た
した元就は、一騎当千の荒武者
として知られる元安芸守護・武田
元繁と戦う。猪突猛進の元繁に
対して、元就は戦うと見せて、すぐ
さま退き、それを追撃する元繁を
くさむらに潜ませていた弓隊で
一斉射撃させ、これを討ち取ると
という華々しい武功を立てた。

■元就は一族と同様に親大内派で
あったが、尼子氏の勢力拡大に
伴い尼子氏に属していた。
親大内派の毛利家当主・元就を
喜ばない尼子家重臣・亀井安綱
は、親尼子派で元就の異母弟・
元網に目をつけ、謀叛を扇動した

しかし、いち早く忍者の知らせで
この策謀を知った元就は、先手を
打って、元網とその一派を断罪に
処して、この難を乗り切った。

■元就は一族の結束を整えつつ、
安芸一国の統一を目指した。
まず、手始めに安芸の有力国人・
宍戸元源の嫡孫・隆家に長女を
嫁がせ、一族同様に扱うことで
抱き込みに成功する。

多少の力を得た元就は、尼子家
を裏切り、大内家に属した。
この動きを知った尼子家は尼子
国久が率いる新宮党3000を毛利
家掃討に出陣させた。
しかし、元就の智略と宍戸元源の
兵力により、尼子軍を犬飼平合戦
で撃退した。
犬飼平合戦で尼子新宮党3000の
軍が敗北に喫した知らせを受けた
尼子家は1540年9月5日、尼子家
当主・尼子詮久率いる3万の大軍
を出陣させた。
尼子軍は毛利家の本拠・郡山城
に迫った。
これを迎え撃つ毛利軍は2400の
小隊にすぎず、郡山城に篭り、
攻城戦に臨んだ。
篭城戦で善戦する毛利軍にほどな
く大内軍が援軍を派兵。
陶隆房率いる大内軍は奮戦し、
尼子軍は尼子久幸を失い撤退
した。
この機に乗じて元就は、余勢を
駆って武田家残党がいる佐東銀
山城を攻撃。これを攻略して、安
芸守護武田家はここに滅亡した。

■1542年、大内家は宿敵・尼子家を
滅ぼすべく、1万5000の大軍を
擁して尼子家本拠地・出雲月山
富田城(がっさんとだじょう)を
包囲した。
元就をはじめ安芸国人衆もこの
軍に参軍しており、落城も時間
の問題と思われた。

しかし、吉川興経等の国人衆が
一斉に大内方から尼子方へと
寝返り、不意を突かれた大内軍
は大敗に喫した。
元就も命危うしとなるも、渡辺太郎
左衛門以下主従七騎が身代わり
となり、窮地を脱した。
これを”元就七騎落ち”という。

■その後も元就は安芸一国統一を
目指し、嗣子なく当主が病没して
いた竹原小早川家に目をつけ、
元就の三男・隆景を養子として
送り込んだ。

ついで、月山富田城攻め敗戦で
当主・小早川正平を失い、嫡子・
繁平が失明していたため、後継者
争いをしていた沼田小早川家に
目をつけ、一部の重臣を抱き込み
竹原小早川家を継いでいる隆景
を養子として、小早川家を統一し
てしまう。

■次に元就は御家騒動を起している
吉川家に目をつけ、吉川家の重臣
を抱き込み、吉川興経を無理矢理
隠居させ、元就の次男・元春を養
子として家督を継がせた。
さらに不満を抱く興経を謀殺し、
毛利家譜代の家臣36名を吉川家
に送り込み、元春を支えさせ、完
全に吉川家を乗っ取ってしまう。

■安芸の両川(りょうせん)を傘下(
さんか)におさめた元就は当時、
容貌魁偉(ようぼうかいい)で
不評を持つ、熊谷信直の娘と
元春を婚姻させ、熊谷家の絶対
的な忠誠を取り付けた。
熊谷信直の娘と元春は周囲の
心配をよそに以外にも相思相愛
の仲となる。

■一方で元就は、家中においても大
改革を推し進める。
毛利家と家臣との主従関係は当
時の守護大名と同じく、当主と
有力国人との同盟関係で成り立っ
ていた。

これをより結束の固い主従関係に
すべく元就は、毛利家に直毛する
直臣的関係への転換を図る。
そこで目をつけたのは毛利家最大
の勢力を持つ井上一族であった。
毛利家家臣団の半分の勢力を持
ち、下剋上もおきかねない勢いを
誇っていた。

元就は、大内家に内諾を取り付
けた後、1550年、井上元兼とそ
の一族36人を処断し、毛利家
家臣団の主導権を握った。

■1551年、大内家の重臣・陶隆房が
主君・大内義隆に反逆し、これを
自刃に追い込んだ。
その後、大内家当主に大友晴英
を迎え入れ、これを大内義長と改
名させた。
陶隆房は名を晴賢(はるかた)と
改名し、大内家の実権を握った。

元就は当初、陶晴賢に属したが、
晴賢の専横政治を認めない石見
津和野三本松城城主・吉見正頼
が挙兵すると、大内家の安芸方
面への防備が手薄に成ったスキを
狙い、1551年5月12日大内義隆の
弔い合戦を宣言して挙兵した。

元就は安芸国内の陶方の諸城を
攻略し、反撃に出た陶方の宮川房
長が率いる3000の兵と戦いこれを
撃破。大将の宮川房長を討ち取る
戦果を挙げた。

陶晴賢は戦上手との定評がある
江良房栄(えらふさひで)を大将
とする軍勢を新たに毛利家へ差
し向けてきた。

房栄は、かつて大内家の軍事行
動で元就とともに軍を動かしたこ
とがあり、元就の戦術全てをよく
知り尽くしていた。
元就としても合戦で房栄と戦って
は甚大な被害を免れないと考え、
謀略を駆使して房栄除外をもくろ
んだ。
忍者を使い房栄が陶家を裏切ると
風評を流させ、晴賢を疑心暗鬼に
陥れた。
猜疑心(さいぎしん)に駆られた
晴賢は自らの手で名将・房栄を
謀殺してしまう。
こうして、元就は名将となだかい
江良房栄と戦わずして、討ち滅ぼ
すことに成功する。

■毛利家と陶晴賢との熾烈を極め
た戦いになる前に尼子家がこの
紛争に参入してこないよう、元就
は策謀をめぐらす。

尼子家随一の武勇を誇る新宮党
を率いた尼子国久と尼子家当主・
尼子晴久との不仲を利用し、謀略
をもって国久と毛利家が通じてい
ると晴久に思い込ませる謀略を
行った。
1554年11月、晴久は叔父・国久を
だまし討ちに処し、新宮党を攻め
滅ぼしてしまった。

■こうして尼子家の内乱でその勢力
をそぐ一方、元就は陶家の掃討
作戦を考案。

厳島に宮尾城という小城を築き、
小早川隆景に守備させる。
陶晴賢の忍者にニセの情報を
流し、厳島に城を築いたことは
失敗だったと元就が思っている
ことを陶方にわざと知らせた。

厳島を取られれば、戦略上毛利家
が不利になると思わせ、陶方に
総攻撃を仕掛けるよう仕向けたの
である。

1555年10月1日、狭い厳島に2万
の大軍を率いて上陸した陶晴賢
は宮尾城を包囲し、一気に攻略
しよう試みた。

一方、小早川家重臣・乃美宗勝
の説得で瀬戸内海を我が物とす
る村上武吉を毛利方に引き込む
ことに成功する。

村上武吉が率いる村上水軍の
援軍を得た毛利軍は、狭い厳島
の陸海から陶軍を挟撃。
厳島に乗りつけた船団を全て毛
利軍に焼き払われてしまった
陶軍は逃げ場所を失い陣営は
崩壊する。
わずか4000の毛利軍の前に勇将
・陶晴賢はなすすべもなく敗退、
厳島の地にて自刃して果てた。

■強敵・陶晴賢を厳島に葬ると元就
はその所領である周防・長門の
諸城を次々と攻略していく。

大内家を支援する九州の雄・大友
宗麟に対して、大内家の九州領土
を切取り勝手にする条件を毛利家
が認めるかわりに大友家に大内家
への支援を断念させることに成功。

後顧の憂いをなくした元就は、快
進撃で大内家の本拠地・山口へ
軍馬を進めた。

■1557年、名ばかりの大内家当主・
大内義長は毛利軍の電撃戦に
屈し、自刃して果てた。
ここに中国地方の名門・大内家は
元就の智謀を駆使した軍略の前
に滅亡したのである。

■安芸・周防・長門の三国を領有した
毛利家は、かつての弱小大名の影
もなく、中国最強の大名へと躍進
したのである。

毛利家の栄華が成ると元就の次
男・吉川元春、三男・小早川隆景
はそれぞれ養子として継いでいた
家の繁栄に夢中となっていった。
これを心配した元就は高名な訓
戒状を示した。これを”元就の束
矢の訓”という。
毛利両川(もうりりょうせん)という
組織形態を示した元就は、あくま
でも毛利家宗家を盛り立てていく
ことを示し、吉川家、小早川家に
対して、毛利宗家の支柱となる役
割を担わせたのである。

■1562年、石見銀山を守る本城常光
を降伏させた元就は、息つく暇も
なく1563年、尼子家本拠・出雲攻
略戦を開始した。

まず、尼子倫久が率いる1万の尼
子軍を撃破し、出雲白鹿城を攻略

尼子家殲滅(せんめつ)もあと一歩
と迫った。しかし、事態は急変する
。元就の長男で毛利家当主を継
いでいた毛利隆元が九州の大友
氏を牽制する軍事行動を終えて、
帰国する途中、急死してしまったの
である。
順風満帆の航海であったはずの
毛利家に突如として影が差したの
である。
元就は気力を振り絞って、尼子家
掃討を終らせなければ、毛利家の
安泰はないと考え、総力戦に出る
。尼子家本拠・出雲月山富田城を
包囲し、毛利軍の強襲が始まった
。窮地に追い込まれた尼子軍も
尼子十勇士の逆襲をもって、かろ
うじて、毛利軍を撃退した。

力攻めは難しいとなると元就は
すぐさま兵糧攻めへと移った。
尼子軍からの投降者や逃亡者は
全て追い返し、一日でも早く城内
の兵糧をなくそうと勤めた。

苦境に立たされた尼子軍に元就
は容赦なく次々と謀略をかけてい
く。
尼子家一番の忠臣・宇山久信
が毛利家に内応していると風評を
流し、疑心暗鬼に取り付かれた
尼子家当主・尼子義久に久信を
謀殺させたのである。
結束固い尼子軍の陣営では歩調
が乱れだした。これを見届けた元
就は、堅固な包囲を緩め、投降を
許す行動に出た。
空腹に耐え切れない逃亡者と忠
義心を失った武将が次々と投降し
、城内は2000を割る兵数へと落ち
込んだ。

この弱りきった敵方に力攻めをす
ることなく元就は、尼子義久をはじ
めとする全将兵の命を保証すると
いう降伏開城の和議を持ちかけ、
万策尽きた尼子義久はついに降
伏。ここに名将・尼子経久を輩出し
た中国の雄・尼子家は滅亡したの
である。

■1571年、尼子家を滅亡し、毛利家
の安泰を見届けた元就は、毛利
家を継いだ孫の輝元に天下の覇
権を争ってはならないと遺言して
病没した。
食道癌であったとされる。
享年75歳。