あさくら かげたけ 1539?-1575 享年39?歳。 名称:孫三郎、景建とも書く。 安居景健(あごかげたけ) ■朝倉景隆の子。 ■1570年、織田信長は、朝倉氏討伐を決行。 織田軍は越前敦賀郡に侵攻し、怒とうの勢いを見せ、瞬く間に朝倉氏領土の天筒山・金ケ崎城を落とした。 織田軍の強攻に対して、朝倉軍も軍勢を出撃。 景健も1500ほどの手勢を率いて織田軍を迎え撃とうとした。 幸運にも浅井氏が昔のよしみで朝倉氏に寝返り、織田軍を挟撃する体勢を見せてくれた。 これによって、織田軍は金ケ崎の陣所を払い、撤退した。 こうして、織田氏との最初の決戦は、織田軍の撤退によって、幕を降ろした。 ■1570年、金ケ崎の撤退から、一息ついた織田信長は、再び合戦を起こした。 朝倉氏に寝返った浅井氏攻めを敢行したのである。 この織田軍の動きに対して、朝倉氏も浅井氏救援のために、大軍を派遣。この大軍の総大将に景健が就く。 ここに織田・徳川連合軍VS朝倉・浅井連合軍の一大決戦が行われた。 この姉川合戦で、朝倉軍は数で劣る徳川軍を相手に攻勢を仕掛けるも、ままならず。三河武士の粘り強い戦いに苦戦を強いられた。 合戦はこう着状態を見せていたが、徳川軍の一部隊が朝倉軍の横合いを攻め始めると形勢が変わってしまった。 朝倉軍は、正面と横からの二正面攻撃にさらされ、軍勢は打ち崩されてしまった。 こうして、姉川合戦の勝敗は決し、景健は朝倉軍を率いて、越前へと退却した。 ■その後、景健は、近江坂本にて織田軍と対戦。 織田信治、森可成らをはじめとする織田軍兵750人を討ち取るという大戦果を挙げている。 ■1573年、織田軍との最終決戦に奮戦していた、景健であったが、主君・朝倉義景が一族の裏切りに会い、自刃して果てると景健は行き場を失い、織田軍に投降した。 その後は、領土安堵を得ることができ、織田軍団に加わった景健であったが、1575年越後で大規模な一向一揆が起こるとその平定戦に出撃。 平定後は、織田信長の怒りをかい、自刃して果てた。 |
朝倉 景健
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