あさくら かげあきら 1530?-1574 享年45?歳。 名称:孫八郎、式部大輔、土橋信鏡 ■景鏡は、朝倉家庶流の出である。 庶流の出ではあるが、朝倉家中では、かなり重きを成した人物で、家中で高い位に就いていた。 ■1564年、朝倉軍の総大将として、加賀へと侵攻を果たす。 同年、景鏡は越前に迎え入れられた足利義昭に対面。 朝倉家筆頭として、主君・朝倉義景の名代として諸事に勤めた。この時、景鏡は義昭より式部大輔に任官され、後には、越前大野郡司となっている。 ■1570年、越前へと侵攻してきた織田軍に対して、これを迎え撃つべく、景鏡は出陣。 浅井氏の加勢もあって、織田軍が金ケ崎より撤退すると景鏡は朝倉軍2万を率いて、これを追撃した。 その後は、朝倉軍総大将として美濃国へと侵攻している。 ■1573年、主君・朝倉義景は、浅井氏救援のため越前を出立するも、織田軍に猛攻され、撤退。 越前一乗谷も陥落すると、景鏡は自領である越前大野へ義景を迎え入れた。 義景に再起を促したものの、途中で心変わりし、織田軍の稲葉一鉄の誘いにのり、主君・義景に謀反を起こした。 義景は賢松寺にて自刃し、景鏡は義景の首を持参して、織田軍に投降した。 これにより、景鏡は所領の安堵を得て、新たに織田軍団に加わる事となった。 織田軍団に加わった景鏡は、姓を居城にちなんで土橋と改め、名も信長にあやかって、信鏡と称した。 ■1574年、富田長繁の陰謀により、越前にて一向一揆が起こると信鏡は、これに攻め込まれ、平泉寺に篭って戦った。 奮戦むなしく、一向一揆に攻め立てられ、信鏡は自刃して果てた。 |
朝倉 景鏡
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