あさくら よしかげ
1533-1573
享年41歳。


名称:孫次郎、延景、左衛門尉
居城:越前一乗谷城


■朝倉義景は、越前国守護である朝倉孝景の嫡男として生まれた。

 父・孝景は朝倉家四代目当主であり、義景はその跡目を継ぎ、五代目当主となる。
義景の母は、越前国とは隣国である若狭国守護・武田元信の娘(高徳院)である。

■1548年父・孝景が波着寺を参詣している途中、急死すると、義景は弱冠16歳にして朝倉家の家督を継いだ。

■1552年、義景は足利幕府13代目将軍・足利義輝から一字を拝命し、延景から義景と改名している。
また、左衛門督にも任官された。

■1565年、将軍・足利義輝が松永久秀、三好三人衆らによって、討たれると、その実弟・覚慶(後の足利義昭)が越前へと逃れて来た。

義景は覚慶を丁重にもてなし、越前国一乗谷に住まわせ、1567年には覚慶を元服させている。

■足利義昭を頂いた義景は、室町幕府の再興という大義名分を得ており、天下取りに一番近い戦国大名となっていた。

しかし、その前途有望の義景に暗い影が指した。
1568年、義景が寵愛していた、正室の小宰相が死に、その一粒種であった、阿君(くまぎみ)も後を追うように急死してしまった。

家族思いである義景はこの一件によって、大いに落胆し、あらゆることがどうでもよくなってしまった。
義昭を奉じて上洛を果たそうとする野望も消えうせてしまい、日々をむなしく過ごしてしまう。

義景の野心の無さに見切りをつけた足利義昭は、尾張国で威勢を挙げる織田信長に幕府再興を頼む事となる。

■上洛を果たした織田信長は、近隣諸国に対して、織田家に迎合するよう命令を出す。

この織田信長の上洛命令に対して、義景は拒否し、織田氏に拮抗する姿勢を見せる。

この朝倉氏の姿勢を見て、織田信長は朝倉氏討伐を断行。越前へと大軍を持って、なだれ込んできた。

窮地に追い込まれた義景であったが、幸いにも昔からの同盟を結んでいた近江の浅井氏が織田氏から離反してくれた。

これによって、前後を敵に囲まれた織田軍は、窮地に立たされた。
この絶好の機会を得た朝倉氏は、撤退する織田軍を追撃する。

だが、織田軍の殿軍である羽柴秀吉らが奮戦し、織田軍に大打撃を与えることができなかった。
この絶好の機会を逃した事は、朝倉氏にとって、その後の織田氏との盛衰を分ける起因となった。

■1570年6月、浅井氏が領する近江に侵攻してきた、織田・徳川連合軍に対して、義景は援軍を派遣。
同盟を結んでいる浅井氏の救援を目的とする。

しかし、この大事な決戦となる機会にあっても、義景は城は、戦場には出向かず、朝倉軍の総大将は、朝倉景健が勤めている。

1万の大軍をもって、浅井氏救援を行った義景であったが、姉川合戦において、敵方の徳川軍を相手に苦戦を強いられた。

朝倉軍は、数で劣る徳川軍相手に攻めあぐね、ついには、徳川軍の部将・榊原康政が機転を利かせて衝いた横合いからの奇襲攻撃によって、朝倉軍はもろくも打ち崩されてしまう。

朝倉軍が打ち崩されたことをきっかけに、姉川合戦は織田・徳川軍の攻勢一色となった。
こうして、朝倉軍は敗北した。

■その後、朝倉軍も一時だけ、織田信長を近江志賀の陣で、追い詰める成果を挙げたが、信長の巧みな外交によって、信長を討ち滅ぼすことができなかった。

■1573年、いよいよ織田信長が、浅井氏を討ち滅ぼす攻勢を見せると、義景は自ら大軍を率いて越前を出発。
浅井氏救援へと急いだ。

しかし、越前へと引き返す退路を絶たれそうになったため、義景は慌てて本国へと引き返そうとした。
そこのところを、織田軍に奇襲され、無残にも義景は大敗を喫した。

■朝倉氏追撃の手を緩めない織田軍に対して、朝倉氏は何もできず、朝倉氏本拠の一乗谷もあっさりと陥落し、義景は、一族の朝倉景鏡を頼って、越前大野へと退却した。

しかし、途中で景鏡の裏切りに会い、進退窮まった義景は、賢松寺に逃れ、そこで一族の裏切りを恨みながら自刃して果てた。
享年41歳。